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曇天の霹靂

 カランカラン、と乾いたベルの音とともに、私は奈津子と落ち合う約束をした喫茶店に入った。

 カウンター席と、四人掛けのテーブル席が三つほどのやや狭い店内は落ち着いた照明で、テーブル間には視線をさりげなくさえぎる衝立があり、沈黙やおしゃべりが気にならない程度に低くジャズが流れている。

 店には客がまばらで、クリスマス色が少ないことに、私はすこしだけほっとした。


 ここは真冬と奈津子がしばしばデートに使っていた喫茶店だった。

 ここでは公然と「同性同士の恋人らしい会話」をしても誰かにじろじろ見られたりしないので、お気に入りの店だった。


 まだ奈津子は来ていないようだった。

 私は一番奥のテーブル席に腰掛け、カフェモカを頼む。

 注文の品が来るまでの間、私は目を閉じて、これから話す内容について脳内で整理する。

 なにも言わなかったけれど、奈津子もこの前のことを気にしている。

 お互いに「なんでもない」という態度を貫けば、なかったことにできるかもしれない。たぶん、可能だ。

 でも、そうしたら雪原を転げる雪玉のように嘘や無理ばかりの関係になってしまうと思う。

 そんなのは、かなしい。とても。


 だから、私は覚悟を決めた。

 逃げないでちゃんと向き合おう。




 そして、またカランカラン、とドアベルが鳴って奈津子がやってきた。


「真冬、おまたせ。急にごめんね。でも、ありがとう」


 冷たい外気のせいか、奈津子の白い肌が赤くほてっていて、いつも通り奈津子は落ち着いたやさしい笑みを浮かべている。

 私はそんな奈津子を見て、うれしくて目を細めた。この人はいつ見てもなんて綺麗なんだろう。この笑顔を向けられると無条件で心が温まる。


 奈津子が席について、二人が注文した飲み物が揃うまで、なんとなく二人とも黙っていた。私は覚悟を決めたはいいもののどうやって切り出そうか迷っていたし、奈津子は奈津子でなにか考えながら、私の方へそっと問いかけるような視線を向けていた。


「お待たせいたしました。ご注文の品はお揃いでしょうか」


 壮年のウェイターが奈津子の前にブレンドコーヒー、私の前にカフェモカを置くと、「あの」と私と奈津子の声が重なった。


「あっ 奈津子の方からどうぞ」


 促すと、ちょっと逡巡したあとに、奈津子は瞳を揺らしながらもひた、とこちらを見つめてきた。


「しばらく連絡取ってなくてごめんね」

「ううん。こっちこそ」

「でも、今日会えてよかった。もしかしたら、だめかもって思ってたから」

「私もだめだって、ほとんど諦めてたよ」

「うん。今日メールしてよかった。うれしい。会ってくれてありがとう」


 ああ、だめだ。ほっと息をついて、はにかむ奈津子がかわいい。そして、早く切り出さなきゃ……と焦りで喉が渇く。テーブルの下の拳をぎゅっと握りしめて、気合を入れる。


「あの、この前のことだけど……」

「あのときは、ごめん!!! 私、真冬があんなに驚くとは思ってなくて、なんていうか無神経だったよね。あのあと私、無言で感じ悪かったし」


 食い気味に奈津子に機先を制されてしまった。私は出鼻を挫かれて目をぱちくりさせる。

 どうして奈津子が謝るのだろう。悪いのはすべて私なのに。奈津子はむしろあの場で精一杯私を気遣ってくれた。


「あ、謝らないで! 奈津子は全然悪くないからっ 私が、ぜんぶ悪いから……!」

「違うよ。私は真冬のことなんにもわかってなかった。まだ戸惑うことも多いはずなのに、私は自分の気持ちしか見えてなかった。だからね、拒絶されても自業自得。ちょっと考えればすぐわかることなのにね」


 それはゆっくりと幼い子どもに諭すような言い方だった。


 奈津子は、大人だ。どこまでも大人だ。事故のあと、戸惑っていたのも、ショックなのも、私だけじゃなかった。きっと私の「変化」というより「変質」というべき違和感にも気づいている。それでも言葉にしない。私を責めない。私が不安に思わないように、すべて「至らない自分のせいなのだ」「真冬はなにも悪くないんだ」というメッセージを一貫して発してくれる。

 悪いのは偽者の私の方なのに。


 今まではそんな奈津子に甘えてきた。でも、もう甘えるのはやめにする。だって、一方が一方に甘えて、我慢させ続けるのは、不健全だ。私は奈津子をお母さんにしたいわけじゃない。


「そんなことないよ。奈津子は誰より私のことを考えてくれてる。私はなにも返せてないけど、すごく感謝してるし、目が覚めたあといつも救われてた。だからね、ちゃんと言うね、ありがとう。今まですごくすごく助かった……」


  ふー、と長く息を吐き出した。そして、しっかり息を吸い直して、にっこりと最高の笑顔になるように祈りながら表情筋を動かす。


「……だからね、奈津子。私たち、別れよう?」



 ガチャン、と不穏な音が響いた。奈津子が手に持っていたカップを乱暴に置いたのだ。


「……どうして?」


 色々なものを押し殺した低い声。


「このままだとよくないって思うから。奈津子は何にも悪くない。私の問題なの。私がおかしくなっちゃったから、もう恋人じゃいられないの」

「突然どうしたの? 真冬、冗談でしょ?」

「私は真剣だよ。奈津子……、気付いていたでしょ、私が前とは全然違うってこと。大丈夫だよ、もう無理して黒いものが白く見える振りしたりしなくていいんだよ。私もちゃんと自分が変だってわかってる」

「真冬は真冬だよ。変じゃないよ。わかった! 真冬はちょっと冬季うつになってるんだ。あのね、冬はね不安定になりやすいんだって」


 それでも、奈津子は微笑みを崩さないようにしていた。カップの取っ手を握る指は白くなっているのに、まるでなんでもないふうに装えば全部なんでもないことになるみたいに。

 それは私への猶予でもあった。冬季うつってことにしたら、今なら引き返せるよっていうメッセージ。別れ話は気の迷い。ちょっと不安になっただけ。今ならたちの悪い冗談で処理できるよ、という優しさだった。


 でも、私は引かない。向き合うって決めたから。この優しさに乗ったら、私は不誠実の塊になってしまう。


「ううん。うつとかじゃないよ。そういう意味なら私はいたって平常。でも、事故からの私は異常だと思う。そして、たぶん奈津子もそれに気がついてるのに、知らないふりしてる」

「なに、それ。私のこと嫌いになったの? それならそうと言えばいい。変な風にごまかさないで。意味がわからない。そんなの、全然、理由として、おかしい……!」


 いつも余裕があって私を包み込むようにしてくれていた奈津子が、事故後はじめて感情的になった。ふだんの凛とした姿からは想像もできない、弱々しくて頼りなくて、見捨てられた子どものような目で……やっと本音を出してくれた。


 その姿に私はとてもとても、安心した。

 ここまで言って奈津子が「なんでもないふり」したら、私もどうしていいかわからなくなるところだった。私が自分の変化に向き合う覚悟を決めたとしても、奈津子は奈津子で徹底的に私の異変を「ない」ことにする覚悟を決めているのかもしれなかったから。


「ごめんね。いきなりだし、身勝手だよね。でもね、私は事故の前とは全然別の人間になっちゃったの。こんなふうに言うと変に思うかもしれないけど、私はこの前のことで、私は奈津子の求めてる真冬じゃないって、やっとわかったの。

 ううん、前から薄々わかってたけど、必死に見ないふりしてた。私は卑怯な偽者だったの。奈津子が求めてるのは『真冬のものまね』なんかじゃなかったのに」

「……真冬の言いたいことが、私にはよくわからない。なにもなくたって、人は変わるものでしょう? 真冬は真冬だよ?」


 困惑する奈津子に、私はゆっくりと考えをまとめながら口を開く。自分の違和感を今まで必死に隠してたけど、きちんと人に暴露しようと思ったら、それはそれで難しいものなんだなって、今さらながら思った。


「あのね、事故の前の大切にしてたはずの気持ち、なんにも思い出せないの。記憶はある、情報はあるけど、それだけ。なにもかも他人事みたいな感じで、実感がなくて、全然別の人のこととしか思えないの。昏睡から覚めたとき、お父さんとか奈津子とか、みんな初対面みたいな感覚だった。だからね、私は奈津子と大切な思い出とか、本当にはわかちあえない。思い出せ(・・・・)ないから。

 感性とか、そういうものがごっそり入れ替わったみたいな感じで、高校生までのときのように自然体で『真冬』でいることが出来なくなったの。一から十まで演じなきゃ、『真冬らしく』いられなかった。ひどいでしょ。ずっと騙しててごめん」

 

 さすがに予想外だったんだ思う。奈津子はしばらく呆然として固まったあと、口を開いたり閉じたりして、泣きそうになりながら、やっと声を絞り出した。


「そんな……、じゃあ真冬は私のことが、もう好きじゃないの?」

「……奈津子は私にはもったいないくらい、すてきな人。いつも私のそばにいてくれて、うれしかった。この前、本当は……。

 ううん、別れようと言った一番の理由は、もう奈津子に嘘をつきたくなかったし、偽者のまま甘えるのは辞めにしたかったからだよ」

「そんなの、納得できないよ。こんな、いきなり」


 私は苦い笑みを浮かべる。奈津子の気持ちはよくわかる。いきなりこんな話になるなんて思ってもみなかったに違いない。私もつい数日前まではこんな予定じゃなかった。晴天の霹靂……いや、キスのこととか晴天とは言い難かったから曇天の霹靂かもしれないけど。

 でも、あのイルミネーションの日に思い知ったからには、もう素知らぬふりはできなかった。


「突然こんなこと言われたら、困るよね。でも、奈津子は私が『真冬じゃない』ことにも納得してない。だから、無理なの」


 そう言うと、奈津子は唇を噛みしめて、悔しそうにした。


 それで、話は終わりだった。

 テーブルの上には、ほとんど手つかずの冷えたカップが二つ乗っかったまま、二人とも席を立った。


 店を出て、奈津子にぎゅっとハグされた。店の暖房のせいか、コートからほんのり奈津子の香りが立ち昇って、きゅっと心臓を掴まれたみたいに感じた。


「本当は今日、真冬と仲直りできたらいいと思ってた。……ふふ、ままならないね。ちゃんと話してくれてありがとう。今まで無理をさせてごめんね」

「……ごめんなさい」


 なんて人なんだろう。こんなときまで、奈津子は私を気遣ってくれる。いっそ残酷なほどの優しさだった。


 私は涙が出そうになるのを必死にこらえ、無理やり笑顔を作って別れ、帰宅したら奈津子に用意していたクリスマスプレゼントを乱暴にごみ箱に突っ込み、一晩中泣いた。

 自分のやったことだけど、悲しくてたまらなかった。


 こんなのって、あんまりだ。


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