第2話「葬式と失恋のタンゴ」 5
忘れてしまう一日がある。
忘れられない一日がある。
あたしは昨日、後者を経験した。この先ずっとが忘れられない一日の連続になるのかも知れない。それとも、どんな状況にも人は慣れるというから、何気ない一日となっていくんだろうか。(それは無いか……多分。)
自分の部屋のベッドでぼんやりしていたあたしは、漂ってくる玉子焼きの香ばしい匂いにつられて、キッチンに向かった。
そこではお母さんが、久しぶりに朝食を作るのだからと張り切ったハミングで、フライパンを揺らしていた。スナックを切り盛りするお母さんの朝は、普段は遅い。
「あら、おはよう。美弥。よく眠れた? 体どっか痛いところない?」
お母さんは今日もすっぴんで、四十代だけどかわいくおさげなんかしている。一応独身だし、あたしは鈴木田さんも同じ映像を見ている事を思って、ぎこちなく視線をそらしながら言った。
「おはよ。全然だいじょうぶ! お腹空いた! 学校も早めに行けると思う」
聞かれてもいない学校の話題を持ち出したのは、逆に聞かれるのをシャットアウトするためだった。もちろん、あたし以外の心を二人分も抱えたまま、学校へなんか行けない。行けたとしても、それには色々と心の整理が要る。
「お葬式のこと、わかったわ。美弥の命の恩人さんは、鈴木田さんっていうのね。残念な事になったけれど、告別式は明日――。お母さんも行くから……」
その言葉に、あたしの中の鈴木田さんが、反応するのが少し分かった。
「調べてくれたの? お母さん、ありがと……」
あたしはそれだけ言うのが精いっぱい。でも、意外な返事が返ってきた。
「ううん、教えてくれた人が居るの。例の、ほら、失礼な新聞記者。なんでも鈴木田さんの病院にも行ってて、救急車から搬送される鈴木田さんから直接、言葉を預かってるんですって。告別式で会いましょうなんて言ってたわ。ほんっと非常識な人――」
あたしは、なんだか急に怖くなった。あの記者が、また、あたしの前に現れる。
鈴木田さんの死を宣告した男。失礼で不潔で、人の秘密を漁る最低の人間。
(「ね、鈴木田さん? 最後の言葉って……覚えてる?」)
あたしは、心の中の鈴木田さんに、震える声で言った。
(「分からない。俺自身は、バス事故の時点でもう記憶が無いから。多分、深層心理とかで、なにか口走ったんだろうな? 恥ずかしい内容じゃない事を祈るよ――」)
そう言って鈴木田さんは茶化したけど、あの記者は多分、それをあたしにぶつける気だろう。あの駐車場でも、「また、いずれ」なんて言ってたし、今度は頼みもしない事を教えてきた。確か名前は――横北新報の事件記者――上岡文也。
あたしは一気に憂鬱になって、口に入れた玉子焼きは、だけど美味しかった。
それからシャワーを浴びたり(もちろん鈴木田さんには目を閉じていてもらった)、音楽を聴いたりしてのんびりしたけれど、やっぱりリラックスできない。
「ねえ、お母さん? 昨日病院で、あたしの感じが変わったって言ったよね? どうしてそう思ったの? ううん、気にはしてなくて。単純になんでかなーって」
暇は会話を生む。でもあたしは、あまりいいことを聞かなかったかもしれない。
お母さんはそれ程、考え込むような表情になった。でも、その後すぐに笑いながら言った。
「恋よ。恋する乙女。そんな表情だった。悲しそうで嬉しそうで。ごめんね。お母さん、美弥があんな大変な時なのにそんな風に思って――」
(恋かよー!?)
あたしは数秒絶句しながら、自分を問いただす。
(あたしが恋とか? 鈴木田さんに!? ないない!! あるわけないっ!?)
(「おい……そこまで否定するなよ……。おじさん傷つく……」)
鈴木田さんが笑いながらそう言うと、あたしもつい吹き出した。お母さんはそんなあたしを、不思議そうに見ている。
「ねえ? お母さん、それ本当そう思った? あたしほんとにそれは無いって! でもさ、好きでも何でもない人とずっと一緒に居たりしたら、どうなるのかな? 昔の女って、お見合い結婚とか、相手を知らないですることもあったんでしょ?」
あたしの口は、急に滑らかだ。
「そう……ね。ずっとって、四六時中? なら、なるわよ。断言する。それが『愛』を超えた『情』ってもんよ? どうしたの、美弥? そういう人いるの?」
お母さんはやっぱり鋭い。このままだと、あたしの中の鈴木田さんの事がばれそうに思ったあたしは、さり気なく話題をそらしたりした。
「ねえ、鈴木田さんの事、あたしマジで好きにはならないと思うから! 安心して!」
これで、この話は終わりにしようと思う。だいいち、鈴木田さんの年齢は、あたしよりお母さんの相手だ。あたしにとってはお父さん――。それなら『あり』かもと思う。
もちろん、お母さんがOKを出せばの話だが。
「ったく、俺だってわきまえてるよ。たとえどんな状況だろうと、美弥ちゃんは俺の妹みたいなもんだ。実際一番下の絵里は二十三才。美弥ちゃんとそうは変わらないよ」
否定する鈴木田さん。ちょっと無理してるとも思えたから、あたしは少し意地悪を言う。
「冬にさあ、チョコあげたよ。あの時、どう思った? 少しは勘違いしなかった?」
「ああ、チョコ! そういや、あれ、手作りだったよな? めちゃくちゃ嬉しかったさ」
(……えっ?)
鈴木田さんの答えは、あたしにとって予想外で、あまりに素直過ぎた。
この人は、とことん優しい人なのだ。だから、思ったままを口にして、相手の嫌なことは言わない。きっと今も、こんな話をしながらでも、あたしの中から一刻も早く立ち退くことを考えているに違いない。
「今年もさ、チョコ作るね。でも勘違いしないでよ? あたしはおじさんには興味ないから!」
「ああ、俺だって女子高生とは無理だ。女は三十代、同世代じゃないとな!」
そう言ってあたしたちは笑ったけど、一つ思う事がある。
(大下梨夏さんはアラサー。あたしの中で恋愛されたらどうしよう――!?)
「ないない!!」
その時突然、大下さんがぴしゃりと言った。