診察
目覚めてから、二週間経った。
医者は二週間ごとに様子を見せに来るように指示した。
今日は、初回の診察だ。
あの医者は晴海と名乗った。
晴海は、なにもかもがうさんくさい。
はじめ、指定された大きな大学病院の外来に行ったら、「ここじゃない」と言われた。(病院の名前は合っているのに、どういうことなんだろう?)と困った私は、連絡先として渡されていた晴海の電話番号にかけた。
「あー、違う、違う。まったくどうして病院の方に行っちゃうかなあ……。僕としてはずっとキミをいまかいまかと待っているのに」
「……それで、私はどちらに伺えばよろしいのですか?」
気持ち悪い。それが晴海の第一印象だ。だけど、主治医の機嫌を損ねるのは、私が損するだけだと我慢する。
晴海は、病院に隣接する昔の小学校みたいな印象の古めかしい煉瓦造りの建物を指定した。その建物の廊下のもっとも奥にある薄暗い研究室が晴海のテリトリーだ。
と言っても、薄暗いのは廊下だけで、室内は明るく広くて、白いリノリウムの床に、新しく塗られた壁、意外と近代的で清潔な雰囲気だった。
室内は、いくつかのパーテーションで区切ってある。
手前の空間には晴海の机と大きなデスクトップパソコン、椅子が二脚、診察台、人の背丈ほどの観葉植物の鉢植えがいくつか置いてあって、ちょっとしたジャングルだ。
目隠しの後ろには、用途不明の機械類と、絶妙なバランスで積み上げられた本や資料がごちゃごちゃと押し込まれているのが隙間から見えた。なぜかマネキンみたいなものも見える。
「なんでこんなところにいるんですか?」
「失礼だな。僕が僕の部屋に居るのは当たり前だろう」
「いや、そうじゃなくて……あなたは医師、ですよね?」
「その点は安心していい。僕はちゃんと医師免許を持っている。僕は少しばかり特別でね」
晴海は得意そうに目配せして、にやっとする。
あまりのうさんくささに晴海とあいさつしただけで帰りたくなった。
なんなんだこの部屋?なぜこの建物?病院の診察室じゃないの?なぜ看護師とか晴海以外誰もいないの?
晴海はどう見てもまともな医者に見えない。どう見ても無理。
あの妙にしっくり来ない感覚を除けば、身体はなんともないのだし、定期検診なんて必要ない。帰っても平気。そうに違いない。というかここに居る方が危ない気がする。心の中で赤いランプが点滅し警戒を呼びかける。
「すみません。急に気分が優れなくなったので、今日はもう失礼させ」
「おお!それはいけない!僕が診てあげよう」
私が逃げようとすると、晴海はその言葉を遮ってサッと立ち、驚いたようにわざとらしく目を見開き、両腕を左右に広げながらさりげなくドアと私の間に立った。しまった。逃げ道を塞がれた。
私はじりじりと晴海から遠ざかる。
「まぁまぁ、そんなに睨まないでくれたまえ。僕はキミを監禁したりなんかしないよ?」
「じゃあ、帰してください」
「それはできない」
「どうして?納得できる理由を教えて」
晴海は意外にもさっきまでの芝居がかったしぐさを改め、誠実な青年のような真面目くさった表情をした。今まで気づかなかったけど、そういう顔をすると晴海は知的で、なかなかイケメンに見える。
「キミを診れるのは僕だけだからさ」
晴海の言っている意味がわからなくて、眉をひそめる。
「医者なら他にもいます」
「言っただろう?僕は特別だと。それにキミも特別だ」
「私は普通です」
「普通じゃないさ、半年も昏睡状態だったのに、いきなり起き上がってピンピンしているなんて、尋常じゃない。
意識が戻っただけでも奇跡だが、キミは本来必要なリハビリの過程をすっ飛ばして、自分の足で立って歩いて生活している」
図星だ。私もおかしいと思っていた。あの日、私は自分を鏡で観察したけど、どこにも衰弱しているところを見つけられなかった。
「あなたは理由を知っているんですか?」
「知っているとも。僕がキミを治療したんだからな」
「教えてください」
「秘密だ」
いったいなんなんだろう、この人?ふざけているのだろうか。その割りに目の前の白衣の男は、真剣なまなざしをしている。
「おかしいじゃないですか! 私には知る権利があるはずです」
「駄目だよ。まだ、その時じゃない。キミはまだ目が覚めたばかりだろう? 戸惑うことも多いはずだ。
リハビリというのは、なにも身体機能のことだけじゃない。失った時間のギャップを埋め、ふたたび社会に馴染んでいくのもリハビリの一部だ。今のキミはそれで精一杯だし、社会復帰に集中して余計なことは考えない方がいい」
ほのめかすようなことを言うくせに、肝心なことはなにも教えてくれない晴海にイライラする。
「……知ったら、社会復帰に集中できなくなるようなことなんですか?」
晴海は顎をさすりながら考える。
「そうだなあ。人によるかも知れないな。だが、僕はリスクを犯したくない。見たところ、キミは馬鹿ではないようだが、少し臆病なところがある。さっき、僕から逃げようとしたろう? 繊細な人間には、堪え難いことかもしれない」
「それは命に関わりますか?」
「いや、キミは普通の人と変わらない生活ができる。まあ、元気すぎるくらいにね。僕が保証しよう。その点は心配しなくていい」
私はため息をついた。よく、わからない。視界がぐるぐるして、本当に体調が悪くなってきた気がする。
「どうしても駄目ですか?」
「駄目だね。キミが落ち着いたら教えよう」
「約束してください。必ず教えると」
「ああ、約束しよう」
晴海は大きく頷いて、握手してきた。まるで大事な契約を結んだ直後みたいに。グッと手を握られたので、一瞬だけ握り返した。
「今日はもう帰りなさい」
「診察は?」
「キミも疲れただろう。それに混乱している。顔色がよくない。診察は次回でもできるさ……。今日は家に帰って休みなさい」
別れ際の晴海の声は落ち着いてあたたかく、マッドサイエンティストじゃなくて、人間らしい思いやりにあふれた響きがした。
帰り道、胸が重いもので塞がれたように不安だった。
秘密ってなんだろう?私がひどくショックを受けるようなことらしい。
でも、晴海はそのうち、必ず教えてくれると約束してくれた。
今、このことで頼れるのも、秘密を確実に知っているのも晴海しかいない。
私にはどっち道、晴海を信じるしか選択肢はないのだった。