第1話 最後の天使
楽園は、喪失した。
永遠に続くかと思われた平穏は、一瞬にして終わりを告げたのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ–––––––––」
後ろをついてくる、無数の足音。
私はあの日からずっと、ただ必死に、「それ」から逃げ続けている。
"––––––––逃すな、殺せ!"
私は、この世界中で唯一生き残っている、いわば最後の天使だった。
あの日、私たち天使の住む、俗に言う「天国」は悪魔たちの手によって陥落した。
(天使は殺せ!一人残らず!皆殺しだ!)
悪魔に慈悲というものはない。
女でも子供でも、天使であれば手当たり次第に殺していく。友達も、家族も、みんな殺されてしまった。あるものは翼をもがれ、あるものは腹を切り裂かれ。空は絶望と悲鳴に塗りつぶされ、地面は仲間たちの血で紅く染まっていく。それはまさに「地獄」というほかなかった。一日にして、天国は地獄へと変貌を遂げたのだ。抵抗を続けていた神や大天使もついには殺され、居場所のなくなった私たちは人間の住むここ地上に逃げてきた。しかしやつらがそれを見過ごすはずはなく、やがて次々と捕らえられ、殺され、とうとう残るは私だけになってしまった。
「はぁ、はぁ……」
この広い世界で、たった一人の天使。味方もいなければ逃げ場もない。そんな状況で、そなお諦めずに逃げようとするのは、なにか目的があるわけではなく、ただ単に死にたくないからだ。いや、やつらに殺されたくない、というのが正しいか。やつら–––––楽園を破壊した悪魔に–––––または、その力を与えられた人間に–––––––––捕まれば、どんな目にあうかわからない。
悪魔というのは、卑怯で、残酷で、低俗で…いわば欲望の塊のようなものだ。自分が良ければそれでいい。とにかく楽しければいい。気持ち良ければいい。やつらは、私たち天使を玩具と同じかそれ以下としか見ていない。犯したり、拷問したり、なんとなくで手足をバラバラにしてみたり、羽を毟ってみたり、傷口をひろげてみたり、内臓を引きずり出してみたり、そういうことを平気でやってのける。そして面白いだとか愉快だとか口にするのだ。今までに何人も、酷い殺され方をした天使を見てきた。捕まれば、私もそういうふうに殺されてしまうだろう。それだけは、何としてでも避けたかった。
「っ––––––––––」
隙を見て、廃墟同然のビルへと逃げ込む。人気がないことを確認しながら上へ行き、逃げ道を確保しつつ適当な部屋へと入り、壁に寄りかかって外の様子をそっと伺う。
"––––––––どこへ行った、探せ!"
耳に響く苛立ったような大声。
足音が、すぐ近くで止まった。
うるさく鼓動する心臓。震える身体。
このビルの前から、やつらが動く気配がない。
まさか、ここに入ったのがばれたのか?そんなはずは…震えがよりいっそう強くなる。とりあえず、落ち着かなければ。そう、私は充分な距離を取ってからこのビルに入った。周りも確認したし、やつらには見られていないはず。きっと偶然止まっただけなのだ。それに万が一やつらがここに入ってきても、窓から飛び出せばいい。やつらは飛べるわけではない。だから大丈夫、大丈夫だ…
「だいじょう、ぶ–––––––」
呪文のように何度も唱え自分に言い聞かせる。荒くなっていく呼吸を必死で抑えつけ、耳をすます。大丈夫。大丈夫。落ち着いて、ちゃんと観察して行動すれば、きっと逃げ切れる。
(大丈夫…)
怖い。見つかるのが怖い。捕まるのが怖い。殺されるのが怖い–––––––
神などとっくにいないはずなのに、気がつけば祈りを捧げる人間の真似事をしていた。
(だい、じょう、ぶ……)
いったいどれくらいの間そうしていただろう。そのうちやつらも諦めたのか、他のところを探しに行ったようだった。足音が遠退いて行く。また戻ってくる可能性もあるのでそのまましばらく注意して聞いていたが、やがてなんの音も聞こえなくなった。天使は、人間よりもずっと能力が高い。その聴覚でも追えないほど遠くへ行ったのなら、ひとまずは安心だろう。なんとか、やり過ごせたらしい。
「は、ぁ………」
その瞬間、疲れがどっと押し寄せてきて、全身の力が抜けていくのを感じた。自分の身体を抱きしめながら、その場にしゃがみ込む。
「いったい、私が、何をしたって言うのよ……」
身体だけでなく、心ももうボロボロだった。
自然と涙が溢れてくる。
「なんで、こんな目に––––––––」
私はいつまで逃げていればいいのだろうか。
この恐怖は、不安は、いつになればなくなるのだろうか。
帰る場所などもう存在しない。どこへ行けば、どうすれば、この日々から解放されるのだろうか。
わからないまま、ただ、時だけが過ぎて行く。