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第四話



「失礼、李先生ですか?」


 そう声をかけられたのは、レースを終えた昼下がりだった。

 李文達は、会場の厩舎で星彩をなだめていた。


「突然申し訳ない。いや、すごいものですねぇ」


 丸眼鏡をかけて、手には手帳を持った、記者風の白人だった。背が高く、動作がきびきびしている。


「あなたは?」


 李文が尋ねると、男は頭を叩いた。


「これは失礼。私は、記者をしておりまして」


 男は名刺を李文達に渡した。スルテに渡す時、男の目が値踏みするように彼女を見ていた。

 名刺は、ロシアの新聞社のものだった。


「この辺りは娯楽がこれしかないもんですから、みんな馬には目がないんですよ。今日のレースは、大変、お見事なものでした」


 男は笑いかけた。李文は笑顔を返す。スルテも同じだ。清三だけが笑わなかった。


「ところで、なにか特殊な調教をされたのですか? 今日は、いつにも増して調子がよかった。終盤の追い抜き、矢のようでしたよ」

「ありがとうございます。でも、今までが悪すぎたんですよ」


 星彩の今までの成績は、最下位近辺だけである。それが、ここ最近の好走だ。

 特に初日はいきなり二位に着けたのだから、驚かれるのも無理はない。


「騎手のお嬢さん、あなたも見事な手綱さばきでした。私も友人が馬をやってるんですがね。一向にマシにならない。何か、コツを伝授してやってくれませんか」


 そう言って、記者は万年筆を取り出した。

 スルテはヘルメットを外しながら、首を傾げる。豊かな髪が流れた。


「コツですか?」

「はい。他の騎手の話では、追い抜いている間、つまり、加速する間ですが」


 記者はそこで、巧妙な間をおいて、咳払いした。


「何か、馬に囁いていたと。コーラスのような旋律が聞こえたと。どんなレースでも、そんな噂をちらちらと耳にする」


 どきりとした。

 馬を奔らせる倍音唱法、つまりホーミーのことである。

 彼女は他の馬に影響が出ないように、星彩にだけ歌を聞かせていたはずだった。

 スルテは困ったように笑った。


「勝てた理由でしたら。馬がよかったからですよ」

「それだけじゃないでしょう?」


 清三が、記者を突き飛ばすように割って入った。


「そこまでだ。すまんが、この後も調教師が別のレースでね。悪いけど、ちょっとそっとしといてくれんかな」

「いや、でも」

「いいから」


 清三が割って入ると、記者は丁寧に詫びて去っていった。名残惜しそうに、彼は何度も振り返っていた。

 李文は胸をなで下ろした。


「助かったよ。ありがとう。でも清三。追っ払ってくれたのはありがたいが、ちょっと乱暴じゃないか? あれじゃ、かえって怪しまれちまうよ」

「お前なぁ」


 清三は呆れたようだった。


「勘弁してくれよ。あれは、軍人さんだぞ」


 スルテと清三は驚いた。自称記者が去っていった方を見つめる。彼は別の馬主も声をかけ、楽しそうに談笑していた。


「そうは見えないけどな」

「でも、なんで軍人さんが?」

「この辺りは馬の産地だからな。競馬場に金を出して、馬主や調教師を押さえようとしてるんだ」


 事実、この競馬場はロシア、中華民国、そして日本の共同出資で運営されていた。

 清三は二人に断ってから、煙草に火をつけた。


「まだこの地域が、最終的にどの国のものになるかは分からないがな。それでも、あの手の連中が馬の情報を集めてる」


 李文は気持ちが暗くなった。

 スルテの祖母も、その辺りを案じていた。

 馬を思うがままに駆けさせる競技。それでも、戦争の影はずっとついて回る。数世紀前に、この滿洲という地域から征服王朝が誕生して以来、馬は人の友であり、争いの道具でもあったのだ。


「競馬は、馬の能力を試す実験場でもあるんだよ」


 星彩が蹄を鳴らし始めた。馬は賢い生き物だ。主人の不安を感じ始めたのかもしれない。

 スルテが、星彩の雪のような毛を撫でた。

 口からは、微かに歌が漏れ聞こえる。星彩の耳には届くのだろう。馬は落ち着きを取り戻し、スルテの胸に額をこすりつけた。甘えているのだ。


「実験場?」


 スルテは眉根を寄せた。

 李文は、競馬を美しく紹介しすぎたことを悔いた。彼女は競馬という競技に、馬好きとして、新しい生き方を見ていたのかもしれない。


(そうあるべきなんだろうが)


 その時、外から大歓声が聞こえてきた。

 星彩が顔を上げる。

 レースの狭間の芝生には、次の馬が現れているはずだった。



     ◆



 まったく、申し分のない馬だった。

 トーマス子爵は騎乗した状態で、乗馬の首筋を撫でてやった。うなじを流れる栗毛の(たてがみ)は、光の加減で金色に見える。(あぶみ)に噛ませた両足からは、馬の自信に満ちた足取りを感じることができる。山脈に乗っているような安定感と、生き物の軽快さが同居した馬なのだ。


「みんな驚いているね」


 子爵は満足げにレース会場を見渡した。子爵は、己の金色の口ひげを撫でた。

 調教師は事務的に応じる。


「そうでしょう。これほど血筋のいい馬は、ここでは見たこともないでしょうから」


 子爵は歓声に応えるように、手を振ってやった。

 故郷のアイルランドほどではないが、この土地の競馬好きもなかなかのものらしい。


「広州や香港にさえ、こんな馬は来なかった。この小さな競馬場の、ささやかな勲章となるだろうな」


 調教師は子爵に、そっと話しかけた。


「ただ、油断はなさらないよう。ここに馬を運ぶだけで、相当な費用がかかりました。馬主は完全な勝利をご所望です」


 子爵は観客に笑顔を送ったまま、頷いた。調教師は続ける。


「この地域における、大英帝国のプレゼンスは低下したままです。シベリア鉄道が開通して、二十年。ユーラシアの西と東が鉄道で、つまり陸で繋がった以上、我々が誇る海軍力はその抑止力になりえないからです」


 子爵は引き取った。


「注目を受けるレースで、大英帝国の馬が勝つことで、この地域の人々は少なからず我々の存在を思い出す」

「そのとおり」


 子爵は鼻を鳴らした。

 時代錯誤としか言いようがない。

 しかし、そんな思惑が実際に存在したからこそ、遠征が叶ったのも事実だった。

 近々、日本に競走馬を輸出する話もある。日本が出資するこの競馬場に、一流の競走馬を送り込むのは、既定路線ではあったのだが。

 ロシアとの関係においても、スポーツは多少のガス抜きとなるはずだ。


「つまり、勝てばいいのだろう」


 子爵はそう結んだ。

 馬に鞭を入れ、駆けさせる。四本の足が土を蹴る、心地よい振動。これだけは、どこでも同じだった。

 一マイルの半分ほど走った頃だった。不意に後ろが騒がしくなった。

 遠くの小屋である。そこはレースが終わった馬が待機している場所だった。

 そこから、一頭の白馬が現れた。

 白馬はじっと、子爵と乗馬を見つめている。


「いい馬だな」


 子爵はうっとりと呟いた。

 白馬が何度か嘶いた。蹄を鳴らしているのを見て、眉をひそめた。

 興奮している合図だからだ。

 白馬の周りには、三人がいた。一人はヘルメットを被っているから、騎手だろう。

 馬が静まる様子はない。駆け出す寸前だ。

 こっちを睨む様子は、馬というよりも闘牛の牛を思わせた。

 白馬が、ついに駆け出した。

 騎手が一瞬の判断で、その背に飛び乗ったようだ。


「おいおい」


 子爵はあんぐり口を開けた。

 レースが終わった後に、トラックに乱入。聞いたことがない。

 係員の注意も聞かず、白馬が子爵を追ってくる。

 速い。

 こちらはレース前だから、全力を出すわけにもいかない。

 生き物には逃げる本能があるが、子爵の馬はさすがに名馬だった。

 騎手に命じられたペースを守っている。これなら本番でも、自分の競馬ができるだろう。

 後ろを見ると、白馬が近づいてくる。位置はほとんど変わらずに、視界の中で、どんどん大きくなってくるのだ。


(そうだ)


 子爵は意地悪を思いついた。

 馬に命じて、徐々に速度を上げていく。

 馬は品種によって、絶対的に最高速度の差が出る。遠からず、あの白馬は追いつけずに諦めるはずだった。

 鞭は入れない。手綱と、腿の締め具合だけで馬をコントロールしていく。

 子爵は気味の悪さを感じた。

 速度は、すでに時速三〇マイルは越えている。馬種によっては、ここが限界だ。

 ここから先は、優れたアラブ種、そして子爵の馬――『サラブレッド』の世界だった。

 子爵は迷った。

 そしてこれ以上を速度を上げないことを決断した。

 白馬が追いついてくる。

 ついに並んだ時、子爵の耳を旋律が撫でた。

 騎手は、女性だった。

 腰を浮かせ、馬の首にしがみつくようにして、何かを囁きかけている。


(歌だ)


 柔らかい声で、必死に馬に聞かせているようだ。馬の目は血走っていて、声を聴いていないらしい。

 騎手が、子爵の方を見やった。

 済まなそうな目だった。

 騎手は身を起こし、全身に風を受けた。

 胸を反らせて、大きく息を吸い込む。

 次の瞬間、音の波が子爵と、馬を襲った。

 白馬の速度が緩む。

 子爵も一瞬ふらついたが、それだけだった。しかし子爵の栗毛の馬は、完全に駆けるのをやめていた。全ての命令が剥げ落ちたかのように、栗毛の馬は惰性で少しだけ駆けて、やがて止まった。

 女性騎手が、現地の言葉で何事か言った。

 幼さを残す貌の造作。綺麗な目は、済まなそうに伏せられた。

 遠くから、子爵の調教師と、白馬の関係者らしい男らが駆けてくる。


「申し訳ない、申し訳ない」


 男達はソーリー、ソーリー、と繰り返した。白馬は元来た小屋の方へ連れられて行った。


「大丈夫ですか?」


 調教師は言った。子爵は我に返った。


「あ、ああ」

「見事な乗りこなしでした。あんな駄馬の挑戦など、気にすることはありません」


 子爵は頷いた。

 確かに速かった。だが教育がなっていない。近代競馬は、紳士のスポーツでなければならない。

 規則を乱したあの馬には、恐らく何らかのペナルティが課されるだろう。


「しかし、美しい馬と、騎手だったな」


 子爵は髭を撫でて、去っていく馬の姿を見送った。白馬の後ろ姿は、どこか寂しそうだった。


 子爵は、次のレースに出た。

 開始と共に先行し、後ろの馬を寄せ付けなかった。第三コーナーを曲がり、差し馬が仕掛けてくるところで、加速。ゴールの手前でさらに伸びた。

 圧勝だった。



 お読みいただきありがとうございます。

 ハルビン競馬場では、実際に軍馬向けの馬を集めるために、コースに傾斜を付けたり、サラブレッドを排除したりしていたそうです。



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