水しぶき
まだまだ、残暑厳しい、九月の初旬。
ぼくは、友人の中村と一瞬に、最寄り駅に通じる遊歩道を歩いていた。
あえて、木陰を選んで歩いているというのに、たちまち額に汗がにじんでくる。
その汗を、ハンカチで拭いながら歩いていると、やっと駅が見えてきた。
ほっと一息ついた、そのときだった。
「このハゲが!」
突然そんな声が、あたり一帯に轟いたのは。
それを耳にした途端、ぼくと中村は眼を合わせて、苦笑するのだった。
なにしろ、これは、今年の流行語大賞にノミネートされるともっぱら評判の、そんなことばだったからだ。
ただ、ぼくはそのとき、このことばより、むしろ声のほうに意を用いた。
その声に、どこか聞き覚えがあったからだ。
刻み足で、声がするほうへ歩み寄った。
見ると、案に違わず、知り合いの源さんだった。
この源さんとぼくとは、ちょうど一まわり歳がちがうのだけれど、初対面のときから、妙にそりが合った。
二人の付き合いは、それ以来のことだから、もうかれこれ、両手では足りないほどになる。
ちなみに、源さんは、駅のほど近くで土建屋を営んでいる立派な社長さんだ。
もっとも、従業員五名ほどの、ちっちゃな会社ではあるけれど。
そんな源さんは、職業柄なのか、それとも性来の性分なのかよくわからないが、とにかく、曲がったことが大嫌いな人。
だから、道理にもとるようことをしていない人を、けっして、頭ごなしに怒鳴ったりすることはない。
その源さんが、一見同年輩と見える男性に対して、「このハゲ」と、罵声を浴びせている。
これは、よほど源さんに腹のすえかねるようなことがあったに違いない。
何があったの、源さん?
と、気軽に声をかけたいところ。だが、困ったことに、源さんは、ひとたび、癇癪を起こすと、もう手に負えなくなってしまうのだ。
だから、まずは、平身低頭に、「こんにちは、源さん」と挨拶から。
「だれでえ」
源さんが、ぼくに眼差しを向ける。その目が血走っている。
これは、そうとうお怒りのようだ。
「ん? なんだ、ぶんちゃんかい」
ぼくだとわかると、源さんのこわばっていた頬が、少しゆるんだようだった。
「どうしたんですか、怒鳴り声なんかあげちゃって」
「どうしたも、こうしたもねえんだよ」
源さんはそう言うと、事のあらましを、いつもの伝法口調で説明した。
「実はな、ここで立ち止まって電話してたら、この野郎が、いきなり後ろからぶつかってきやがったのさ。ってえのによ、謝りもしねえで、とっとと逃げようとしやがる。カチンときたね。しかも、見りゃ、スマホを手にしてやがる。こりゃ、ながらなんとかだ。ますます許せやしねえ。それで、怒鳴り散らしてやろうと思ったところに、ほれ」
そう言った源さんが、顎を、男性の頭へとしゃくって見せる。
そこに目をやった。見ると、これはーーたしかに、見事な禿愚ぷり。
つるんとした頭皮が、残暑の日差しを浴びて、てかてか、輝いている。
「ふん、見事なもんでえ。だから、今流行りの言葉で、罵声を浴びせてやったってえ、そんな了見よ」
「そうでしたか」
苦笑交じりに、ぼくはうなずく。
「いい歳こいた大人が、でけえ声出してみっともねえ、そう思わねえでくれよ、ぶんちゃん。カミナリってえのはな、頭上にドカンと落としてやるのが効果覿面と、昔から相場が決まってんのよ」
そう言うと、源さんは、ふたたび、男性に鋭い眼光を投げた。
男性は、可笑しいほど、しょげて、深く、反省しています、という感じで首を垂れている。
なるほど。
状況は把握できた。
だとすれば、源さんが、怒るのも無理はない。
最近は、とかく、ながらスマホが眼に余る。
あれほど注意喚起を促されているにもかかわらず、一向に、街からその姿が減らない。
むしろ、増えているのではないかと、疑いたくもなる。
ながらで、自分が怪我するのは、自業自得。
だが、こうして、他人を巻き込んで、はた迷惑になる懸念すらあるのだ。
今まさに、その現実が如実に示されている。
しかもそれ以上に、ながらは、倫理観や公共性という観点に照らし合わせても、規範にもとる行為。
だから、絶対にやってはいけないのだ、とぼくは心底思う。
ただ、そうとはいえなあ……。
その実、割り切れない感情を持て余している、そんな自分もいるのだ。
なぜかというと、「このハゲ」ということばもまた、他人を巻き込んでしまう、そんな危険性をはらんでいるからだ。
その危険性に思いを馳せながら、ぼくは、中村を眼の端で覗いた。
やっぱり、複雑な笑みを浮かべている。
実は、彼もまた、源さんに怒鳴られている男性と同様だったのだ。
残暑の日差しを浴びたつるんとした頭皮を、見事に輝かせているのは……。
おしまい