冬の眠り
静かで、つめたくて、なにもない場所にいた。
ここならなにも起こらないし、なにも考えないで済む。
とても平和で、さびしい、お墓のようなところ。
私はここにいなくてはならない。ここから出て行ってはいけない。
なのに、さっきからうるさい。
最初は雑音だと思ったけれど、しばらくするうちにそれが人の声だと気づいた。
誰かがしきりに私の耳元に話しかけている。
だれなんだろう。やめてほしい。私は眠っていたいのに。
それにしても、この声はなんだかとても、ざわざわする。
◇◇◇
奈津子と別れて、お父さんや晴海たちによってホテルに軟禁されるようになってから、私は世間との接点を失っていた。彼らは私と他人を会わせないように細心の注意を払っていたし、通信機器の類を取り上げすべてのマスメディアから遠ざけた。
だから私は想像するしかなかった。
外でなにが起こっているのか、私がなんと言われているのか。これからの私の扱いはどうなるのか。
男たちの断片的な会話や態度を拾い集め、総合したこたえはおそらくそう現実から外れてないと思う。
でも、もうどうでもよかった。
死体やゾンビ扱いされようとそれは一種の事実だし、私も私がおぞましい存在だというのに同感だ。
ただ、それをどこかで目にしているだろう奈津子の気持ちが心配だった。しかたなかったとはいえ、混乱の極致のまま、放り出してきてしまった。私のことはどうでもいいけれど、「真冬」の名誉が汚されるのは我慢がならない。だって、奈津子の愛した人だし、彼女は純粋な被害者なのだから。
私がここにいることで、誰も幸せにならない。
真冬は名前を奪われその死を冒涜された。
お父さんは亡くなった娘のおもかげにしがみつき、晴海は私を人並みにしようと奈津子を利用した。
奈津子は騙され恋を弄ばれ、一之瀬さんは育てた少女を満足に悼むことすらできていない。
真冬の友人知人たち、沙月さんに渉くん、写真サークルの仲間たちにも迷惑をかけただろうし、私を監視しているお父さんの会社の男たちだって、こんなことになるはずじゃなかったに違いない。
ベッドのなかにいるとき、もうこのまま目覚めなければいいと、強く強く思った。
そうすると、不思議なことにしだいに眠る時間が増え、食べることも必要なくなり、短い時間目覚めていてもだんだんなにもかもあいまいで、遠くなっていった。男たちは焦って私の身体になにかしていたけれど、無駄だった。
私を造ったはずの人間たちにも私の身体のことでどうにもならないことがあるという事実に、胸のすく思いがした。
眠ったまま消えることができたなら、それが一番自然なかたちだ。
眠りに身を任せるのは、身体の末端からじわじわと感覚が消え、はてしなく浮遊するような、底なし沼に沈むような、不思議に心地よい気持ちだった。
◇◇◇
呼び声が止まらない。
だんだん激しくなってきて、とうとう肩を乱暴にゆすられ始めた。
「やめて」
思わず、口をついて言葉が出た。意識は覚醒しきってないのに、しっかり発音したのが自分でもわかった。
「――――!」
それは逆効果でよりいっそう声の調子が強くなる。
ああ、もう。あたまがガンガンする。
「――――起きてっ」
ふいに焦点があったみたいに、声がなんと言っているか、はっきりと聞き取れるようになった。
いやだってば。それだけはしたくない。だって私は、にせ物だ。居ちゃいけないんだ。
「ねえ、あなたがなにを気にしているのかわからないけど、はやく起きてよ」
ああ、声のうるささに気をとられていたけれど、さっきからずっと左手があたたかい。誰かの手につつまれている。私を起こそうとしている誰かは、片手で私の左手を握り、もう片手で私をゆさぶっているみたいだ。
やわらかい花の香りが顔を撫でる。
この匂いは知っている。
そう、あの人とハグしたとき、髪の毛からしたシャンプーの匂いだ。
「真冬が……居なくなってしまったのは今もなんて言っていいのかわからないし、たしかにあなたの身体のことは驚いたよ。
でもね、そんなこと関係ない。
いろいろ知った今でも、私はあなたが大切だって思うから。あなたはあなただけで、いるだけでいいの。
あなたは真冬じゃないし、あなたがここにいるという事実を誰も否定できない。もし、そんな人がいるなら、その人はなにも知らないか、間違っているだけ。
そんな人がいたら、私が違うって言うから。あなたはあなただって言うから。
もし、あなたがあなた自身を受け入れられなくても、私が受け入れるよ。
あなたが新しく出会い直そうとしてくれたから、今私は真冬とは別の人間として、あなたを好きでいられる」
いつの間にかゆさぶりは止まっていて、すがりつくように抱きしめられていた。
「あなたはもうとっくに、自分自身になってるよ。だから何も気にすることなんてない。
誰がなんと言っても、今いるあなたは、誰の代わりでもない。唯一の、尊い、ただの女の子だ」
頬に滴がぱたり、と落ちてきて、このままじゃいけないという思いがわきあがってくる。
ああ、どうしていつも私はあなたを泣かせてしまうんだろう。ほんとうは笑っていてほしいのに。
「だから、目をひらいて。こっちを見て。私はあなたをなんと呼べばいいの。おしえてよ。
ねえ、あなたがここでこうしているの、すごくいやだ。こんなこと、誰も望んでないよ。
それでもだんまりを決め込むなら、こっちだって考えがあるんだからね」
花の香りが強く近くなる。
くちびるに、やわらかくあたたかいものを感じて、ぬるりと湿ったものが割って入ってきた。
肉厚のそれは、いたわるように口のなかをなぞる。
カッとあたまに血が昇った。
これって! これって!
思わず目を見開くと、すぐ目の前に悪戯っぽい奈津子の瞳があって、ちゅっと唇が離れた。
なんだこれ、なんだこれ。最悪だ。大人のキスだ。心の準備もできてなかったのに。全身に血がめぐって、身体が勝手にわなわなと震える。
「~~勝手に、き、キスするなんて、ひどいよ!」
「ひどいのは、そっちだよ! どれだけ私が心配したと思っているの!」
「私がいたらみんな不幸になるんだから、これでいいの。奈津子だって騙されて、利用されて……こんなの、間違ってるよ。私なんか――」
「――その先を言ったら、ゆるさないから。この、ひとりよがりの引きこもり!」
「な、なによ!」
「言いたいことがあるなら、引きこもってふて寝してないではっきり言いなさいよ」
「今言おうとしたら、さえぎったくせに。むちゃくちゃだよっ」
「それとこれとは別よ!」
はんっと鼻で笑ってこっちを見下ろす奈津子の勝ち誇った顔に、むしょうに腹が立って腹が立って、おかしくてしょうがなくて、なんだか力が抜けて、ぽろぽろと目から汗が出た。
よく見ると、相手の頬にも涙の赤い筋ができていて、指でなぞろうとするもその手を取られ、反対にハンカチで乱暴に顔をゴシゴシやられた。すごい力で私の顔の皮が剥けそうだ。
「このばか」
ばかとはなんだ。ばかはそっちだ。わけのわからないこんな私のためにここまでするなんて。見えている地雷に全力でつっこむおばかだよ。ばかばか、こんなことされたら離れられなくなるじゃないか。
やっとハンカチから解放されたと思ったら、こんどはぎゅっと胸のなかに閉じこめられて、とくとくと心臓の音が聞こえた。
奈津子は生きているんだなぁ。じんわりと、しみいるように実感して、切なくてたまらなくなった。
「おかえり」
くぐもった声が聞こえた。胸に抱きこまれているから、奈津子の顔は見えない。私はただ黙って、ひっしとしがみつくだけにした。
私はこのぬくもりをわけてもらっても、いいのだろうか。
さびしいのも、冷たいのも、ほんとうはいやだ。
こわかった。ずっと。
誰も私自身を求めてないと思っていた。
でも、ここに私を求めてくれる人がいるなら、わがままでもなんでも、ここに居たい。
「ただいま。……ありがとう」




