第六話
運命の日も、いつもと同じようにやってきた。
李文は星彩を厩舎から連れ出した。スルテと合流すると、競馬場へ向かった。
レースは昼過ぎからだった。
待ち場で、スルテや調教師と打ち合わせをする。清三も合流したところで、議論は纏まりつつあった。
「やはり、一番のライバルは」
李文は、掲示板に書かれた一番人気の馬を見上げた。
「英国のアイシングカークか」
騎手はわざわざ英国からやってきたトーマス騎手。
アイシングカークは先行型の良馬で、出る度に一着に入っていた。賞金でも、順位でも、文句なしに大競馬の出場が認められた馬である。
「綺麗な馬でした」
と、スルテ。確かに、光の加減で金色にも見える、見事な栗毛を誇っていた。
「気性が荒いって噂もあるぞ」
「かもしれない。馬群を嫌うから、先行したがる。でも、それを押さえてきっちり勝ちに行くのが騎手だからな」
スルテが身を引き締めた。
分かり切ったことではあったが、騎手としての経験では、スルテは心もとない。
ナーダムという催事で競馬の騎手を務めたことはあったが、本格的なレースの経験など、ここ半年の間だけだ。
ホーミーを封じる以上、彼女を使い続ける合理的な理由は、消滅していた。
ただ、李文は専門家としてもスルテを買っていた。星彩はこれまでどんな騎手が乗っても実力を発揮しなかった。その力を引き出したのは、彼女だ。
「星彩は、段々と、一着になることに拘るようになっていると思います」
スルテが意見を述べた。
「脚の強さは、他の種類の馬とも比べ物になりません。飛び出すタイミングを図れば、間違いなく、アイシングカークとのトップ争いまでは持っていけるでしょう」
そこまで話したところで、出走の時間が近づいた。
各自、準備に入る。
李文は星彩の待つ厩舎へ向かう。
「没法子」
李文は、ぽつりと言った。
ヘルメットを着けながら、スルテが問う。
「なんです?」
「やることはすべてやった、という意味さ」
かつて李文は、諦めの中で同じ言葉を口にした。
やることは全てやった。だから仕方がないと考えるか。だから悔いはないと考えるか。
結果的に、かつての言葉は嘘だった。
逃げていただけだ。
地道にやってきたことを見直し、遊牧民の知恵を頼り、少しずつ上手く行くようになって、今がある。
「スルテ、すまん」
李文は頭を下げた。
「君のホーミーに頼って、来てもらったようなものなのに。ここまでやってくれて、ありがとう」
スルテは馬に跨った。鞍上から、李文を見下ろす。その目は笑っていた。
「私達の言葉に、濁流は太く短く、小川は細く長く流れるという言葉があります」
星彩が出口へと向かう。歓声が聞こえてきた。
「李先生が正しいと信じるなら、きっとそれが、この競技が小川のように長く続くのに必要なのでしょう」
スルテは言った。前を向いて。
騎手を載せた白馬が、光満ちるトラックへと歩んでいく。
「後は、任せてください」
李文は小屋の中に取り残された。
没法子。
すべてやった。後は、仲間を信じるだけだ。
◆
『悍馬十三頭、観客の期待に応え、時速四〇マイルで発進』
大競馬のスタートは、後にそんな文章でソビエトロシアの新聞に書かれた。
彼女の発進は内枠からだった。
スタートの轟音。
ロープが跳ね上がった。
スルテは最後尾から、三頭めに位置した。出遅れたわけではない。そこがいい、と思ったのだ。
少し進めば、馬群に呑まれる。逆にもうすこし遅れれば、コース取りが不利になる。悪くすれば、最後の曲がりからゴールまでに、十歩(約15メートル)は余計に走らされるのではあるまいか。
レースは淡々と進んだ。
第二コーナーの終わりで、急加速する馬が出た。最終コーナーと勘違いして、抜け出そうとしているのだ。
何頭かが釣られて、ペースを上げた。
星彩も逸る。
置いていかれるのを嫌がるのだ。
「大丈夫」
スルテが声をかけると、星彩は落ち着いた。ただし、腿に力を入れて、徐々に加速する意思を伝える。
第三コーナーに差し掛かると、先頭の馬が見えた。
金色に輝く、栗毛。一番人気のアイシングカークだ。
騎手がこっちを見ていたような気もするが、気のせいだろうか。
コーナーは、残り一つ。レースはもう終盤戦。
馬群から、一頭が飛び出した。
早めに仕掛けたのだろう。
第二コーナーで逸った馬がいるから、確かに馬群全体の速度が上がっていた。
飛び出すタイミングを誤れば、馬群に呑まれて、抜け出すコースを失う。
スルテはさらに速度を上げた。
抜け出た馬がいたところに、星彩の馬体を滑り込ませた。
順位が上がる。
多分、今、六位くらい。
最後のコーナーが、目の前に迫っていた。
◆
トーマス子爵は、後ろを振り返った。
最終コーナー。
馬群との間が、思ったよりも広がっていた。二位の馬との差は、三馬身ほど。
ここで鞭を入れれば、アイシングカークは最後の加速をする。
大歓声の観客席が、左に見えていた。
やるか、と鞭を掲げた時、観客席が総立ちになった。
愛馬の脚に力が入る。鞭を入れる前に、加速していたのだ。
来たか、と子爵は笑った。
「さぁ、逃げろ逃げろ! 白馬と天使が追ってくるぞ」
最後の直線が、緑の芝を広げて出迎えた。
◆
差し馬の馬主として、一番緊張する瞬間だった。
馬群から抜け出す時、他の馬の針路を遮らず、かといって不必要な大周りもせず、うまく抜けなければならない。
スルテは、それをこれ以上なくうまくやった。
スルテが駆けだした時、馬群は前の方の四頭が丁度一列に並んでいた。
まるで四頭だけで、もう一度スタートをやり直すみたいだった。
馬群から四頭が抜け出す。
その時、五頭目として、彼らの僅かに外側からスルテと星彩が現れた。
最終コーナーまでは、内回りに努め、最後のコーナーで一気に外側へ出てきたのだ。
「抜けたよな?」
星彩が、大一番で勝負を挑んでいる。
李文は震える手を握りこぶしにして、観客席からレースを見守った。
「そのまま、抜けてくれ」
星彩が加速する。馬と騎手が完全に一体化した、伸びやかな動きだ。コースの緑の芝は、彼女の故郷の草原を思わせた。
何年も、いや、何百年も、彼女達はこうして暮らしてきたのだ。
たちまち他の馬を交わし、二番手となる。
数多の馬の蹄で、地面が揺れる。歓声は空気を震わせた。
もはやただ一頭、先行する栗毛だけが星彩の相手だった。
星彩は追う。
距離はどんどん狭まる。
観客席からは、ほとんど並んだように見えた。
だが最後の最後で、アイシングカークが伸びた。
再び差が生まれだす。
ハナ差から、クビ差へ。
アイシングカークはずっと内側を走っていた。差し馬のスルテは、どうしても、抜け出す時に大周りをしてしまう。
その差が出ているのかもしれない。
(駄目か)
思った時、李文の目には、星彩がぐっと後ろ脚に力を入れるのが見えた。
負けたくない、という言葉が聞こえた気がした。
スルテが呼吸を合わせて、最後の鞭を入れた。
(差し切れ、星彩)
果たして、祈りは届いたか。
ほとんど並んで、栗毛のアイシングカークと、白馬の星彩がゴールした。
観客がざわめいている。掲示板に、なかなか結果が告知されない。
李文は胸を押さえた。
一着はどちらか。
李文は審議の決着を待った。
胸は高く鳴っていた。
◆
大競馬から、数日が経過した。
シーピンの日本領事館に、岡本清三はいた。彼は応接セットを挟んで、年配の男と向き合っていた。男は口ひげを生やし、髪を短く刈りこんでいる。目つきは鋭く、訓練と忍従による自信が佇まいに現れていた。
「めぼしい馬はいたかね?」
男の言葉に、清三は頷いた。
「ええ。ただ、いずれも軍馬には向かない品種です」
「そうか」
男は頷き、煙草を指で挟んだ。清三は男のそれに卓上ライターで火をつけた。
「そう言えば、噂を聞いたのだがね。この辺りの軍閥で、ちょっと噂になった、歌で馬を操る遊牧民。あれが見つかったという話は、本当かね」
「はい」
「そうか。レースで、これまで無名だった白馬が活躍したというが、何か関係が?」
清三は苦笑した。
「なにも」
自分も煙草を取り出して、火をつける。効果的と思える間を置いてから、話し始めた。
「馬は、臆病な動物です。例えば、野生の馬は一頭が逃げ出すと一斉に逃げ出します。つまり、群れに影響を受ける生き物なんです」
男は目で先を促した。
「今までの不調は、明らかに実力の劣る蒙古馬や、アラブ馬の中で育てられたから」
「無意識で、周りの環境に自分を合わせていたということか」
「はい。今回、調子を上げたのは、単に、星彩に似た速い馬が現れたから。騎手のせいではなく。自分はそう推測します」
男は目を閉じて、清三の考えを吟味しているようだった。
清三はこの仮説に自信を持っていた。
李文は当初、星彩を見放していた。その見立ては、ある程度は正しかったのだ。
遊牧民の騎手と、思わぬ好敵手の存在がなければ、星彩はずっと埋もれたままだったろう。
それこそが、生き物のスポーツの最も面白いところなのかもしれない。
「では、結局、この競馬場から目ぼしい成果はなかったというわけか」
清三は肯定した。
「その通りです」
「随分簡単に諦めるな。我々は、次の戦争を見込んでいる。滿洲か、蒙古に、遊牧民の騎兵部隊を作りたいのだ」
男の口調には、少しだけ棘があった。清三は苦笑した。
「ここに友人も増えまして。考えが変わりました。ここの馬はいい。競馬は競馬で、軍と切り離して考えるべきかと、今は考えます」
男は清三の真意を図った。
答えは、鼻を鳴らすことだったようだ。
「まぁ、いい。ハルビンにも競馬場はある。二つは多いという意見は、陸軍の中にもあった。なにより」
男は言葉を切った。
「モンゴルに騎兵学校を作るという案が、具体的に動きつつある。競馬場で馬を募る方法は、これから縮小していくだろう」
清三は目を閉じた。もう短くなった煙草が、指に熱さを伝えた。
「我が国は、シーピンの競馬場からは手を引く」
「私は?」
男は初めて口角を上げた。疲れたような、労うような笑みだった。
「お互い、クビだな。貴様の軍事探偵の任を解く」
男はそう言うと、部屋から出ていった。
清三も領事館を後にした。ため息が落ちる。
まだ昼過ぎだ。
ロシア建築が入り混じるシーピンの街並みは、人々でごった返していた。
清三は、領事館の壁に背を預ける。
「歌のこと隠したら、失職しちまった」
軍は何らかの成果が欲しくて、シーピンの競馬に金を出していたのだから、当たり前といえば当たり前だが。
馬券収入なら、すでにハルビンで間に合っている。
清三は鞄から新聞を取り出して、ため息を吐いた。
結局、大競馬を一番詳しく報じたのは、ロシアの新聞だった。
その一面が、清三が職を失って得たものだった。
「それにしても、いい顔で写ってやがる」
そこには、優勝の盾を受け取る、背の低い、遊牧民の少女が映っていた。
なお、ロシアの新聞は、星彩の躍進について、清三と全く同じ意見を書いていた。もう戦のための歌が注目を浴びることはないだろう。
シーピンの競馬は、純粋に馬と人が競う場として、発展していってもらいたいものだ。
「再就職でもするか」
清三は領事館を去った。
次の仕事も、馬の仕事がいい。秋の滿洲を歩きながら、清三は晴れ渡った空を仰ぐ。
まずは寝床を求めて、牧場を経営する親友を訪うとしよう。
次のエピローグで最後となります。