真冬と奈津子 3
夏休み最後の日の午後、真冬はいつもの図書館にいた。
自分も夏休みの宿題を片付けながら、同じ閲覧テーブルの隣で黙々と受験勉強に取り組む奈津子を横目で見る。
ときどき落ちてくる髪の毛をかき上げる仕草に妙な胸騒ぎがした。早織が変なことを言ったせいで、どうでも良いことにまでドキドキしてしまう。
一区切りついて、奈津子がふー、と長く息を吐き出すタイミングを見計らって、真冬は声をかけた。
「あの、今日の帰り、時間ありますか?」
「なあに? あんまり長くならないなら大丈夫だよ」
「あっ、別に、大したことじゃないのでっ、五分くらいで済むことですから」
「そう?」
奈津子がこてん、と首を傾けた。ちょうど瞳に日が射し込み、明るい茶色の目が澄んでいるのが見える。きれいだなぁと思わずぼんやりしてしまった自分に気づいて、慌てて目をそらす。
奈津子はそんな真冬の態度に訝しそうにしながら「わかった」と頷き、勉強を再開した。
結局プレゼントはあれでよかったのか、もっと他に良いものがあったんじゃないか、迷惑だったらどうしよう……真冬は悶々としながら宿題の問題集を解く。全然問題文が頭に入ってこなかった。
突然肩を叩かれハッと顔をあげると、奈津子だった。そこでようやく、勉強を切り上げる時間になっていたことに気づく。
「もう時間だよ」
「そうですね、出ましょう」
図書館を出て、二人で夕暮れの道を歩いた。自転車を押す真冬の隣を奈津子が歩く。
「今日はお茶しないの?」
「いま、ちょっと金欠で」
いつもなら真冬の方から話しかけるのに、今日の真冬は口数も少なく、すぐに会話が途切れてしまう。
なかなか本題を切り出すタイミングを見つけられず、真冬はどうしようか悩んでいた。改まってなにかをするのが、どうにも恥ずかしくて苦手なのだ。
そんな真冬の様子を奈津子は気遣わしげにチラチラと横目でみる。
「あの!」
声をあげたのは奈津子だった。緊張してやや上擦った調子だ。
「私、真冬ちゃんになにか嫌なことしたかな? ごめんね。なにかしたなら謝るから許してほしい」
「へっ?」
奈津子が思い詰めた顔で真冬に迫ると、真冬はすっとんきょうな声をあげた。
「どうして謝っているんですか?」
状況を把握しきれない真冬が訊くと、奈津子はますます焦って早口になる。
「ほんとにごめんね。理由もわかってないのに謝るなんて、もっと怒らせて当然だよね。でも、さっきから考えているんだけど、自分じゃ全然心当たりなくて……。虫のいい話かもしれないけど、なにかあるなら、正直に教えてほしい」
「怒ってませんよ?」
「そうだよね。怒ってとうぜ……って、えっ? 怒ってないの?」
「私は怒ってません」
困惑しながら真冬が呆れると、気の抜けた奈津子が答えた。
「だって、今日の真冬ちゃん、なんだかおかしいし、さっきもずっと黙ってるし」
「あー、考えごとしていたら気が回らなくて。こっちこそ、不安にさせてごめんなさい」
真冬が頭を下げる。
「なんだ。真冬ちゃんに嫌われちゃったかと思った。悩みごと?」
「辻さんの誕生日プレゼントいつ渡そうかなって思っていたら、なんかタイミング逃しちゃいまして。あの!これどうぞ」
真冬はエイヤっとばかりにプレゼントが入った紙袋を奈津子に差し出した。
「へっ? プレゼント?」
奈津子は予想外だったのか目をぱちくりしている。よくわからないままにプレゼントの紙袋を受けとる。
「よかったら開けてください」
「う、うん。ありがとう」
紙袋から奈津子がプレゼントの包みを取り出す。ラッピングは真冬自身がした。紙箱を春の花のように淡いピンクと黄色の不織布を重ねて包み、大振りのリボンでまとめてある。長い間袋に入っていたせいか少しヨレてしまっていた。
「なんだろう。どきどきする」
奈津子がそう言いながら包装紙を破かないようにそっとリボンを解く。
「きれい」
奈津子の呟きに真冬はほっと一息つく。
それは直径三センチほどの美しい藍色に複雑な色の筋と光が散った硝子玉のストラップだった。
奈津子の趣味がわからなかった真冬は結局奈津子のイメージで誕生日プレゼントを選んだ。
奈津子が持ち上げた硝子玉は夕陽に凛と輝き、さながら小さな銀河だった。
「あれ? 箱のなかにまだなにかある」
箱の隅に入っていたのは手のひらより少し小さいくらいの赤い錦のお守りだった。「学業守」と書いてある。
「辻さんが一番欲しいものって、モノより努力が報われることだと思ったんです。有名な天神さまのお守りできっと見守ってくれると思って……」
真冬がそう言うと、奈津子はちょっとびっくりしたみたいに目を見開いて、「ありがとう。絶対合格する」とほほ笑んだ。
◇◇◇
目を覚ますと、目の前にドUPの晴海の顔が迫っていた。
「ちょ、ちょっとなんなんですか! 何しようとしてたんですか! 離れてくださいっ」
ぎょっとして、晴海を思いっきり殴りつけようとすると、むかつくことに晴海は私のこぶしをひょいっと避けてにやっと笑った。
「それはもちろん、観察だよ」
「観察って私のことですか?」
「そう、キミの観察」
「やめてください。気持ち悪いです」
とうとう言ってしまった。うん、晴海は本当に気持ち悪い。怖気が走るとはこのことか。それを本人に言うのは多少気が咎めないでもないけれど、晴海が気持ち悪いのがいけない。
「でも、それが僕の仕事だし、しょうがないじゃないか。僕はキミの主治医。キミに異常がないかよく観察して、問題に対処するのが僕の役割だ」
「あんなに近づく必要なんてないでしょう」
「異常があったから」
「えっ」
異常とはなんだろう? 私が寝ている間、晴海は私の脳波を観ていたはずだ。そこになにか重大な兆候をみつけたのかもしれない。「異常」と言われて急に心細い気持ちになってきた。
晴海は眼鏡の奥の感情の見えない瞳をこちらに向けて、簡潔に言った。
「涙が出ていた」
「はっ?」
「キミは眠り、脳波を計測されながら、涙を流していた。一般的に言うと『泣いている』という状態だね」
そこで私は自分の頬をさわってみた。指先にしっとりと冷たい皮膚を感じる。たしかに私の頬は涙で濡れていた。
私は過去の夢を見ていた。以前の真冬の記憶だ。それは幸せな夢だった。
奈津子と出会ったころの真冬。たぶん初恋だったのだろう。真冬は自分でもそうと知らず、奈津子に惹かれていた。
それはあまりに自然な感情で、まっすぐ心のままに行動する真冬があまりにまぶしくて、そして私はそんな真冬に嫉妬した。
あの目覚めた日からの私は、いつも間違えないように、間違えないように、と目に見えない橋を渡るようにして過ごしてきた。実感のない記憶をさらって演技をする毎日は、しかし私に「ここにいる私は以前の小鳥真冬とは別人である」という残酷な事実を突き付けていた。
そもそも「前の真冬」なら、今の私のような卑屈な態度を取らないだろう。彼女なら、以前との些細な祖語より、深く考えずまっさらな未来の方を向く。変化すら楽しんで受け入れるに違いない。未知の感情に振り回されつつもあんなに楽しそうにする彼女なら、今の状況だってなんとか受け入れるに違いない。
夢を見ながら、そのことに気づいてしまった。それがむしょうに悔しくて、悲しかった。
私はあの無邪気な真冬に、どうやって戻ればいいのかわからない。あの真冬になりたい。奈津子と出会い、恋をしたあの明るく快活な少女に。
けれど、私はあの子とは違う。そのことを知りながら、真冬のなにもかもを引き継ごうとする私はうそつきだ。
その日、晴海はそんな私を「ふむ……」と興味深そうに眺め、「もう少しだね」と意味深につぶやいて私を帰した。