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火傷のあと

 

 江の島から帰ってきて、私は体調を崩していた。

 なにもする気が起きなくて、自室のベッドに横たわってぼんやりする。


 年末年始の大掃除直後はからっぽで寒々しい印象だった部屋にも段々モノが増えてきて、少しずつ、少しずつ居心地がよくなってきている。


 かわいいけど少し子どもっぽかったベッドカバーとカーテンを落ち着いた色に替えた。さらに、なくなった小物のすきまを埋めるように大小さまざまな観葉植物の鉢植えを並べ、白い壁にはモザイクタイルのように自分の写真作品を張り付けた。気のせいかもしれないけれど、それだけで部屋には瑞々しい新鮮な空気が満ちてきたように思える。



 私は一番最近壁に張り付けた写真を眺めた。

 一日の天秤が昼から夜に傾く瞬間、あの世とこの世のあわいのような赤紫から藍へ変化する空と海を背景に、こちらへまっすぐ身体を向け、たたずむ一人の若い女性。風にあおられた長い髪が口元の表情を隠し、黒い双眸だけが野生の獣のように強い光をたたえている。その瞳は、幼い迷子のように泣くのをこらえているようにも、戦士のように決意を秘めて闘志を燃やしているようにも見える。ひどくアンバランスで矛盾した魅力にひきこまれそうになる一枚。


 江の島で撮った写真だ。

 自分の力量を越えて迫力のあるものにしあがった。私が撮ったというより、奈津子から発される得体のしれないなにか大きな力――引力のようなものが力づくで私から魂のようなものを引きだし、シャッターを押させ、フィルム上で化学反応を起こした。奇跡と言った方が正しい。私以外の誰かが奈津子をとっても、奈津子以外の誰かを私が撮ってもこれほどにはならないと思う。


 焼き増ししたこれを奈津子に渡したときのことを思い出す。


 ――はい、これ。この前、撮ったやつ、現像できたからあげる。

 ――ほんと? ね、ね、今見てみてもいい?

 ――だめ。恥ずかしいから家で見てよ。

 ――やだ、待てない。


 いたずらっ子のように瞳を輝かせて写真を覗き込んだ奈津子は息を飲んだ。


 ――すごい。真冬。


 感嘆のため息。ぽつりと漏らされた声。それだけで私は胸がいっぱいになった。奈津子が私の写真を見て感動している。


 奈津子を撮ってよかった。ありがとう、ありがとう。奈津子。二人の間には、こんなにもすばらしいものがある。奈津子のおかげで、それを目に見えるかたちで知ることができた。


 愛おしい気持ちがあふれ、自然に顔が寄った。唇に、と思ったけれど、やっぱりはずかしくて頬に唇を押し当てる。やさしい薔薇の香りがした。


 私の恋人は少し驚いたけれど、すぐにとてもうれしそうに笑って、触れるだけのキスを唇に返してくれた。




 目を閉じるとその時の光景がよみがえる。裸足で逃げ出したくなるような照れくささと、幸福感に全身が満たされる。


 しかし、精神の高揚に反比例するように、身体が沈む。


 どこがどう悪い、と具体的には言えないのだけど、全体的に身体がだるくて重い。

 いや、だるいというよりは、身体の感覚に現実感がないと言った方がいいかもしれない。身体が砂の詰まった人形になってしまったみたいに、すべての感覚が鈍くて、動かしづらいのだ。

 実は江の島に行く前から兆候はあったのだけど、最初はたいしたことがなくて放っておけば治ると思ったのに、逆にどんどんひどくなっていくようだった。




 食事の味もよくわからなくなってきていて、あまり食べる気が出ない。砂や粘土を噛んでいるような感覚だ。でも、せめてスープだけでも飲もうと、ベッドから起き上がってキッチンへ行き、インスタントの粉末をカップにあけ、熱湯を沸かす。


 暖房が入っていないキッチンに、やかんのしゅんしゅんという音ともうもうとした湯気が広がる。

 それにぼんやりと魅入る。右手でやかんの取っ手をつかむ。お湯を入れすぎたかもしれない。重い。カップを左手で持ち上げ、やかんの口にあてがう。お湯を入れる――と、そのとき、やかんを傾け過ぎたのか、力加減を間違えたのか、あるいは蓋をよくしめていなかったのか、ばしゃっと音がして左手に熱湯がかかった。銀色のシンクが、こぼれたお湯の温度に驚いたようにぼこりと鳴る。私は慌てて乾いた布きんでお湯をふき取る。スープはカップからあふれて台無しだ。


 一通り拭き終わって気付いた。

 熱湯が直接かかった自分の左手が火傷していないことに。目の前のお湯をふき取るのに夢中で、熱さも感じていなかった。


 沸かしたてのお湯だ。それが人間の皮膚にかかって、なんの痕跡も残さないなんてこと、あるのだろうか。


 火傷はすぐに冷水で冷やす必要があるけれど、私は冷やしていない。それなのに左手には水ぶくれも腫れも、それどころかほんの少しの赤みすらない。目の前にかざして裏も表もみてみても、しろくてなめらかな、いつも通りの自分の手。


 なんだこれは。

 これは、おかしい、気がする。



 黒い雨雲のような不安がもくもくとわきあがってきて、胸を覆い尽くす。

 不吉な予感がして、私はこのことを努めて忘れることにした。

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