後遺症
冬の日の午後、私はまた晴海の研究室にいた。どっしりした木枠に嵌まった硝子から光が差し込み、数条の光の筋のなかを黄金の塵が舞っている。
晴海にあの「別人のような感覚」を相談してみた。掴み所のない変人だが、奈津子やお父さんと違って、前の真冬を知らない。
私の以前との微妙な違いにいちいちぎょっとしたり、心配したり、複雑な顔をしながらなにかを言いかけて結局口をつぐむこともない。
事故のことを知っている知り合いのなかで、晴海だけは事故前の真冬と私で間違い探しをしないので、今の私の気持ちを打ち明けることができる。
信頼できる相談相手が、この怪しいマッドサイエンティストが相手ただ一人というのが癪だけど。
「それはキミ、後遺症のせいだよ。あまり気にしないことだ。悩んでも一ミリも得にならないし、回復もしない」
晴海はそれがなにか?という顔でバッサリ切り捨てる。全然頼りにならない。
「でも私、本当に前とは別人なんじゃないかと思うんです。記憶はあるけど、みんなまったくの他人みたいに感じるんです」
「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないか」
「わからないんですか?私は不安なんです」
「なんなら安定剤を飲むかね?世間は精神科の薬を悪く言うが、必要なときに必要な分だけ飲むのは悪いことじゃないさ」
「私は薬がほしい訳じゃありません。あなたの医師としての見解が聞きたいんです。一応、専門医なんでしょう?」
晴海は駄々っ子に絡まれたときのように、やれやれと眉間を揉みながら投げやりに言った。
「まあ、キミの悩み事の正体は強いて言うなら、"高次脳機能障害"だな」
高次脳機能障害とは、なんらかの強いショックにより脳の一部が損傷して、その後の生活に影響を及ぼす後遺症とのことだった。その症状は多岐にわたり、記憶障害や認知障害、行動障害、人格が前とは別人のように変わることもあるらしい。
「もとに戻りますか?」
「戻らないよ?」
何を当たり前のことを聞いてくるんだ、と言わんばかりに晴海が半眼で私を見る。
「えっ」
知らなかった、指先から冷える思いがする。
「そもそもな、"障害"というのは治したりできないもののことをいうんだ。基本的に、それ以上良くならないし、悪くなることもない。医者が治療出来るのが病気、本人がその状態を受け入れて付き合い方を学んでいくしかないのが障害」
「そんな……」
「でもなあ、キミは特殊だから、高次脳機能障害というのは厳しいかもしれんな」
「……どういうことか訊いたら答えてくれますか?」
晴海はにまーと両方の口角をつり上げる。
「おやおや、キミもわかって来たようだね。お察しの通り、もちろん秘密だ」
「いつになったら秘密を教えてくれますか? 私は自分で言うのは難ですが、大学にも通っていますし、充分に社会復帰は果たせたと思うんです」
「愛しの彼女の保護つきで、だろう?」
ぐっと言葉に詰まる。晴海は他人の指摘されたくない所を、ピンポイントで突いてくるのが得意だ。
ふんっと鼻をならして晴海は興味無さそうに笑った。
「いいかね? キミが恋人に守られながら大学でイチャイチャしてようが、僕にとって地球の裏側の天気予報並みにどうでもいい情報なんだ。キミに"秘密"を教えるのに、そんなことは問題じゃあない。僕を納得させるのに、今のキミに何が必要か自分の頭で考えてみたまえ」
私はうなだれて、自分の爪先を観察する。爪先にポンポンがついた黒いビロード張りのパンプス。かわいいけど、これは今の私の趣味じゃない。晴海には、言われなくてもわからないようじゃキミは失格だと言われた気がした。
「それよりも」と、晴海は湿気った空気を入れ替えるように切り出した。好物を目の前にした子どものような晴れやかな笑顔。
「脳波を測るから、いつものように楽にして横になってくれたまえ」
晴海は用意してある機械のなかから電極を引っ張ってきて、私の額にいくつか貼る。
電極は西洋風の墓石みたいな黒くて四角い箱に繋がっており、そこからまたケーブルが延びて、晴海のパソコンに脳波が表示される。
このときの晴海は、お楽しみの時間だと言わんばかりに、目をギラギラさせて興奮する。こいつ、変態じゃないのか。
私は襲われないか、いつもすごく心配になる。怪しさだけは売るほどある晴海でも今まで襲われたことはないので、たぶん大丈夫だ。うん、きっと大丈夫。確証はないけど。
晴海はリラックス状態にするためにと、ヒーリング音楽を流して部屋を暗くする。
晴海の指示にしたがって診察台に横になり、静かに呼吸を数える。いーち、にー、さーん……百を数える前に私の意識は現在を離れ、過去をさ迷いだす。事故に遭う前の高校生までの真冬の記憶だ。