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第二話


 シーピンには、ウラジオストクとキャフタを結ぶ鉄道が通っていた。

 李文と清三は、数日を汽車の上で過ごし、大興安嶺の山々を越えた。雪の残る荒野をフールン湖に向かって進んでいると、どこを見ても郷愁のようなものを感じる。

 かつては、どこも李文のように、馬を友とする民の場所だった。

 荒野は定住に適さない。住居を転々として一か所の植生を破壊しない生活が、遊牧民の生き方となったのだ。それは決して宛てもなく彷徨う無計画なものではない。季節によって、一族毎に留まる場所がちゃんと決まっている。

 李文が見ている荒野も、かつて誰かの牧草地だったのだ。

 今では鉄道が通り、人と物がこの地に流れ込んでいる。

 鉄道は、遊牧民が長らく必要としなかった『都市』という概念を草原に持ち込んだ。

 向かう予定の、『マンチュリー(滿洲里)』という街も、そうした発展を享受している街だった。


「李文、覚えているか。俺がお前のところに馬の調達を願った時だ」


 列車の中で、清三は昔話をした。


「あの時は、この地域がこんなに発展するなんて思わなかった」

「覚えているよ」

「馬のいない競馬場は、廃墟みたいなもんだ。お前が格安で軍馬を貸してくれたから、シーピンの競馬場は、一番悪い時期を乗り越えられた」


 清三は日本人だった。

 シーピンに競馬場を建てる目的で、会津から遙々滿洲の片隅までやってきたのである。

 中華民国による利権回収運動、そしてロシアと日本の力関係の変化により、結局、競馬場は日本、中華民国、そしてロシアの三国出資で運営されていた。

 一度、ロシアが手を引きかけたことがあった。

 その時の馬不足を、李文の牧場が埋めた。彼は生活のため、馬の提供を他の牧場にもかけあった。

 清三とはそれからの付き合いだった。


「恩は忘れない。李文、必ず、ここで騎手を紹介してやる」


 李文の態度に、どこか遠慮を感じていたのだろう。清三は、そうやって彼が手助けする理由を明かした。

 謝謝(シェシェ)、と李文は礼を言った。

 列車が速度を緩め始める。汽笛が時の声のように鳴った。


「この辺りには、ナーダムという祭りがあってな」


 清三は続けた。


「遊牧民同士の競技会みたいなもんさ。俺が行った時、丁度、例の一族が競馬に出ていた」

「競馬に?」

「ああ。といっても、トラックを走るんじゃなくて、草原を一周するんだが。その部族は、当然のように優勝していた。速かったよ」


 李文は車窓から外を眺めた。確かに、レース場には困らないだろう。空と地が混じり合うところまで、草原が渡っているのだ。

 李文はほっとした。早く言ってくれればいいのに。


「では、プロの騎手がいるんだな」

「いや、そういうわけじゃない。ナーダムの主役は、十二歳くらいの子供なんだよ」


 李文はがっかりした。

 清三は苦笑する。


「まぁ、俺が見に行ったのは四年前だ。その時の優勝者も、今じゃ立派になってるだろう」


 そこまで話したところで、列車が駅に着いた。

 二人は降車した。ホームはまだ肌寒い。石炭と油の匂いがした。


「ここからは、歩きだったな」


 まだ、日は高い。駅舎を降りると、李文は荷物から外套を取り出した。

 清三は頷いて、前を歩いていく。


「今は、徒歩でもたどり着ける位置に住居を構えているはずだ」

「随分近いな」

「今はな。彼らは季節によって棲家を変える。今は春の宿営地、ハバルジャーにいる。それが、この近くのはずだ」


 とはいえ、危険はある。例えば思った位置にいなかったら、彼らは草原の中で迷ってしまうことになる。


「もしいなかったら、この街に戻るしかないな。馬でも借りて、出直すか」


 そんな算段をしながら歩いていると、ふと優しい旋律が耳を撫でた。

 経文のように聞こえた。歌っているのは、路地の片隅に座っている、少女だった。

 横には見慣れない楽器を持った老婆もいる。家族かもしれない。


「ホーミーか」


 李文は呟いた。

 倍音唱法という、伝統的な歌い方だ。


「いい歌だね」


 清三の言葉に、李文は頷く。

 ホーミーは、本来であれば男性が低い声で歌う。喉で声を響かせるため、熟練者では二つの旋律を同時に追うことができるという。

 しかしこの家族のホーミーは、少女の柔らかい声が旋律を作っていた。

 晴れた空に相応しい、伸びやかな音楽だ。自在に空を舞う鳥のように、旋律が音の高さを変えていく。時間が許せば、きっといつまでも立ち止まって聞いていただろう。


「おい、行くぞ」


 清三は笑って、親子に銅貨を渡した。

 李文もなんとなく決まりが悪くて、同じだけの銅貨を、籠に入れた。


「いいのか?」

「今更、借金が少し増えたって構わないよ」

「違いないね」


 二人は親子に道を尋ねた。


「あの家族ですか?」


 口をきいたのは、少女の方だった。老婆の方は、変わらず弦を弾いている。俯いているので、顔は見えない。


「それなら」


 少女が言いかけた時、後ろで騒ぎが起こった。

 物凄い勢いで馬が駆けていく。馬はあっという間に、路地の向こうへ消えていった。

 怒声や、悲鳴が通りにはまだ残っている。


「事件か?」


 李文はそう呟いた時、何人かが彼らを指していることに気がついた。

 人々の輪は徐々に狭まってくる。しかも、誰もかれも心配そうな顔である。


「な、なんだい」


 清三が告げた時、李文はやっと気がついた。


「セイゾウ!」

「うん?」

「荷物はどこだ」


 何かで気を引き、その間に荷物をかっさらう。都でも常套手段の、とても簡単な強盗だった。


「しまった!」


 あの中には、財布もある。すでに借金漬けの李文ならともかく、清三には大金だろう。さらに、旅も続けられなくなる。


「ま、まさかあんたらも、仲間か」


 少女の方に向き直った時、李文は拍子抜けした。彼女らは、まだそこにちゃんといたからだ。

 強盗の共犯と思われたのが、至極不満なようだった。


「やれやれ、馬を強盗に使うとはね」


 老婆が楽器を置き、かすれた声を出した。


「あんた方に義理はないが。仲間と思われても、癪だからね」


 少女が立ちあがった。指笛を吹く。

 空に、羽音。


(鷹?)


 路地の先から、蹄の音がした。近づいてくる。李文はそれだけで、身震いした。これから来るのは、きっといい馬だ。

 清三と李文の前に、黒い馬が現れた。馬体は小さいが、黒光りする毛並みの裏で、筋肉が唸っているのが分かる。瞳は澄んでいて、静かで、確かな調教の成果を感じさせた。


「スルテ、行っておいで」


 少女が馬に跨った。鞭を入れると、馬が走り出す。


「おい行くぞ」


 清三が李文を急かした。


「こんな面白いもの、なかなか見られないぞ。遊牧民同士の競争だ」


 彼はすっかり自分の荷物であることを忘れているようだった。李文は苦笑して、彼の後に続いた。

 路地を何度も曲がる必要はなかった。なぜなら、路地はすぐに途切れて、草原が始まっていたからだ。

 かなり遠くの方に、逃げていく馬が見える。


(あれじゃ、無理だ)


 しかし、そのすぐ手前に黒馬を見つけて、李文は驚いた。

 いつの間に、あんなに追いついたのだろう。

 このまま追いつくか、と思った時、盗人の頭上で小さな影が舞った。大きな鳥に見えた。鳥に邪魔されて、盗人は針路を変える。街に戻ってくるつもりだ。


「おいおい、突っ込んでくるつもりだぞ」


 清三があんぐり口を開けた。市場に乗り込んで、小さな路地に入り込み、撒くつもりかもしれない。きっと追っ手の早さを見誤っていたのだ。


「どけぇ!」


 盗人が声を上げた。李文は避けようとして、自分のすぐ後ろに小さな子供がいることに気がついた。

 轢かれる。

 覚悟した痛みは来なかった。

 盗人の馬が、不意に速度を緩めたのだ。


「なんだってんだ」


 乗り手は困惑するばかり。李文の耳は、聞き覚えのある旋律を捉えていた。

 これは、歌だ。

 歌を聞いた馬が、速度を緩めたのだ。

 必死に鞭を入れる盗人に、縄の輪っかが被さった。

 少女の声が追う。


「捕まえた!」


 盗人が、落馬した。腰には縄が巻き付いている。


「投げ縄だ!」

「はっは、見ろ李文! 俺も見たのは初めてだ」


 突然の捕り物に、市場の中は拍手喝采であった。

 地面に落ちた盗人は、なんとか身を起こしてみせた。目がぎらついている。懐から、刃物を取り出した。

 黒馬の方に駆けだした。自分にかかった縄を、馬の足に絡めるつもりだ。

 少女は縄を引いて、馬の針路をずらす。

 その時、一瞬、隙ができた。

 盗人は素早く縄を切り、少女の乗った黒馬に向き直る。

 荒事の心得があるらしい。

 腰を落として、刃物は逆手に構えていた。


「舐めるなよ」


 少女と馬が、男へ向き直った。速足、駈足。馬が速度を上げていく。


「子供じゃねぇか!」


 すれ違う直前、少女が馬の上で跳ねた。恐らく、馬と息を合わせていたのだろう。

 盗人の刃が、鞍の上で弧を描く。

 少女は、男の肩に着地した。鞭で男の肘の裏側を叩いてやる。

 刃が落ちる。

 少女は肩から降りる勢いで、男の片腕を掴む。すると、次の瞬間には男は地面に腹ばいになっていた。片腕は、背中側に回されている。取り押さえたのだ。


「ほー、すげぇな」


 二人の感想は、清三の言葉に尽きる。

 李文は無事に荷物を取り戻した。

 盗人をロシア人の官憲に引き渡した少女は、恥ずかしそうに頬を掻いている。身のこなしは武人顔負けだったが、黙っていると、少女と女性の境目にあるのが分かる。

 伏せられた長いまつ毛は、花開く前の(つぼみ)を思わせた。

 なんにせよ、礼を言わねばならなかった。


「感謝します。荷物を取られては、行き倒れるところでした」


 李文が先に頭を下げた。

 少女は、はっとして手を振った。


「別に、気にしません。市場で盗人があると、私も困りますから。それに」


 少女は親指と人差し指で、輪っかの形を作った。

 小さく舌を出す。


「歌、聞いてくれましたし」


 李文は肘で清三を小突いた。彼だけは無言のままである。


「清三、さぁ、君からも」

「スルテか」


 ぽつり、と清三が言った。

 李文は首を傾げる。

 少女もそんな様子だったが、澄んだ目には次第に驚きが浮かんできた。


「彼女が、話をしてた、馬を速く走らせる一族だよ」


 少女はきょとんと、李文と清三を見上げていた。


「この子が?」

「ああ。それだけじゃない。さっき言った、ナーダムの優勝者。それが、彼女だ」


 李文は驚いた。男性だと思っていたのだ。


「セイゾウ」

「ああ、うん。ナーダムの時は、まだ小さかったからなぁ。男の子だと思ってた。いやあ、成長が早いな」


 小声でする言い訳に、李文はため息を落した。

 一族に他の男性がいることを、願うばかりだった。



     ◆



「この歌はな。元々、戦争で家畜の力を絞るために編み出されたものだ」


 李文と清三は、遊牧民の住居に案内された。

 ゲルというテントである。革とフェルトから作られている。このため、遊牧民は古くは『フェルトの家の民』を自称していたという。


「馬は昔から、戦いの道具でもあった。だから歌を聞かせて、馬を昂ぶらせる方法が生まれたのさ」


 老婆はそう言って、息を漏らすように笑った。

 ゲルの中には、竈のような器具が備え付けられていた。上には湯沸かし器が置かれている。老婆は二人に茶を入れてくれた。

 白く濁った、しょっぱいお茶だった。


「乳茶ですな」


 李文は清三にそう教えてやった。


「もっとも、今では、歌えるものも少ないが」

「どなたです?」


 李文はまだ、目的を明かしていない。そのためか、老婆は少し言いよどんだ。


「スルテだ」


 なるほど、と李文は納得した。先程の捕り物でも、スルテの馬は驚くほど速かった。きっと李文達も聞いたあの歌が、馬の能力を引き出したのだろう。


(女性騎手か)


 李文は思案した。女性騎手は何人か、いる。しかし、やはり男性がよかった。

 年齢的にも厳しい。

 見習い騎手として登録すれば、スルテの年齢でもレースに出ることはできる。が、係員に「誠意」を求められそうだ。李文は、あまりそういう方法を取りたくはなかった。


「失礼。前に来たときは、男性にも何人かいたと記憶していますが」

「今はいないね。この辺でも、少し、小競り合いがあったからね」


 二人はそれ以上尋ねることをしなかった。


「そうなると、ぜひ、本人ともお話をしたいところですが」


 清三が口を開いた。彼の目は、ゲルの入り口の方を向いている。スルテは家畜の面倒を見るため、ゲルの外へ出ているのだった。

 老婆は訊ねた。


「清三さん。あんたの目的はなんだね?」

「お孫さんの力をお借りしたい」


 清三は、両手で李文の肩を持った。


「彼は、競走馬を育てています。これからおよそ半年、彼女を彼の騎手にしたい」

「ほ。急な話だ」

「勿論です。急に必要になったのです。それも、ただ出るだけではなくて、勝てる騎手が」


 老婆は黙ってしまった。沈黙が落ちる。

 清三は割と沈黙に耐える方だ。李文の見立てでは、きっと老婆も同じである。

 さりとて、李文に再び口火を切る度胸もない。


「見返りは?」


 清三は、肘で李文を小突いた。


「賞金は折半です。例えば、今年一番のレースで優勝すれば、三千両です。その半分を支払います」


 李文の手元に入るのは、千五百両ということになる。借金は千両。大一番で勝てば、それだけで借金の心配はなくなる。

 勿論、他の小口のレースにも出る。

 しかし馬の維持費や、厩舎の人件費を考えると、利益を当てにできるのは大きなレースだけだった。

 李文は今更ながら、自分がひどく分の悪い賭けに出ていることを自覚した。


「三千両の、半分。つまり千五百両か」


 老婆は目を伏せた。


「清三さん。あんたには、恩がある。だがね、正直なところ、あまり気は進まないね。その競馬っていうのは、純粋な競技ってわけでもない。要は軍馬を育てるところでもあるんだろう」


 否定はできなかった。日本などが競馬場に出資をしているのは、蒙古産の良馬が欲しいという事情もある。


「戦に巻き込まれるのは、嫌なものさ」


 李文もその気持ちは理解できた。彼の借金の大部分は、戦でできたようなものである。

 年老いた遊牧民は、ゲルの奥で、じっと座っていた。

 彼女らが、通りで歌っていたことを思う。

 暮らし向きは、察することができた。


「そうさね」


 頷く表情は、厳しくも、強かった。


「スルテに訊きなさい。彼女がいいと言えば、連れていくがいい」


 李文達は礼を言って、ゲルの外へ出た。意外にも、彼女はゲルのすぐ裏手にいた。

 彼女は馬の群れをゲルの周囲に待たせていて、その中の一頭の乳を搾っていた。夏にはまだ早いが、馬の乳から作る馬乳酒はご馳走になる。馬は乳の出が悪く、日に何度も絞らなければならない。そうした作業の合間だったのだろう。


「お婆様には、すでに話したのですが」


 李文はそう切り出した。


「聞こえていました」


 え、と李文と清三は顔を見合わせてしまった。

 スルテは、自身の控えめな耳を指した。


「私、耳がいいんですよ。馬みたいに」


 そう言って、屈託なく笑った。

 李文と清三は目でやり取りしあう。

 断られたら、どうしよう。


「私達のような生活をする人は、段々少なくなってきました」


 スルテは馬の首筋を撫でながら、言った。


「あの鉄道に乗った先は、どんなところなんですか? ずっと、気になっていたのですけど」


 李文は応えた。


「街になっています。ここよりもずっと大きな街です。色々な物資が集まり、清三のような外国人も多い」

「新しいものが、沢山あると聞いています」

「はい」


 李文は首を振った。


「ただし、厳しいのはどこも同じですけど」


 李文がここにいるのが、証明である。スルテは少し笑ってくれた。


「新しいものも沢山あります。お願いしたい競馬も、その一つです」

「馬で競争をする」

「ええ。走るためだけに走るんです。馬に乗って、できるだけ速く」


 李文は気づかない内に、胸を張って話していた。

 馬の話をすると、いつもこれである。

 少し時間をください、とスルテは請うた。李文と清三は、街へ戻った。

 一日待つことになったが、彼女は来なかった。


「振られたかな?」


 鉄道の駅で、清三が肩を落とした。李文は彼の肩を叩いた。


「いや、きっと来てくれる」

「なぜ言い切れる。振られる男は、大抵そうやって呑気に構えて失敗するんだ」

「よく考えたんだけどさ。広い場所で、思いっきり馬を競い合う。これに食指が動かない馬好きはいないよ」


 そんな話をしていると、路地の向こうから、馬が駆けてくる音が聞こえてきた。




シーピンは架空の都市です。

モデルのハルビンは当時ロシアが借り切っており、ハルビン競馬場では色々と複雑な運営形態になっていたと推察されます。

この点、シーピンではざっくり設定を簡略化しています。


時代の調べ方に甘いところがあるかと思いますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。



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