新しい関係
「ヒナちゃん。ここ、いい?」
一月の後半、そろそろテストシーズンに入ろうかという昼休み、混雑した学食で一人昼食をとっていると、朗らかな女性の声に呼びかけられた。
顔をあげると、英語の演習クラスでよくペアを組んでくれる沙月さんがいた。
沙月さんは明るく積極的な性格で、講義でいつもぼっち気味な私をさりげなく気にかけて声をかけてくれる。長い黒髪にふっくらとした白いもち肌の持ち主でいつも優しい笑みを浮かべている。「北風と太陽」の太陽のような人だ。
沙月さんの明るさは、ギラギラと照りつけるようなものではなく、どこかおっとりとしていて冬の陽だまりのような穏やかさがある。
「ヒナ」とは、私のあだ名だ。英語の演習のとき、ファーストネーム、もしくはニックネームで呼び合う決まりなのだけど、「真冬」と呼ばれると私はいつも緊張してしまう。つとめて表情にも態度にも出さないようにしているのだけど、それでもほんの一瞬だけ喉がつかえるような感じがするのだ。
沙月さんはそんな私の様子を見て「名前で呼ばれるのが嫌なの?」と訊いた。返事にまごつく私に、沙月さんは「なら、ニックネームはどう?」と提案した。「苗字が『小鳥』だから鳥の雛でヒナちゃんね」と。それ以来、私は沙月さんに「ヒナちゃん」と呼ばれている。
私はその呼び名をとても気に入っている。これだけは自分だけのもの、と言える気がして。
沙月さんは私の目の前の席に腰掛け、持ってきたかけうどんを優雅にすすりはじめた。
私もとくになにか話しかけるでもなく、自分のサバ味噌煮定食の続きを口に運ぶ。次の時間はちょうど沙月さんと同じ英語の演習クラスだった。たぶん彼女は、空席が少ない学食で、たまたま二人掛けのテーブルに一人でいる知り合いを見つけて、気軽な気持ちで声をかけたのだろう。沙月さんにしてみれば席を確保したかっただけで、深い意味はない。
「ヒナちゃん、なにか雰囲気変わったね?」
おもむろに切り出されて、私はむせそうになる。この前、晴海に言われたことと同じだったからだ。私ってそんなにわかりやすいのだろうか。
「なんていうんだろう……。全体的にやわらかくなったみたい。表情とか醸し出す雰囲気とか」
「やわらかく?」
「うん。前は張りつめた一本の細い糸みたいに、今にも限界が来てしまいそうで、余裕のない感じだった」
「私って、そんなに怖い感じだったんですか?」
「うーん。怖いというより、脆そう? うかつに触ったら壊れちゃいそうな……。あぁ、でも怖いといったら怖かったかも。ほら、断崖絶壁の上に立っている人がいたら、ハラハラするでしょう? 今は前より安定している感じ」
私はなんと返答したらいいのかわからなくて微妙な顔をした。そうか、他人から見た私はそんなにも危うかったのか。やけくそになって開き直った結果、安定したというのも皮肉な話だ。
「私は今のヒナちゃんの方が好きかな」
そう言って、沙月さんは茶目っ気たっぷりにふふ、と笑う。私も「真冬じゃない私」をはじめて許してもらえたような気がして、肩の力が抜け、へにゃっとほほ笑み返した。
その日を境に、私と沙月さんは友達になった。
沙月さんと同じ写真サークルにも入って、知り合いもたくさん増えた。沙月さんには同じサークルの彼氏がいた。こんなに素敵な人なのだから恋人がいるのは当たり前である。沙月さんの彼氏は色白でひょろっとしていて少々頼りない印象だけど、知的で穏やかでお似合いのカップルだった。
大学で新しく知り合った友人知人たちに囲まれていると世界が広がって、私は生まれて初めて「自然体でいる」とはこういうことなのかと知った。真冬の手垢のついていない、「ヒナ」の真新しい人間関係のなかでは、私は意識せずとも「本物」だった。
お父さんに内緒でアルバイトも始めた。大学近くの書店で週四日程度、二、三時間と短い時間だけど、気兼ねなく使える自分のお金があるのはとても気分のいいことだった。稼いだのは少額だけど、友人との交際費に当てたり、部屋に置く小物を買ったりと自分の居心地のよい空間を作るために使うことに決めた。目標は私室の脱・刑務所部屋である。
でも、そんな平穏のなかにあっても時折胸がつきり、と鋭く痛む。それは、沙月さんと彼氏の仲むつまじい様子を目にしたとき。友だち同士で恋バナになったとき。それはつまり、奈津子のことを思い出したときだ。
私は自分から別れを切り出したくせにいまだに奈津子に未練があるらしい。無意識にその姿を目で追いかけてしまう。似た人を見かけると、こんなところに居るはずがないとわかっていてもドキッとしてしまう。自分でも馬鹿だと思う。
何度も連絡を取ろうと思って、スマホを握りしめた。けど、結局はいつも思いとどまった。今はまだそのときじゃない。
私は新しい自分になりたかった。「真冬」にも、奈津子にも依存しないで誇れるような人間になりたかった。
それができてはじめて、奈津子と再び向き合えるような気がした。
奈津子は私のこと、「真冬」のこと、どう考えているのだろう。ひどく傷つけてしまった。とても申し訳ないけど、他にやりようがなかったと思うから後悔はしていない。あのままずぶずぶな状態をずっと続けるよりまし。きっと。たぶん。
私が新しい自分になって、そのとき奈津子が私を改めて拒否するなら、それはそれでいい。ただ、私は目覚めてから一度として奈津子ときちんと向き合っていなかったから、ちゃんと奈津子に向き合える自分になりたい。すべてはそれからだ、と思う。たとえ奈津子が向き合ってくれなくても、私は「私」になる。
お父さんの前では相変わらず神経を尖らして、逆鱗に触れないように細心の注意を払っている。幸いにして、いまのところお父さんは私に対してあまり干渉してこない。私が「真冬」を逸脱しない、という条件付きで。
お父さんは、私が晴海の診察に行かなくなったことをまだ知らないらしい。診察のことを聞いてきたので、いつものように「今のところ順調」と嘘をつくと、満足そうに静かに顎を引いた。いつかはバレると思うけど、そのときお父さんはどんな反応をするのだろうか。家では綱渡りの現状維持が続いている。
そんなときだった。私が再び奈津子を見かけたのは。
その日、私は沙月さんの彼氏の渉くんと大学のカフェテリアで、次のサークルの活動はなにをしようかと話し合っていた。もちろん、このあとすぐ沙月さんも合流する予定である。私たちは写真部に入っている。
私はまだこれ、という自分のカメラを持っていないため本格的には参加できていないけれど、他の部員の作品を見たり、部のカメラを借りて構図の勉強をしてみたりとそれなりに充実して楽しい。
話に一区切りつくと、渉くんは「そういえば」と前置きして、もうすぐカメラを買い替えるからと「僕の中古でよかったら、安く譲ってもいいよ」と言ってくれた。私は思わず満面の笑みを浮かべた。自分だけのカメラ、なんて素敵な響きなんだろう。迷わずバイト代をつぎ込むことに決めた。どんな写真を撮ろう。胸が弾む。
「ねえ、ヒナさん。あの子、知り合い?」
ふいに訊かれて顔をあげると、渉くんはちょっと困ったみたいに眉を下げて、私の肩越し斜め後ろの方を控えめに視線で示した。
振り返ると、五、六メートルほど離れたところに奈津子がいた。決して近くはない。けど、それほど遠くもないところに突っ立って、目を見開いてこっちを見ている。視線がかち合うとバッと顔をそむけて、逃げるように去って行ってしまった。
奈津子の手には買ったばかりであろう、なみなみとコーヒーの入った紙コップが握られていた。ちょっと休憩しようと席を探したら、そこに私がいたのだろう。
あの反応、私は奈津子に嫌われてしまったのかもしれない。わくわくしていた気持ちが急速にしぼんでしまう。
「あの子、僕のことすごい目で見てたよ」
「すごいって、どんな?」
その質問に渉くんはただ苦笑して答えなかった。それだけであまり気持ちのいい視線でなかったらしいことはわかったけれど、奈津子が睨むとしたらそれは私なんじゃないかと思う。渉くんと奈津子は何の関係もない。
「たぶん、私のことを見てたんだよ。私、奈津子にはひどいことをしたもの」
「そうかなぁ?」
渉くんは釈然としない様子だったが、そのあとすぐ沙月さんが来たのでその話はそれで流れた。
でも、私は束の間、奈津子の顔を見ることができたうれしさと、あの逃げるような態度にもやもやが晴れない。
沙月さんと渉くんがサークル予定を楽しそうに話し合っているのに、私はうまく笑顔を作れなかった。




