チェンジリング
目が覚めてから、 三ヶ月が経った。
私は事故に遭う前、大学に合格していた。
お父さんは私の回復を信じて休学届けを出していたらしい。前期は行けなかったけど、夏に意識が戻った私は後期から通い始めた。都内の有名私立の文学部。自宅通学。今は教養科目と語学を中心に取っている。
私は晴海に言われた通り、失った時間分の遅れを取り戻そうと、取り合えずの目標として、大学生活をまじめに送ることにしたのだ。
昏睡中に過ぎた前期で、サークルに入ったり、知り合いを作るタイミングを逃してしまい、大抵の場合一人で過ごしている。
……というのはウソで、同じ大学の文学部三年生である奈津子が心配して、暇をみては付き添ってくれた。
私は18歳で、奈津子は21歳だ。
大学での付き添いを提案されたとき、さすがにそこまでしてもらうのは申し訳ない気がして、「一人で大丈夫」と言ってみたけど、奈津子は「私が大丈夫じゃない」と苦笑いして取り合わなかった。私も内心不安だったので、悪いと思いつつ甘えている。
大学のロビーに座って読書をしていると、奈津子の声が降ってきた。
「待った?」
「ううん、全然。課題の本読んでた」
「偉いね、真冬は。私なんてもうレポートにうんざりで、昨日は漫画読んじゃってたよ」
そう言って奈津子はころころ笑う。今日の奈津子は明るい茶髪をポニーテールにして、ボーイッシュな白いセーターに黒い細身のパンツ姿だ。私は、事故に遭う前の真冬が持っていた赤いニットのカーディガンに膝丈のフレアスカートを穿いている。
奈津子は当然のように手を差し出す。私は躊躇いがちに手を握る。奈津子相手には、遠慮しても強引に手を繋がれてしまう。
そのまま立って、学食に向かって歩き出す。
スレンダーで長身の奈津子は颯爽として、隣に立つといつもどきどきする。女性らしくもあり中性的でもある面立ちに、切れ長の目が涼しくて、私は本当にこんなに綺麗な人の恋人なのだろうか?と思う。すれ違う大抵の男子は、その美貌に驚いて奈津子を振り返るのだ。
奈津子はときどき、私にバレないようそっと、私が今にも消えるんじゃないの、と心配でたまらない様子でチラリとこちらを窺う。私は覚えていないけど、あの事故のことは奈津子の心になんらかの傷跡を残したに違いない。そんな奈津子の視線に気づくと、私は胸の奥が細い針で刺されたように痛む。
「真冬はいつもなにに遠慮しているの?」
「えっ、なんでもないよ。大丈夫だよ」
まずい、こんな言い方じゃ、かえってあやしい。
「そうかな?私には真冬がなんか無理しているように見えるよ」
「そんなことないって。半年間も寝てたし、起きたら季節も変わっていたから、まだ慣れてないだけだよ」
「ふーん。それよりさ、いつから辛いの平気になったの?」
今日の私のお昼はペペロンチーノだ。結構辛くて、唇と舌がピリピリするけど、キャベツの甘みが感じられて美味しい。
でも、奈津子の言葉にぐっと喉がつまる。前の真冬は、辛いモノが駄目だったんだっけ?
「う、うん、今日は挑戦しようと思って」
奈津子の目が一瞬だけ遠いものを見るように揺れるのを私は見逃さない。
あ、きっと奈津子は前の真冬を思い出している。事故に遭う前の真冬。奈津子と付き合っていた真冬。 まだ私になる前の真冬。
お父さんもよく同じ目をする。目覚めた私が新しく買った服を着ているとき。真冬の好物のはずのビーフシチューをおかわりしなかったとき。名前をつけて大切にしていたはずのぬいぐるみをクローゼットに片付けたとき。
前の真冬の服は趣味が合わなくて、本心ではあまり着たくない。私はどちらかというと前の真冬のようなお嬢様系のかわいい服より、シンプルでかっこいい大人っぽい服が好きなのだ。ビーフシチューもおかわりするほど好きじゃない。ぬいぐるみにはなんの感情もわかないし、ちょっと子どもっぽいと思う。
自分で選んだり、毎日目の当たりにしていたはずなのに、ちっとも懐かしい感じがしないし、親しみがわかない。目覚めたあの日の違和感と心細さは、日ごと膨らむ一方だ。
見覚えがないわけじゃない。みんな覚えているけれど、それは昔観た映画の内容を思い出すような、他人行儀で現実感のない感覚だった。真冬の目が見たものは思い出せるけれど、そのときの真冬の思考や感情はわからない。小鳥真冬という映画の登場人物の記憶と肉体を与えられて、ロールプレイをしているようだ。
事故前の真冬と今の私が、同一線上に存在する連続した存在だという実感がわかないのだ。
私は、半年間、意識の覚醒を待望されていた真冬じゃない。だとしたら、この私は……誰なの? 晴海の言っていた「秘密」も気になる。
そんなことを考えると心臓がどくどくしはじめ、正常な息の仕方がわからなくなってくる。私は慌てて席を立った。
「ごめん。ちょっとトイレ!」
取り乱すところを奈津子に見られるわけにはいかない。良くしてくれるのに、これ以上心配かけたくない。
「待ってっ」
奈津子が私の腕をつかんで引き留める。その顔には、眉尻が下がって困ったような、迷っているような、それでいてこちらを安心させようとするほほえみが浮かんでいた。
「今、泣きそうな顔してた。……ごめんね。一番不安なのは真冬なのに、私、ちゃんとできていないね。どんな真冬も真冬だから、無理しなくてもいいんだよ。恋人なんだから私を頼って」
言って、奈津子は当たり前のように私を抱きしめ、ぽんぽんと背中を叩いた。奈津子の言葉が嬉しい。やっぱり少し目が潤む。
不規則に波打っていた心臓も通常に戻りつつある。奈津子の肩からは冬の日向の匂いがした。
ほっとしたら、別の意味でどきどきしてくる。奈津子が近い。胸が当たっている。 あわわ、これはそういうハグじゃないのに。こんな素敵な人に抱きしめられるなんて、慣れないよ。
あと、ここは学食だ。たぶん、ものすごく目立っている。それも悪い方に。手を繋ぐのも恥ずかしいと思うくらいなのに、奈津子はちょっと大胆過ぎるんじゃないかな。
舞い上がった心は、ふと目に入った自分の趣味じゃないスカートで急速に墜落する。
私は、奈津子が好きだ。奈津子もたぶん私が好きだ。でも、やっぱり私は、奈津子の知っている真冬ではない。「前のように」なんて無理だ。私は普通じゃないんだ。私は小鳥真冬を演じる妖精の取り替え子で、奈津子を騙している気がしてならない。