5:無理解との邂逅
「ーーーーーは?」
自分の病室を出てから数分。階段を降りてすぐ目の前に広がった光景は信じがたいものだった。
夥しい数の死体。それも大人だけではなく子供もちらほらと見える。
しかしそんな風景を目の当たりにしても吐き気一つ覚え内自分に嫌気がさしてくる。
きつく体に巻かれた包帯に動きを取られながらもなんとか生存者の有無を確認する。
しかし、誰一人として生きている者はいない。
それがひと目でわかるくらい死体の損傷が激しいのだ。
首がもがれて生きていられる人間などいない。
腹を引き裂かれて生きていられる人間などいない。
下半身を潰されて生きていられる人間などいない。
そんな事は俺だって知っている。
それでも希望を持たずにはいられない。希望を捨てられはしない。
左肩の痛みも忘れて、血塗れになりながら生存者を確認する。
すると、後ろの方で足音が聞こえる。
「ーーー!!生存者ッ………?」
希望を込めたその言葉は廊下中に響く。
後ろを振り返るとそこに立っていたのは長身で筋肉質な男だった。
着ている白いシャツは半分以上が血の赤一色に染まり、それ以外に髪も顔も何もかもが血に塗れている、なんとも異様な男だった。
「お、おいアンタ……、大丈夫か……?」
返答は無く、心配の声だけが自分の耳に飛び込んでくる。
「ーーーーーーー」
しばらく続く沈黙の中に妙な違和感を感じる。
それは何とも言えない、形容のし難い違和感。
目の前に立つ男は果たして人間なのか、それともそれ以外の何者かーーー。
なにか確固たる自身がある訳でも、ひと目で分かる明確な証拠がある訳でもない。
しかし、何かが変なのだ。
これだけの死体を目の当たりにして普通の人間が正気を保っていられるはずがない。
しかし、この男は正気を保つどころか、むしろ何か嬉しそうだった。
それが死体を見たショックならわかる。
でも、この男は違う。もっと何か、根本的に俺らとは違うところがある。
「おい、あんた………」
そう言いかけてやっとその男の妙な点に気がついた。
それは男の足の向き。顔は前を向いているのに足はそれとは真逆の方を向いている。
それが意味する事はーーーー。
どさっ、という物が地面に打ちつけられる音。勿論、打ちつけられたのは目の前に居た男の体だ。
「なっーーーーーーーー」
呆然。
驚愕で言葉が出ない。思考が動くことをやめる。
「弱いもんだなぁ……人間ってのはぁよ……」
自分以外の音が無くなった廊下で男の野太い声だけが響く。
倒れた男の後ろ、俺の向いている一直線上にその声の正体はいた。
身長は俺より頭一個分大きく、この男もまた筋肉質な肉体を持っていた。
短く刈り上げられた赤い頭髪、三筋の傷が彫り込まれた顔。
その顔は端正というより男らしいという印象が強い。
そして何より一番目につく右腕は幾本もの触手と、一枚の大きな剣によって構成されていた。
「お、お前は…………」
「お!まだ生きてる奴がいたんだなぁ。こりゃあまだ楽しめそうだぜ」
「ーーーーーっ!!」
直感でわかった。こいつは人じゃない。こいつを人として認識してはいけない。人として認識した時、俺の世界は音をたてて崩れていくはずだから。
自分の目の前の理解不能から逃げようと立ち上がる。
「おいおい、逃げるなんて言わねぇよなぁ?そんな白ける事、しねぇてくれよ?」
男の声が廊下に響き渡るのとほとんど同時に弾き出されたように体が動き出す。
心は恐怖で満たされていた、頭も同じように。
それでも頭の方はまだあの男を倒す作戦を考えていた。
誰に言われるでもなく、自分の息の頃方法を模索し続ける。
「鬼ごっこかぁ?……………いいぜ、のってやるよ」
後ろから聞こえる叫び声とその声に合わせて迫ってくる足音。
それでも希望はもう目の前に迫っていた。上の階へと上がる最短の退路が。
「ーーーーーうらぁっっっ!!」
男の叫び声と同じくらい大きな声で叫びながら前方に向かってジャンプする。
着地する瞬間、無傷な右半身で地面と接触する。
痛みが無い訳では無い、それでも左肩の痛みに比べれば幾分マシだ。
左半身を庇いながら着地した直後、勢い良く立ち上がりエレベーターの閉まるボタンを強く押し込む。
ボタンから発せられる信号が司令する機械に到達し、扉が完全に閉まるまで5秒。その5秒が最大の難関、つまり生死の境目だ。
その5秒の内にあの男がここに来れば俺は確実に死に、その5秒を耐えられれば、余命が少し伸びる。
そして結果は後者だった。
男がエレバーターの扉から一直線上の廊下に現れることなく扉はゆっくりと閉まっていく。
「なん……とか……なった……?」
直前までの緊張感から開放された安堵からくる気の抜けた声は、一人きりのエレベーターにこだまする。
が、その安堵もまだ早い。と自分に言い聞かせるように両頬に平手を打ち付ける。
途端に頭の中はスッキリし、視界もこころなしかクリアになる。
「いいや、まだだ。まだ終わっちゃいない」
改めて言葉にすると、生きた心地がしない。
それでもあの死屍累々を踏み越えてここまで来たのだから、是が非でも生き残る。
そう静かに心に決める。
いつの間にか行き先にしていた最上階にエレベーターが到達する。
ドアが開くとそこに広がるのはおよそ昼下がりとは思えない程暗雲の立ち込める風景だった。
空は先程までの輝きを忘れ去ったかの様に黒黒としていて、今の状況に漂う絶望感を表しているかのようだった。
そんな空を見つめてる折、後ろから聞き覚えのある男の声が聞こえる。
「追い詰めたぜぇ…………、もう逃げられねぇよ、諦めて俺に切り刻まれな」
「わりぃけど俺、町内会一諦めが悪言ってよく言われてたんでな」
相手の殺意むき出しの言葉に軽口で応じながら、少しずつ相手との距離を取っていく。
あのバケモノとの距離、およそ10メートル。
いくらバケモノでも10メートルの距離を一瞬で詰めるほどチートじみてはないだろう。もしそうだとしたら俺の負けは確定だ。
しかしそうならない為にも手近な物で武器になりそうな物を探す。
あくまで相手に抵抗することを念頭に置く。
その時に一番最初に目についたのは、工事の際に残ったのかそこに忘れられていた鉄パイプだった。
「んんん?まさかその鉄パイプを武器に使うのかぁ?やめとけよぉ……俺の右腕にゃあ敵わねぇぜ?」
侮りに侮ったその言動は自信過剰なのではなく、ただ事実をならべているだけだと、傍から見ても俺から見ても良くわかった。
それでも、ここで死ぬ訳にはいかない。
またお見舞いに来ると言っていた、あの少女にまた会うまではーーー。
「んなこと、知ったことかよっ!!」
右足を強く踏み込む、次いで左足も。
斧のように振り降ろされる右腕は左頬をかすめる。
しかしそれでも怯む事なく突き進む。
ーーーー大丈夫、こいつの動きは鈍い。隙ならある、その瞬間を狙う。
心の中で自分に言い聞かせ、それを実行する。
僅かな隙、ほんの数瞬の空白。
その隙が一番の狙い目。その瞬間を逃せば勝機はない。
化物の腹部に鉄パイプが吸い込まれるのを見送り、そして叫ぶーーーー。
「これでも喰らっとけぇぇぇぇぇぇ!!!」
次の瞬間、俺は生まれて初めて鉄パイプが曲がる瞬間を目撃した。
人生で何度目かの"死"を感じ取った瞬間だった。