僕を風に乗せて?
短編小説。
作者が、まだ中学生の頃に中学校の授業で死ぬことについて考えました。
先日3/31で誕生日を迎え、25歳。10年ぶりのお題です。
10年間の自分の知識や考え方を詰め込んでみました。
死んだ後もしばらく意識はあるという見解を取り入れております。
ご覧頂いている方の中で苦手な方、この小説を読むことによってトラウマになる方いるかもしれません。
楽しく無いと思います。もしかしたら逆に、ありふれたテーマで、薄っぺらく感じる方もいるでしょう。
作者が言うのもなんですが、読破非推奨です。
死生観はテーマにするには重いかもしれませんが、思いを綴ると言う点で、どうしても世に出したかったテーマです。
最後までご覧頂いた方には千万の感謝を。
それでは、ぴざまん売りの人間性と言う文章をご覧ください。
『……ちゃん!、おに……ちゃ』
『やだよ、そんな!』
泣いてるの?どうか泣かないで
真っ暗な闇に落ちていく。
ああ、なんだ。苦しく無いんだ
性交より穏やかで、母の撫手より暖かな
快楽と言うには刺激が足りず、安楽と言うには落ち着かない
これが死
この日、僕は、死んだ。
なにも見えない、なにも聞こえない、なにも触れない、そもそも身体の感覚と言う概念そのものがあるのかもわからない。
でも、聞こえる気がする。
最愛の恋人が鳴いているのを…
見える気がする。
大好きな妹がくしゃくしゃのシャム猫みたいな顔で涙を流すのを…
触れている気がする
尊敬する母の温もりを、頑張ったねと撫でる手を…
ねぇ恋人。大好きな恋人
鳴かないで、君を鳴かせるつもりは無いんだ。もうすぐ僕は消えるだろう。ならば君の笑い声が見たい
なぁ妹、尊敬する妹。
そんなシャム猫みたいな顔で兄を見送るなよ、僕は君の笑顔を、聴きたいんだ。
最愛の母さん。
泣きたい時は我慢しないで、僕はもうそこに居ないんだ、だから貴女の、最後まで見れなかった泣き顔に触れたい、母である前に人なんだから
でもね、そこに僕はもう居ないんだよ。
だからみんな、僕を忘れて
だって僕はもう触るにはどう耳を動かすのか、見るのにどう手を動かすのか、聞くには目を開くのか、それすらも曖昧で
お湯にとけるバスロマンみたいに
シャボン玉の意識で
冬の吐息になるんだから
だからみんな、さようなら
願わくば、僕の残り滓に悲しみを詰めて、焼いてください。
記憶に楽しい思い出を残して
この日、特別に普通なある男の子は、命を終えました。
そして、彼の体は、3人の悲しみを乗せて、灰へと変わるのでした