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モーニングコール

奈津子視点は今回で終わりです。

いつもより長いです。

 ――あの、この傘、よかったら使ってください


 これは真冬が奈津子にはじめて声をかけてきたときの台詞である。


 はじめて会ったとき、宇宙人だと思った。

 それくらい、意味不明だった。


 だって、なんの義理もない初対面の人間のために、傘を貸して自分は濡れて帰るというのだから。

 みれば、クラスの中心にいるような無邪気な明るい瞳をした少女で、一目で奈津子とは違うカーストの住人だとわかった。

 それが、なぜ?


 幼いころから奈津子は、劣等感の塊だった。自分の男みたいな身長が嫌い。身長をからかわれたとき何も言い返せない自分が嫌い。目立ちたくなくて猫背のみっともない自分が嫌い。


 そんな自分が、真冬みたいな華やかな子に気にかけてもらえるはずがない。


 真冬と顔見知りになっても、たびたび食事に行くようになっても、奈津子はかたくなだった。

 一歩引いて、いつでも逃げることができるように。


 そんな奈津子のことを知ってか知らずか、真冬は壁を軽々と飛び越えて見せた。

 それができる彼女のことがたまらなくうらやましくて、まぶしかった。

 真冬が輝くほど離れがたくなり、同時に己の情けなさをどうしようもなく意識した。


 真冬はよく奈津子の身長をほめた。


 ――いいなあ、辻さんは背が高くて。モデルみたいにすらっとしていて。ああ、ほら、あのワンピースなんか辻さんに似合うんじゃない? きっとすごくかっこいいよ。


 人の気も知らないでそんなことを言う真冬が憎らしくて、かわいらしくて、なんだか胸の奥の方が熱くなって、ぐるぐるした。


 いつのころからか、背をまっすぐに伸ばして歩くようになった。

 真冬の隣に居ても恥ずかしくないように、少しでも追いつきたくて。

 けれど、やっとの思いで奈津子が一歩距離を詰める間に、真冬は持ち前のエネルギーと好奇心で二歩も三歩も先に進んでしまう。それも無意識だからたちが悪い。

 手を引いて狭い世界から引っ張り出してくれた恋人は、決して隣を歩かせてはくれない人だった。



 ◇◇◇



 真冬と突然連絡が取れなくなって半年。奈津子はなんの手がかりもない音信不通の恋人に、とうとう置いていかれたのだと思いこんでいた。真冬はたとえるなら、たんぽぽの綿毛、錨のない帆船、はじけるポップコーン。彼女は新しい世界に飛び出して行ってしまい、はるか後ろでもたつく奈津子のことなど忘れてしまったのだろうと。


 だから、彼女の親に呼ばれ、事故のことを知り再会した時、奈津子の胸にあったのは安堵だ。

 また会えたよろこび。健康そうな姿。捨てられた事実がなかったこと。



 言われるまでもなく、気付いていた。

 半年の昏睡から目覚めた女の子が、以前とは別人だということに。

 だって、彼女は奈津子に手を引かれるままに歩いた。奈津子に頼り、甘やかさせて(・・・・・・)くれた。

 親鳥のような気持ちだった。穏やかで優しくて、取り残される恐怖のない日々。



 さまざまなことにいちいち戸惑いひるみながら一歩を進む彼女は、ぐっと奈津子に近くなった。無理をして歩調を合わせる必要のないくらい。

 違和感よりもなによりも、ずっと一緒に居られるであろう安心の方が大きかった。


 身を焦がすほどに憧れた真冬はもういない。

 あのきらめく夢のような日々を共有する人はいない。

 衝撃の事実を知り圧迫的な喪失感と全身を覆う悲しみとともに、変わってしまった恋人に対して以前よりも深く共感と親愛を覚えるようになっている自分を奈津子は知っていた。




 ◇◇◇




 あの子の番号で電話を寄こしてきた晴海の要件は、あの子に会ってほしいということだった。


 ――彼女は、生きることを諦めている。

 人形なんだ。まるっきり。

 すべてなすがまま、自分を投げ出している。

 もし、キミがいまでもあの子のことを少しでも想っているなら、会ってやって、その横っ面ひっぱたいてくれよ。

 僕たちじゃダメなんだ。キミじゃなきゃ。



 電話越しに晴海は多くを語らなかった。

 どうしてあの子の電話をお前が使っているのかと問えば、奴は「その方が出てもらえるかと」と平然と言い放ち、そういうところがほんとうに嫌らしいと思う。

 とにかく来てくれと言われ、迷った末に人目を忍んで指定された場所へ向かう。


 意外にもそこは人目の多いターミナル駅近くのビジネスホテルだった。木を隠すには森のなか、ということかもしれない。


 教えられた部屋番号の扉を叩くとすぐに内側から開いた。迎えてくれたのはいつか奈津子の行く手を阻んだ冷たい印象の男で、すぐに晴海が奥から出てきた。

 目に入る範囲にはこの二人だけで、あの子の姿が見えないことにざわざわと胸騒ぎがした。


 セミスイートのようで、まず奈津子が通されたのはリビングだった。大きなキャリーケースがいくつかと、用途不明の機械類が部屋を圧迫している。今は扉で閉ざされて見えないその奥が寝室らしい。



「あの子はどこ?」

「ベッドルームに居るよ。見ればわかる。

 先に言うけど、小鳥さんはここには居ない。あの人は完全にマークされてしまっているから別行動なんだ。

 僕の判断で、キミを今からあの子に会わせる。覚悟しておいてくれ」


 答えたのは、晴海だった。以前会ったときと違い、Yシャツが皺でよれて疲れているみたいだ。整髪料でぴしっと決めていた髪型も乱れている。もう一人の男もよく見ると顔色が悪い。

 その場にたれこめる重苦しい空気に、奈津子は知らず緊張で喉がからからになった。




 晴海に案内されて入ったベッドルームは清掃を断っているのか雑然としていた。

 カーテンを閉め切った部屋は薄暗く、はじめ奈津子はあの子がベッドで眠っているのだと思った。

 白いシーツの海に埋もれた彼女の顔は安らかで、久しぶりに見る姿に少しだけほっとする。


 けれど、すぐに異変に気づいた。まず、掛布団の下からこぼれる何本もの管を見つけた。蛇のようにのたうったそれらはかたわらに設置されたモニターに繋がっていた。モニターにはさまざまな波形が表示されている。

 思い切って布団をめくると、胸がまったく動いていない。おそるおそる(はだ)に触れる。ゴムのように冷たく無機質な感触。

 そのまま口許に手のひらを近づける。……なにも感じない。


 奈津子の脳裏に幼いころ亡くなった祖母の姿が浮かんだ。もうおぼろげな印象しか残っていないけれど、かすかに消毒液の匂いのする狭い棺に納められ、白い菊に囲まれ、鼻と口に真っ白な綿が詰められていた。最期の別れにそっと触れた顔の感触が、たった今あの子を撫でたばかりの手にまざまざと蘇り、ぞっとした。そっくり同じ手触りだった。



「驚いただろう。その皮膚は人工血液の循環が止まると、すぐ冷たく強張ってしまうんだ。でも、彼女は生きているから安心してくれ」


 いつの間にか背後に立っていた晴海の声に肩が跳ねた。

 驚きのあまり動悸のする胸を押さえながら、とうてい信じられないという思いで問い返す。


「でも、この状態は?」


「大丈夫。脳は動いているんだ。生身の方も、補助脳の方もね。

 でも、彼女は自らを深く閉ざしてる。どうやったのか身体のほとんどの機能を停止させ、外部刺激のいっさいから自分を切り離したんだ。

  自分の内部奥深くに引きこもっているのさ。緩慢な自殺といえる。もしかしたら、彼女なりの僕たちへの抗議なのかもしれないな。僕たちをひどく嫌悪し、拒絶していたから。

 こんな見た目でも、もともと体温や呼吸、拍動は一種のアクセサリーでしかないから、なくても問題ない。でも、このままの状態が続くのは良くない」


「目覚めなくなるの?」


「違うさ。たしかに何もなければずっと眠ったままかもしれないが、それよりもっと悪いことがある」


「目覚めなくなること以上に?」


 奈津子には、これ以上悪くなることなんて想像できない。だって、目覚めないということはつまり、死んでいるのと変わらない。晴海は質問には答えず、苦笑して力なく首を左右に振る。


「キミは今のこの子を見て、どう思った?」

「それは……」


 一言で言えば、死体。でも、そう表現するのは躊躇われた。


「じゃあ、質問を変えよう。

 これを警察の人間が見たら、彼女をどう扱うと思う?

 実は警察が捜査を開始しているという噂は本当なんだ。連中も僕らの罪状を決めかねているようで、まだ任意聴取しかされていないけどね」

「あっ」


 背筋に氷を当てられたようにヒヤリ、と嫌な予感がした。


 もし警察が今のこの子を見たら、はたして生きた人間として扱うだろうか。


 彼女のこの姿は、決定的な印象を与えてしまう。それも致命的に悪い方向に。


 その結果、警察が下した結論が、死体扱いなら司法解剖、証拠品扱いなら死者の最低限の尊厳すら与えられないだろう。



 だって彼らは知らないのだ。

 彼女のことを何も。今の彼女のことも、以前の彼女のことも。


 目覚めてからの彼女が全身を押しつぶされそうな苦悩のなかで、自他に誠実であろうとどれほど努力してきたのか。

 ときおり奈津子に向けてくれたはにかんだ笑顔が、どれほど生き生きとし、尊かったのか。

 それは「真冬」とも違う、彼女だけの輝きだった。


 それを知らない彼らは、簡単に最悪の決断をしてしまうかもしれない。



「私にどうしろと?」

「言っただろう。王子さまのキスで、眠り姫を起こしてくれ。この引きこもりの甘ったれを夢から引きずり出すんだ」



 晴海の話はこうだ。

 彼女の補助脳に外部から強制アクセスをかけることによって、眠り続けることを妨害し目覚めさせるだけなら今すぐでもできる。

 しかし、それはしない。あくまでも本人の意思で起きなければ、同じことの繰り返しになるからだ。


 だから、無理に覚醒させることはせず、晴海が補助脳に少しだけ介入し、五感を復活させる。

 これによって眠っていても彼女は周りの様子を感じ取るようになるから、そこで奈津子は彼女に語りかけ説得しなければならない。

 起きたくなるように。

 再び、生きてもらうために。





「勘違いしないで。私はあなたたちが嫌い。大嫌い。本当は今すぐこの子の前から消えてほしい」



 いよいよはじめるというとき、奈津子は彼女に繋がる機械のひとつにコードを入力しはじめる晴海と隣でメモを取る男に釘を差した。

 晴海は面白がり、男はそんな奈津子を無視して作業を続けた。


「へえ? でも、協力はしてくれるんだろ?」

「違う。私はただ、この子に居なくなってほしくないだけ。それだけよ」

「どっちだって同じさ。この子が目覚めるんなら」


 それきり晴海も黙って作業に戻り、準備が整うまで誰も一言も発さなかった。



 その間、奈津子はずっと彼女の手を握り、一心に顔を眺めていた。

 彼女の寝顔は安らかだけれど、灯の消えたように静かだ。

 冷えて、生命の躍動を感じない。

 言い様のない悲しさとさみしさがせり上がってきて、ますますきゅっときつく手を握りしめる。




 きっと大丈夫。かならず目覚める。


 だって、あの子はずっと一生懸命だったのだから。自分で自分を受け入れ、まわりに自分を認めさせるために。

 死にたいなんて、そんなこと本当は思ってないはず。

 生きるために、この子はもがいていたのだから。


 奈津子はただ、それを思い出させる手助けをするだけだ。


 だから、大丈夫。

 戻ってくると信じてる。


タイトル変更してみました。

旧題はずっとセンスないと思っていたのですが、新しいタイトルはどうでしょうか。

少しでもよくなっていることを願います。

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