第五話
「いいですか? あなただから、これくらいの罰則で済むんですからね」
意外にも、李文が受けた罰はパドックと厩舎の雑用だけだった。
レース後に馬がトラックに乱入したことを思えば、驚くほど軽い。
騎手や調教師であれば、なるほど屈辱的な罰だろう。しかし李文としては、膨大な罰金を免れただけでもありがたい。本場の海外では、パドック入りが遅れただけでも罰金を払うことがあるという。一回のレースで、それだけの金が動くのだろう。
李文は寒い中、腕をまくって、いやな臭いのする馬糞を片付けた。
厩舎の掃除をしていると、顔見知りの役夫が声をかけてくれる。
「李先生。災難だったね」
そう言って、何人かは笑った。李文は苦笑を返して、作業を進めた。
元から馬が関わる作業なら、全く苦にならない性質だった。
汗をかき、腕と腰に張りを感じた辺りで、作業は終わった。
李文は最後に箒で土をならして、使っていたシャベルを井戸で洗った。
綺麗になった競馬場の待機小屋に戻ってくると、李文はざっと出来栄えを見渡した。
そうして初めて、気づくこともある。
(狭いな)
李文の厩舎も大きいとはいえない。それでも、馬の数が少ないため、一頭ごとに割り当てられる区画は、ここよりも広い。
それだけ競馬場は馬で賑わうということだ。
一方、馬の中には小さい場所を嫌うものも多い。
李文は星彩にも同じ傾向があると踏んだ。
(レース後の興奮と、環境の違いで、外へ駆けていったのか)
李文は昼の出来事をそう分析した。
ホーミーを聞いた後は、星彩はどこか昂ぶっているようなのだ。
罰則による雑用だったが、よい勉強にもなった。
命令を完遂して外へ出ると、意外な顔が出迎えた。
「終わったか」
清三だった。とっくに帰ったと思っていたので、李文は驚いた。
ずっと表にいたらしい。
「そんなに驚くなよ。一人で帰る薄情なやつだと思っていたのか?」
清三は、親指で通りの陰を指差した。
「もう一人。いや、もう一人と、一頭がいるぜ」
まさか、と思った。
通りの陰を覗き込む。
そこには見慣れた白馬と、遊牧民の衣服を着たスルテがいた。
李文は天を仰いだ。
「待ってたのか」
「はい。この子が、あなたを待つと」
スルテは星彩の首筋を撫でた。星彩は鼻を鳴らして、李文を出迎えた。
背が冷えるのを防ぐためだろう。背中には布が被せられていた。
「寒空だ。馬の調子に響くと思ったんだがね」
「その通りだ」
「だが、星彩が動かなかったのさ。この競馬場を見つめてさ」
李文は眉をひそめた。星彩は確かに、地面に足を着けて動かない。
なんとなく、去りがたいように感じるのだ。
「なぜだ」
李文は星彩に近づいた。星彩は心細そうに、首を巡らし、李文の胸に額を摺り寄せてきた。
こんな状態の星彩を見たのは、初めてだった。
「あくまで、私の感覚ですけど」
スルテが言った。
「この子が走り出した時、喜びを感じたんです」
「喜び?」
「ええ。群れからはぐれた一頭が、戻ってきたみたいに。やっと会えたとか、そういう感じです」
スルテは何度か言葉を選んだ。
「この子、厩舎の外で一人でいることが多くありませんか?」
その通りだった。星彩はいつも、一頭でいる。気性が荒いわけではない。馬群を嫌わないからだ。その辺りは、不思議に思っていた。
「馬は、群れの生き物です。でも、この子は賢い。ひょっとしたら、自分が、他の馬と違うことに気づいているのかもしれません」
「ふぅん。そりゃ面白いな」
清三が合いの手を入れた。
「今日現れた本物のサラブレッドを見て、ついに仲間がいたと思ったわけだな」
白馬は月の光を受けて、超然と佇んでいる。今までの李文は、そこに迫力と、才能を感じ続けてきた。
だがそう言われてみると、白馬の姿は、群れも仲間もなく途方に暮れる、哀れなはぐれ馬にも見えた。
「そうか」
李文は呟いた。
思えば、今日のような厩舎掃除も、随分前から単なる作業に堕していた。
自分はずっと前から、諦め癖がついていたらしい。
だから、大事なことに気づかなかった。
「寂しかったのか、お前」
星彩は息を吐いた。そしてやっと足を動かし、李文の方に寄ってきた。
「李文。実は隠れていたのには、もう一つ理由がある」
清三は言った。
「スルテが、最後に派手にホーミーを使っただろう。星彩を止める時だ。あれがな、出資してる軍関係者の興味を引いた」
李文は目を剥いた。
「慌てるな。ごまかしたよ。だが、あんまりしつこく聞かれたんで、路地裏に星彩とスルテを押し込んだってわけだ」
スルテと星彩の周りには、馬具を包む布が置かれていた。それと遊牧民の装束で、荷物引きにでも化けさせたのだろう。
「馬にも、負担がかかるようです。元々、戦のための歌ですから」
馬を消耗品として扱う時代の歌だということだろう。
そしてその時代はまだ続いている。
清三が煙草に火をつけた。
「もうホーミーは乱用しない方がいいかもしれん」
「スルテが危ないな」
清三は煙を吐いた。悔しそうに、煙草を挟んだ手を額に当てた。
「ああ。俺も、ちょっと見立てが甘かったよ」
李文は目を閉じた。
スルテという騎手の一番の長所は、好きな時に馬の全力を絞り出せるということだ。
それが、使えない。
そう思っても、李文の心はあまり乱れなかった。
「なら、いい。スルテ、もう使う必要はないよ」
スルテは頷いた。その表情には、安堵と不安が等量に含まれていた。
李文は声を励ました。口元には、笑みが結ばれる。
「君のお婆様が言っていた。ホーミーは、馬の全力を絞るためのもの」
「はい。元々、争いのための歌なんです」
「なら」
李文は言った。
「なら、元々、星彩にはあれだけ走れる実力があったということだろう」
明るい調子に、スルテと清三が顔を上げた。
「馬屋は、儲からない。ずっと、なんとかしなけりゃと思ってた。そのせいで、一番大事な仲間を忘れていた」
李文は星彩の首筋を叩く。
「こいつだ」
久しぶりの勝利と、労働と、好敵手。李文はずっと前の気持ちを思い出した。
(俺はやっぱり、馬が好きだ)
李文は二人と一頭の仲間へ言った。
「本番のレースまでには、まだ二月ある。その間に、もう一度、こいつと一からやってみるよ。本当の実力を、歌なしで引き出せるように」
◆
時間は飛ぶように過ぎた。
李文はその日から、星彩の調教を見直した。今まで李文の厩舎には、星彩の他に駈足向けの馬はいなかった。そこを同業者に頼み込み、調教師に指示して、アラブ馬を借りた。この種の馬は、体つきが星彩に近い。サラブレッドの元になった品種なのだ。
シーピンで探すのは、かなり苦労した。
借りた馬は星彩の併せ馬として、一緒に訓練した。
狙いは、二つ。
一つ目は、手堅いもの。集団の中でも慌てず、自分の位置を確保する練習だ。
二つ目は、もう少し効果の見極めが難しい。星彩が孤独を感じているのだとすれば、他のアラブ馬と過ごせば多少の緩和が見込めると考えたのだ。星彩のために群れを一つ作ってやった形だ。
また、厩舎も改造した。
一つだけ、狭い柵を作った。
これは競馬場の狭い厩舎に慣らさせる目的だ。
いずれにも費用がかかったが、スルテの好走で、少しずつ賞金を得ていたのが幸いした。
(成果は、出ている)
李文は手ごたえを感じるようになった。
(スルテも、よくやっている)
スルテは騎手として、その後何度も鞍上の人となった。
ホーミーがなくとも、星彩はかつてのような駄馬には戻らなかった。彼女の才能と、李文の調教の成果だろうと考えている。
星彩は、むしろ、スルテと共に必死に自分の競馬を探しているかのようだ。
その様子は、いっそ痛々しいほど必死だった。
ホーミーを使わない純粋な騎手として、スルテもまた伸びようとしていた。
「李文」
秋も深まった頃、清三が厩舎にやってきた。吐く息は白い。
「例のレースの出場馬が決まった」
ここで言うレースとは、この街の最大のレースだった。シーピン大競馬と呼ばれる。
出場できるのは、今年、一定の成績を収めた馬だけだ。
「覚悟はいいか?」
「早く言ってくれ」
「後悔しないか?」
「焦らすなよ」
清三は、にっと笑顔を見せた。
「喜べ、李文」
出場だ、と彼は告げた。
「ぎりぎり、最後に引っかかった。議論は荒れたんだがね」
清三は煙草を取り出した。
「俺以外に、もう二人、推薦人が出たんだ。それで出場できた」
李文は目を瞬かせた。
「二人?」
「ああ。どこの誰かは分からんけどね。今年前半の成績と、その推薦状が決め手になって、お前らは大競馬へ出られる」
清三は、心からの親愛を表情に出した。
「おめでとう」
李文は外へ出た。スルテが星彩の近くにいた。彼女にも、出場を伝える必要がある。
近づくと、ふと優しい旋律が耳を撫でた。
戦のための、馬を昂ぶらせるホーミーではない。
もっと穏やかな、子守歌のような旋律だった。
「李先生」
近づくと、彼女は歌をやめた。
「今のは?」
「馬のための子守歌です。私達の一族に伝わるもので」
スルテは、あ、と言葉を止めた。
「ち、違いますよ。また、走らせるためのホーミーじゃありません」
「うん、それは分かってる」
星彩が首を巡らせた。物言いたげな目だ。
他の生き物の目と違って、馬や犬の目は露骨に感情を伝えることがある。目の機能に何か違いがあるのだろうか。
「続けてほしいとさ」
スルテは少し恥ずかしそうに、そして若干抗議するように、李文を見上げた。
ほどなくして、歌いだす。
気を抜くと聞こえないほどの、微かな旋律だ。
歌うことを禁じた、馬を昂ぶらせるホーミー。
それも元を辿れば、このような日常の歌だったのかもしれない。
「李文」
後ろから声をかけられた。
清三がそこにいた。
「それで、一応聞いておきたい」
「うん?」
「今年、最大のレースだ。賞金もでかい」
清三は間を置いた。子守歌は、止まっていた。
李文の借金は、まだ残ったままだ。スルテもここまで来た以上、賞金を持って帰るつもりだろう。
「ホーミーは、使うのか?」
使えばきっと勝てる。そう言いたげだった。
李文は首を振った。
「いや」
星彩の調子がよくなるにつれて、李文は自分の馬好きを発見せずにはいられなかった。
ホーミーを使えば、勝てる。賞金も手に入る。
だがそれは、馬の全力を、馬の意思に関わらず、絞ることだ。
それは競馬を『嘘』にしてしまう。
競馬は戦ではない。競技なのだ。
だから、李文は好きなのだ。
「実を言うとな。シーピンの競馬だって、そんな綺麗なもんじゃないぜ」
「分かってる」
「それでも、ホーミーは封じるのか。お前だけ、正々堂々行くつもりか?」
李文は唸った。
「ごめんな」
いいさ、と清三は応じて、長い煙を吐いた。
子守歌が、再び聞こえ始めた。
◆
「これでいい」
ロシア人の記者は、カフェで大競馬の出走馬を確認していた。
お目当ての馬がいることに、胸をなで下ろした。
彼は競馬場に出資しているロシア人の一人として、推薦状を書く権利を与えられていた。
本当ならば、こんな東洋の片田舎の競馬に興味はない。
推薦状を行使したことなどなかった。
しかし今回だけは、どうしても見たい馬がいた。
「セイサイ」
馬の名前を、呟く。
一時期は勢いがあったが、最近は調子が悪い。調子を崩したタイミングは、記者がある疑惑をぶつけた時からだった。
(歌で馬を操る、遊牧民か)
そんな噂を、聞いたことがあった。
果たして、そんなことが可能なのか。
可能であれば、軍にその存在を報告しておく必要がある。そういう約束で、『取材費』の幾らかは軍が出していた。
(歌で馬を調教できるとしたら、どうだ)
馬は草食動物であり、本来は臆病な生き物だ。
軍馬として必要な能力を持たせるには、数年がかかる。
調教済みの馬を競うこと。それが競馬の原点である。
軍も、馬産地である滿洲の競馬には、一定の関心を払っていた。
(報告するべきか。せざるべきか)
ただ、彼個人としては騎兵の時代は終わりつつあると考えていた。塹壕と砲兵の発達は、騎兵の機動力を殺し、伝統的な突撃を自殺行為に貶めていた。
現状の騎兵は、かつてのような戦場の花形ではない。
かく乱、陽動、伝令といった機動力を活かす役割で、かろうじて命脈を繋いでいた。
一部の保守的な層が、それでも騎兵復活の可能性にかけて、騎馬の研究開発に力を入れている。
茶番である。
時代は逆行しない。歴史というレースは、一度きりだ。
ただ、遊牧民の騎手という存在には、どうにも興味を惹かれた。
騎兵は大勢を決する兵科ではなくなったが、優れた指揮官が的確に用いれば、威力を発揮することは確かだった。例の戦争で、ヨシフル・アキヤマが彼らに苦汁を舐めさせたように。
「大金がかかる大舞台であれば、欲に駆られて、本当の力を出すかもしれない」
そしてその結果を軍に報告すればいい。
(知ってしまった以上、私には真偽を確かめる義務がある)
そう思いながら、ロシア人記者は筆を執った。
『秋深まる折、シーピン大競馬始まる。私はある関心を持って、白馬の馬券を買った』
書き出しは、こうしよう。
◆
「子爵、出走馬が決まりました」
トーマス子爵は、その知らせを厩舎で受け取った。
「セイサイは?」
「入っています」
推薦状は、無駄にならなかったらしい。
大部分の出場馬はとっくに決まっていたが、セイサイは最後の一枠をずっと争っていたのだ。
子爵は満足げに頷いた。
「美しい馬と、美しい騎手だった」
子爵は、柵に収まった愛馬を撫でた。栗毛の色つやはいい。撫でている間に、よく欠伸をするようになった。異国の空気に馴染んできた証拠である。
「大競馬の客は幸運だ」
子爵は言う。
「この大陸の片隅で、本物のサラブレッドの対決が見られるのだからね」
子爵は、星彩の血統は、近代競馬のサラブレッドに匹敵すると見ていた。
大競馬は、二週間後に迫っていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回、最終話です。
本日の18時に投稿予定です。