第3話「愛わかつもの」 3
あのバス事故で奇跡的に助かった――違う。助けられたあたしは現在、二人の心を預かっている。
『二人』とは鈴木田さんと大下梨夏さん。
鈴木田さんの心が帰るべき身体は、もうない。
そして大下さんの帰るべき身体は、不治の病に侵されていた。
――あの時。
横転したバスの中で気を失っていたあたしは、鈴木田さんの大声で目覚めた。抱き起されたあたしは、それが鈴木田さんの覚悟の行動だったとまでは、分からなかった。
そして、なんとか頭上の窓にとり付こうともがくあたしを、助けてくれた人がもう一人いる。
それが大下さんだった。
どうして、そんな大事なことを、あたしは忘れていたのだろう。感謝の思いはそのまま後悔となって、あたしを責めた。
(あたしなんか、助けてもらう価値なんてなかった――)
ついさっきまで、あたしは大下さんが早く出て行けばいいのにと、思っていたのだ。
(助かる資格、ないよ……。こんな自分勝手な――)
代われるものなら、代わりたい。本気で、そう思った。
(大下さん……。聞いてますか? あたしの体、使ってください。でないと、あたし……)
なんでもいい。大下さんの返事が欲しかった。大下さんに報うこの気持ちを、分かってほしかった。それだって身勝手な自己満足だというのは、分かっている。だけどあたしには、その程度しか思いつけない。いったい、今自分がどうすればいいのか、まるで分からないのだから。
そのうち、あたしの心の奥深いところから、大下さんの溜息が聞こえてきた。きっと怒りを隠さない、威圧的な言葉が続くだろう。それがあたしには相応しい。
「――なに? 私に、あんたの体で生きて行けって言うの?」
「はい……よかったら……」
「それこそ大きなお世話よ。私は戻るって言ってるでしょ? それに、なんで私があんたの為に、してやんなきゃいけないのよ?」
「違くて……。せめてあたしの体を使ってこれからの人生――」
「はぁ!? 中身がどうあれ外見はあんたよ? 本気でお断り。この程度の失敗に耐え切れずに、逃げだすようなヤツの体なんて、使いづらくってしょうがないしね」
「…………。」
「図星でしょ。あんたはただ、都合が悪くなって逃げてるだけ。自分のこと天使とでも思いたいの? 悲劇のヒロインやってんじゃないわよ?」
「そんな――。あたしそんなつもりじゃ……」
「……? じゃあどんなつもり? 目の前にいる男と私は付き合ってた。婚約とかはこの男が勝手に言ってる事だけど、それじゃあ、あんた、結婚できるの? この男と――?」
あたしの中の混乱を知らずに、上岡さんもお母さんも、こっちを見ている。あたしはどちらも真っすぐに見れないまま、大下さんの質問に答えた。
「――できます」
それは心の声にはおさまり切れず、あたしの口をついて出たかも知れない。
大下さんはすぐにいくつかの言葉をあたしに投げつけたけど、どれも意味が分からなかった。それ程にあたしは疲れ切って、もう、色んな事がどうでもよくなってきている。
そして、上岡さんに向けて、あたしは語り始める。
「大下梨夏さんは、あたしの中に居ます――。大下さんはあのバスで、あたしを助けてくれて。あたしが脱出できた後、じゅうぶん逃げ出す事は出来たのに、しなかった――。あたしはそれが意味わかんなくて、混乱して、ショックで。でも、今、分かったんです。大下さんは、あなたの為に、助かる事を諦めた――」
あたしは自分が何を言いたくて、何を言い出したのか、よく分からない。お母さんがあたしの両肩を抱いてくれた。上岡さんは一つ頷いて、黙っている。
あたしはしゃべり続けた。
「あたしはまだ、本当に人を好きになった事が、無いと思う。そして、大下さんの想いを知って、あたしは怖いです――。人を好きになるって、こういう事なんだ。好きな人の未来を思って、自分は消えてく。好きな人が、早く次に進めるように。心に重荷を背負わぬように――」
あたしの喋っていることは、間違っているかも知れない。大下さんの言いたい事とは、違っているかも知れない。だけど大下さんが、もう何もしゃべらなくなってしまったから、あたしは大下さんの眠る病室の扉を見つめながら、言葉を途切らすことができない。
「たった今から、あたしは大下さんです。ごめんなさい……見た目は違うけど。あの事故で、病気で、できなくなった事を、あたしの体でしてください!」
みんなあたしの気が、おかしくなってしまったと思っているだろう。両肩からお母さんの手が離れ、上岡さんの視線は熱を失った。そして病室の扉が開き、看護師が一人、悲痛な表情でこちらに歩いてくる。
「意識が戻られました。上岡さん、鷲尾美弥子さん、病室へどうぞ。大下さんがお二人をお呼びです――」
あたしはこの時、冷水を浴びせられたように目が覚めて、自分の中の異変に気付いた。
(――いない!? 大下さんが、あたしの中にいない!? まさか)
棒のようになった脚は病室へと進むことを拒み、それでも頑張って進むと、次から次に涙がこぼれ落ちる。
「美弥ちゃん……。多分、彼女とお別れだ。しっかりしろ。彼女が選んだことだ」
「鈴木田さんっ!? だけどっ――!?」
「彼女は君を呼んでる。急ごう――」
鈴木田さんの後押しで、あたしは病室へと体を進めた。
全体的に真っ白で冷たい部屋に入ると、いつも通りつまらなそうな表情の大下さんが、天井からこちらへと視線を下した。