黄泉返り
「おぉ……よかった!よかった!」
目を開けると、目の前に初老の男性がいた。私はベッドに横たわっている。
横たわったまま周囲を眺めると、10畳ほどの広さの見たところ若い女性の部屋のようだった。キャラクターもののぬいぐるみと白い家具がかわいらしく幼い印象。
室内には、高級そうなスーツを着て枕元で感極まっている様子の50歳くらいのがっしりした体型の男性と、ネクタイを締めワイシャツの上に白衣を羽織り興味深そうに眺めている眼鏡をかけた30代半ばの男性、驚いたように口許を押さえている半袖のカットソーにスキニーを穿いた十代後半か二十代前半の綺麗な女の子がいた。
目の前のその初老の男性は涙ぐみ、私の右手を両手で握って、よかった、ごめんな、生き返った、という言葉を何度も交互に発した。
混乱して、私はまばたきをした。
私は"知っている"。
全部生まれてはじめて見るみたいな変な感覚だけど、目の前の男性も、この部屋も、驚いている女の子も、よく知っている。記憶にある。白衣の男性だけはまったく見覚えがない。
「あの……お父さん。どうしたの?」
そう、この人は「お父さん」だ。自分で発した「お父さん」という言葉に違和感を感じて、内心首をかしげる。だけどやっぱり、この人は自分の父親に違いない。幼い頃に母が亡くなってから男手一つで育ててきてくれた唯一無二の父親だ。例え見知らぬおじさんに手を握られているような奇妙な感覚がしても。正直に言えば、気持ち悪い。
私は居心地の悪さに手を引っ込めたくなる気持ちを必死で押し殺した。なんだかよくわからないけど、この人は私の無事を喜んでいるのだ。ましてや肉親。手を振り払ってはダメ、と自分に言い聞かせる。鳥肌が立ち、「我慢しなきゃ」と内心繰り返す。そうしないとたえられそうになくて。
ひどいたとえだけど、寝起きに知らないおじさんに手を握られていたら、誰だってこわいし、いやな気持ちになると思う。私の場合は、「知っている」んだけど……。
「お父さん」は感極まった、という言葉そのままの姿だ。
この部屋は、私の部屋だし、ちょっと離れて茫然と佇んでいる女の子は私の彼女だ。
「あぁ、目が覚めたばかりなのに、父さんだけ興奮してごめんな。混乱するよな。順を追ってちゃんと説明するから」
お父さんの話では、私は高校を卒業したこの春、交通事故に遭い、大きな怪我こそなかったが、半年ほど意識を失っていて、死ぬほど心配したという。それが今、 奇跡的に目覚めたというわけだ。ということは、今の季節は夏。
白衣の男性は医者らしい。なんでも、脳波を測定したら今日目覚める予兆があったとか?
私に事故の記憶はないが、この大袈裟な反応からみて奇跡の生還というのは本当のことなのだろう。
なんだか腑に落ちない。色々疑問点が残る。でも、一応はのみ込む。だって、私以外のみんながそう言うのだから。私には信じるしか選択肢がない。
「なんで奈津子がここにいるの?」
お父さんは意外そう且つ不審な顔をして私の彼女である奈津子へ振り向いたし、奈津子は傷ついたように目を見開いて私を見つめた。
医者は奈津子の腕を取って、室外へ連れ出そうというそぶりを見せる。
あっ、失敗した。この言い方じゃまるで奈津子が居るのが嫌だって言っているみたいだ。それにしても、「奈津子」というのも、初対面の人を呼び捨てにするみたいにしっくり来ない。こうやって何度も呼んだはずなのに。口のなかかが砂を噛んだみたいにザラつく。
「あ、違う。そうじゃなくて」
みんなこちらに振り返る。
「えっと、お父さんと奈津子って知り合いだったの?」
「ああ、そのことか」とお父さんは納得して教えてくれた。事故に遭う直前、私は奈津子をお父さんに紹介したらしい。事故に遭ったのは、私が奈津子を駅まで見送ってひとりになり、家に帰るときだったようだ。
記憶によると、お父さんは頭が堅くて同性の恋人をあっさり受け入れるタイプに思えないけど、奈津子を受け入れてくれたのかな?
お父さんの説明が終わると、奈津子は黙って私を抱きしめて泣いた。あたたかくて、やわらかくて、奈津子の長い髪からは花のような良い香りがしたけれど、私はどう反応していいのかわからなくて、ただベッドカバーの模様を見ていただけだった。腕は抱き返すのも躊躇われて、だらんと両脇に垂らしている。
気まずい。でも、この気まずさは私だけが感じているみたい。
自分がとても薄情な人間になったような気がする。すごく申し訳なくて心がきゅっとする。だって、この子は私のために泣いてくれているけれど、私の気持ちはとても冷めているからだ。
気持ちをあえて言葉にするとこんな感じ。「え、なんで泣いてるの?」
仮にも自分の生還を喜ぶ恋人にかける言葉じゃない。もちろん口には出さない。大好きだったはずなのに、なんで……。
私の背中にまわった彼女の腕は小刻みに震えているのに、さっきから私は奇跡の復活物語の傍観者にしかなれていないのだ。
「真冬……!」
名前を呼ばれても、どうしても同じ熱量で呼び返すことができなくて、私は泣きそうになった。感動じゃない。ひたすら申し訳なくて。
「ごめんなさい……」
これだけで精いっぱいだ。でも、謝るのだってなんか違うと思う。どうしたらいいかわからない。
それを「私の恋人」は勘違いしたのか、端整な顔をくしゃりとくずして「いいよ。事故は仕方ないもの」と言った。ますます居たたまれなくて、うつむいてしまう。慰めるようにあたまを撫でられる。
――ああ、やめて! そういう意味じゃない。
手をぎゅっと握りこんで、目をつむる。
「失礼。そろそろいいですか?」
――助かった!
抱きつく奈津子に医者が割って入って、私は解放された。さとられないよう、ほっと息をついて身体の力を抜く。
医者は、冷静に診察した。彼とは初対面のはずで、お父さんや奈津子のときよりは、気楽にかまえることができた。
聴診器で胸の音を聴いたり、私に腕を曲げたり伸ばしたり、立って歩かせたりしたあと、いくつか質問して記憶に齟齬がないか確認した。
一通り終わると「問題ないようですね」と、にんまりした。細いシルバーの金属フレームの奥の目を満足げに細める。なんだか奇跡の患者を目の前にした医者というより、実験結果を確かめるマッドサイエンティストみたいだ。もちろん、結果は成功。あまり気持ちのいい表情ではない。
医者は、目覚めたばかりの私に無理させず、しばらくは安静にさせるように、徐々に環境にならすように、なにかあったら連絡するように、定期的に検診に来るように、などなど指示して去った。
気がつかなかったが、もう夕方だったみたいで奈津子も私に「またね」と言い、お父さんには無言で頭を下げて帰った。
夜は、そのまま部屋でお手伝いさんが作ったお粥を食べて、寝ることになった。
お手伝いさんは黙々と仕事をして、目を合わせなかった。前からお手伝いさんを雇っていたけど、この人は知らない。私の寝ている間に、前の人から代替わりしたのだろう。
お父さんは別メニューを私の目の前で食べるのも難だと言って、ダイニングで食べたらしい。
寝る前、電気を落とした部屋で、姿見の前に立ち自分の全身を眺めてみた。
窓から入るぼんやりとした光のなか、Tシャツにホットパンツ姿の女の子が立っている。
黒髪を顎のラインで切り揃えたフェミニンなショートカット、身長は大体160㎝くらい(記憶だと161㎝のはず)、猫目がちの二重。
太ってもいないし、痩せてもいない。頬はふっくらしていて、やつれているようには見えない。半年も昏睡していたのに、筋肉が衰えている様子もなく、ちょっと健康的過ぎるくらいだ。
そして、それは明らかにおかしい。私にだって、それくらいの常識はある。ふつう、人は半年も昏睡していたら、すぐには立ち上がることすらままならないだろう。
しかし、現に鏡にうつる自分の姿は健康そのものだ。
目の前の少女は口をへの字にして、なんだか途方にくれているように見える。そして、目覚めてから目に入るすべての物事と同じように、見覚えはあるけどまったく馴染みがない。
私は本当に半年間、眠っていたの?
私は本当に、小鳥剛明の一人娘で、辻奈津子の恋人、小鳥真冬なの?
鏡に映る室内は、夏特有の湿り気を帯びて暗く、「実はまだ目覚めていなくて悪夢を視ているんじゃないの」とぽそっと呟いた。
不気味さだけが、実感としてあった。