第一話
もうどうしようもない。
李文はそんな気持ちを、母国語で呟いた。
「没法子」
李文は天井を仰いだ。
昼下がり。事務所と共用の厩舎には、生き物の匂いが立ち込めていた。吐く息は白い。
李文は柵に納められた、馬の一頭一頭を見やった。いっそ、こいつらのどれかにでも乗って、逃げてしまいたい。机に放り出された無数の証文は、容赦のない現実を突きつけていた。
李文は己を奮い立たせて、算盤に手を伸ばす。
「千両か」
それが彼の負債だった。
頭を抱えるしかない。
辛亥革命から、十年ほど経った。天下は、依然としてガタガタのままだ。その間、李文は親戚を悉く養った。
中には金をむしりに来る不届き者もいたが、養わざるをえなかった。血縁のある伯父らを放っておけば、近所から何を言われるか分からない。不孝者と言われたくはなかった。
今では後悔している。
金で繋がっていただけの親戚らが、李文の名で少しずつ借金をしていたからだ。
経営難と重なって、今では借金の額は千両。
普通の稼ぎは、一か月の肉体労働でやっと十両というところだ。
千両とは、土地も家畜も全て売り払って、やっと返せるかどうかという額だった。
先祖代々、彼は牧場を営んできた。今まさに、『廃業』の二文字が頭上に輝いていた。
「邪魔するよ」
厩舎の入り口から、そんな声がした。
「どうぞ」
声をかけると、男がやってくる。李文と同じように、汚れた服を着た男だった。そのくせちっともみすぼらしく見えないのは、精悍な顔をしているからだろう。
歳は互いに三十頃と、近いはずなのだが。
「調子はどうだね」
「もうだめだ。今から逃げる算段だよ」
「そうじゃなくてさ、馬の話だよ」
ああ、と李文は頷いた。男は李文の得意先だった。
男は被ってきた帽子を外し、雪を払った。
「そろそろ、競馬場が再開する。雪が消えるからな」
李文は頷いた。
「星彩は出すのか?」
その名前は聞きたくなかった。しかし、男の顔は期待に満ちている。裏切るのも気が引けて、李文は厩舎を出て外に案内した。
丸く囲われた柵の、奥の方にその馬はいた。
美しい馬、と言っていい。
まず脚が長い。胸には少しだけあばらが浮き、腹回りはよく締まっている。毛並みもいい。曇り空の下で、雪と同じ色の毛が鈍い光を湛えていた。
「やっぱり、すごいなぁ」
男は子供みたいに笑った。
「名馬だよな」
「まぁ、そのはずなんだけどさ」
李文もこの馬の才能は買っている。長い脚も、締まった腰も、落ち着いた態度も、全て優れた競走馬の条件だ。
「成績が振るわない」
なぜか本番のレースでは、駄馬同然になる。
出走の旗が振られた時、すでにその他大勢の馬に呑まれている。最後の曲がりを描く時には、一度も飛び出したことがない。
先行して逃げ切る馬のなのか、それとも終盤で差す馬なのか。成績が低すぎて、それさえも判然としないのだ。
「こいつが才能通り働いてくれたら、店じまいしないで済んだのに」
レースでは、順位に応じて賞金が得られる。仮に一等にでもなれば、賞金として三千両は固いだろう。
夢のような話であるが。
肩を落とす李文に、男は驚いたようだった。
「店じまい?」
「ああ。借金でな。もうどうにもならん」
「おいおい、馬を全部売っちまうのか」
李文は頷いた。もはや仕方がない。
先祖代々、彼は馬で食ってきた。元を辿れば、数百年前、滿洲から騎馬民族が『清』という征服王朝を建てた時、李文の祖先もその中にいた。そして今と変わらず、馬の世話をして貴人に仕えていた。
今は競馬用の馬を育てている。
目的は違えど、先祖代々、馬は生活の糧だったのだ。
「勿体ないよ。こんないい馬を」
「仕方がない。仕方がないんだよ」
「今年のレースが順調にいけば、借金を返せるんじゃないのか」
李文は首を振った。そんなことは何度も考えてきた。
だが、駄目なのだ。星彩が勝つ姿を、馬主の李文自身が思い描くことができない。
騎手だって、いない。
「そもそも、参加の申請をしていないしな」
「それなら気にするな。俺が掛け合って、今からでも登録してやるよ」
「騎手も探してない」
「康志はどうした?」
「あいつは廃業した。理由のもう一つは、それだよ。もう安く騎手を請けてくれるやつがいない」
男はようやく、深刻そうな顔をした。
「なるほど、な」
しかし、やがて歯を見せて笑った。昔から、無理にでも笑ってくれる男だった。
顔を上げない李文に、男はため息を落す。白馬の脇腹を何度か撫でてから、言った。
「なぁ、本当にそれでいいのか?」
男は続けた。
「今まで負けたのだって、こいつのせいじゃないかもしれない。だって才能はあるんだから」
そう言われると、李文の馬屋として矜持が動いた。
才能を腐らせるのは、馬に対して忍びない。
「明らかに、他の馬とは違う」
李文は牧場で調教を受けている、他の馬を見やった。
どれも、星彩に比べて背が低い。
馬の場合、肩から地上までの高さを体高という。
星彩の体高は、李文の目線の位置だった。五尺(170センチ)と少し、くらいだろう。
他の馬は、大体が李文の肩よりも下の体高である。これが胸くらいの高さの馬もいる。
おかげで星彩の手入れには時間がかかった。厩舎も特注で、大型のものを用意してある。色々な意味で、特別扱いだった。
「俺はもっと南の、香港の方で、イギリス連中の競馬を見たことがある。そこの馬の体型と、こいつはそっくりなんだ」
この辺りの馬は蒙古馬と呼ばれる。足が短く、その代わりに頑丈なのが強みだった。一方で、人という荷物を背負って全力疾走するのに向いているかというと、必ずしもそうではない。
ロシア人が競馬のために持ち込んだトロッター馬も同様だ。
「ここに、本当に速い馬は少ない。李文、星彩は惜しいぞ」
そもそも、この地で競馬が始まったのは、鉄道が引かれたからだった。
遠く、ロシアの地から伸びる鉄の道は、この街を通って、海へ出る。
鉄道を引いたのはロシア人だ。
ロシア人が、彼らの好むトロット・レースを始めたのがこの地の競馬の発祥だ。
トロット・レースとはいわゆる車引き競争である。速い馬ではなく、力の強い馬が多い。トロッターとは、このトロット・レース向けの馬を指す。
「競馬場は儲かる。速足を競うトロット・レース以外も、今年は増える」
「駈足競争か」
「そう、それだ。まさに香港でやってる、イギリス式競馬だよ。荷物を引かず、人間を背に乗せて走るんだ」
この『シーピン(西濱)』という街は、『ハルビン(哈爾浜)』と同じように、中華史上類を見ない陸地の物資集積地として成長しようとしていた。
競馬場も同じだ。街が大きくなれば、金も動く。レースも増える。
その意味で、確かに今年は好機だった。
けれど、李文の心は晴れない。
「レースが増えても、こいつが勝てるとは思えない」
李文は被せた。
「こいつは勝負根性がないんだ。勝つことを、怖がっているようなフシさえある」
気性の問題である。
生まれ持った気性を改善するのは難しい。試行錯誤できるだけの余裕は、もうなかった。
男が腕を組んだ。
「残る可能性は、騎手だ。騎手を変えたら、上手くいくかもしれん」
男の言葉を、李文は笑った。
確かに、競馬にはそういうこともある。
だから面白い。けれど、
「かもしれない。だけどさ、そんな騎手、どこにいるんだよ」
有力な騎手は、当然ながら、とっくに他が押さえていた。金もかかる。
「俺が紹介してやれるとしたら、どうだ?」
李文は興味を惹かれた自分に、驚いた。
「紹介?」
「噂で聞いたことがあるんだ。少し前に、戦争のためにロシアの騎兵が西の草原に滞在したらしいんだ。そこで、妙な一族を見たんだと。その一族の人間が乗ると、どんな駄馬でも、全力で走る。そいつらが馬に乗ると、ロシアの騎兵も追いつけなかったんだと。しかも、相手は」
男は口元を歪めた。
「市場の荷物引きの駄馬だったんだ。どっからどう見ても、ヨボヨボの爺さん馬が、騎手だけの力で逃げ切ったんだ」
李文も笑った。冗談だと思った。男の目が真剣だったから、本気であるのだと辛うじて分かった。
「競馬場の仕事でさ。そういう連中を街に連れて来れないかってのがあってさ。結局は断られたんだけど、まぁ、でも、彼らに気に入ってはもらえたんだ」
男は靴で地面を弄り始めた。返答を待つ時の、彼の癖だった。
「星彩に、その一族の騎手を乗せる?」
「ああ。それで駄目なら、諦めも付くだろ?」
確かに、すでに諦めているのだ。
けれど、馬は大好きだ。廃業する前に、この馬の才能を見てみたい。それに少なからず結果を出した馬なら、高値で売れるという打算もあった。
「ん?」
李文は、ふと気づいた。
「だが、お前。西の草原といっただろう。セイゾウ、つまり、その一族は」
やっと気づいたか、という具合に、岡本清三はにっと笑って見せた。
「ああ。ここからだと、モンゴル高原の方角にいる。そろそろ、春の牧草地に移る頃だから、都合がいい。準備しよう。安心しろ。近い。遠くても、鉄道駅から徒歩二日だ」
「牧草地? 徒歩、二日っ?」
強引に話を進める清三は、李文に言ったのだった。
「ああ。相手は、遊牧民だ。千年前からの馬使いにかかれば、俺ら全員が素人さ」
李文の頭の中で、算盤が必死に旅費の勘定を始めた。
星彩の静かな目が、そんな彼らを見下ろしていた。
モンゴル行きたいです。
でも調べたら物凄く寒いことが分かりました。
草原って一年の多くは雪景色なんですね・・・。