日曜日の朝食
「先生は、なんと?」
「『今のところ順調』……です」
日曜日、朝食の席でお父さんが昨日の診察のことを尋ねてきた。
私が晴海のところへ行くと必ずお父さんは同じことを聞いてくる。
そして、私も決まって同じ答えを返す。
まるで「山」と言われたら「川」と返す合言葉みたいに。
このやり取りにどんな意味があるのか私は知らない。私は晴海との診察……というか面談の詳細をお父さんに話したりしなかった。私が春海に話す内容は、基本的にお父さんや奈津子に相談できないことだからだ。いっこうに消えない違和感のことも「秘密」のことも、とくにこのお父さんの前では触れてはいけないタブーのように思われた。
だから、いつも答えは簡潔な一言で終わってしまう。お父さんは代わり映えのない短すぎる返答から一体なにを読み取っているのかわからないけれど、「変化しない」という現象そのものに安堵しているのかも知れなかった。
そもそも私はお父さんにどう接したらいいのかわからなかった。それは私が前と違っておかしいから……ではない。
違う……と言うなら、お父さんこそ劇的に変わった。
高校生までの真冬の記憶にあるお父さんは、仕事人間でほとんど家に帰ってこなかった。
真冬が小学生の時にお母さんがガンで死んでから、小鳥家は父子家庭だ。
お母さんの早すぎる死から、お父さんはその悲しみを塗りつぶすように仕事に打ち込んだ。超大手財閥系グループの医療精密機械を扱う会社にお父さんは勤めている。そのなかでなにか重要なプロジェクトを任されていたらしいお父さんは、何日も会社に泊まり込むことなどザラだった。
家事や育児はお手伝いさんを雇い、ひとえに経済力で解決した。真冬からはお父さんのことをうかがい知ることはできなかったけれど、お父さんからはお手伝いさんを通して真冬の様子をよく把握していたみたいだった。
お父さんが真冬と一緒に食事を取るなど年に何回あっただろうか……。
お母さんを亡くし、お父さんの帰らなくなった家で、ひとりぼっちになった真冬はそれでもお手伝いさんに大切に育てられ、屈折せず明るく育ったのは奇跡と言っていいかもしれない。
だから、お父さんが毎食できうる限り都合をつけて私と食事を共にしようとするなど、異常事態だと思う。
私の行動指針はすっかり「以前の真冬ならどうしていたか」を慎重にトレースすることになっているけど、そもそも真冬がお父さんと触れあった記憶が少なすぎるので、「正解」がわからず私は途方に暮れる。
「昨日の昼は何を食べた?」
「サンドイッチ」
「そうか。それで足りてるか? おまえは食が細い」
「大丈夫……でも、もっと食べた方がいいかな? 前もこれくらいだったと思うけど、もう少し食べてちょっと筋肉とかつけた方がいいかも知れないし」
お父さんの様子を探りながら問いかけると、お父さんはちょっと間を置いてから口を開いた。
「いや、足りてるならそれでいい。無理して食べる必要はない」
「うん」
「……体調はどうだ? どこか様子のおかしいところはないか? おまえはほら、ずっと眠っていたから」
「大丈夫。全然問題ないよ。身体はすごく元気だよ」
「……そうか」
むしろ昏睡から目覚めた直後から健康すぎておかしいくらいだし、精神的には問題なしと言いにくいけれど、あえてそれは口にしない。こんなに心配してくれるお父さんに余計な不安を与えたくなかった。
間が持たなくてダイニングに気まずい沈黙が降りる。朝ごはんは昨夜のうちにお手伝いさんがひととおりおかずを作ってくれていて、私たちはそれを温めなおして、あとはパンを焼くかご飯を炊くかして食べればよかった。
今日はスパニッシュオムレツ、赤蕪のサラダ、ベーコンのコンソメスープ、主食兼ちょっとしたデザートのスコーン。洋風だ。
冬のうす青い光に照らされる食卓に、珈琲の湯気が幽霊のように満ちていく。
ひとりで食べてたころ、真冬は朝食を取らないことが多かった。真冬は朝が弱かったのだ。けど、今はすっきり早起きできるし、お父さんがいるのできちんと食べる。お父さんは何も言わない。この変化は許容範囲なのか。
「考えたら、おまえとこうやって食べることなんて、前はほとんどなかったな……。母さんが居たころはそんなこともなかったのに」
急にお父さんが話し出すからびっくりした。考えを読まれたかと思った。
「うん」
「おまえには悪いことをしたな。おまえだって母さんを喪ってつらかっただろうに、父さんはおまえをひとりにしてしまった」
「いいよ。案外元気にやっていたもの」
私は少し居心地が悪くなって視線を落とした。正直、昔のことを謝られても、知識として知っているだけで、生々しい痛みとか切なさとかそういった実感はない。
「母さんが死んだときな、父さんはこんなことがあったらいけないと思った。まだまだ生きられるはずの人が道半ばで人生を諦めなくちゃならない……。そんな悲しいこと、もう二度とごめんだと思った。だから、父さんは仕事で人を助けようと思った。父さんの仕事は医療に関わるものだから……」
お父さんはとても大切なものをみるようでいながら、どこか無機質な望洋とした瞳を私に向けた。
「おまえが事故にあったとき、母さんのことを思い出した。絶対にどんなことがあってもまた家族を喪いたくないと思った。母さんには悪いけど、まだ真冬をそちらに行かせるわけにはいかないって、必ず取り戻すって、そのことだけは譲れなかったんだ。……だから、戻ってきてくれて本当によかった。こうして元通り元気なおまえと一緒にいられることが、父さんはとても嬉しいんだ」
そう言ってお父さんは唇の端をちょっとあげた。
背中がぞくりとした。お父さんは私を見ているようで見ていなかった。お父さんが本当に見ているのは「前の真冬」? それとも別のなにか?
「元通り」なんて言い方も変だ。お父さんの態度は前と全然違う。それに、私と「前の真冬」の微妙な違いに気づいていて、とても気にしているのはお父さんなのに。事故のショックで心境に変化があったせいかもしれない。けど、それだけじゃなんだか腑に落ちない。
喉の奥に魚の小骨が引っかかったみたいな違和感だった(今日は洋食だけど)。
お父さんの話は、動機と結果だけがあって、過程がないような感じ。お父さんは私に話してないことがあるじゃないだろうか。
リハビリをすべてスキップした私と同じくらいの違和感だった。
「……うん、ありがとう。私もお父さんとこんな風にご飯を食べてるなんて、なんだか信じられないよ」
ぎこちなくお父さんに微笑むと、お父さんは完璧に優しい笑顔を返してくれた。
私はそんなお父さんを素直に受け入れられない自分を申し訳なく思った。