9
季節の花があった。
過去、オールドセンチュリーに存在した自然の概念を、庭園内に持ち込んでいた。四季を彩る木々と花々は、おそらくはバイオ植生だろうが、しかし外界には季節と言うものが消滅しているのだからそれはそれで貴重なものだ。
よく整備された並木を通り過ぎて湖まで歩く。ドームの中央にある巨大な水たまりが、憩いの場所でもある。
ここで待て、とリオには言いおいて、山辺は湖のほとり、いつもの場所まで行く。月慈がちょうど一曲弾き終えたのか、楽器をおろして湖を眺めていた。
陽の光は時折湖面に反射する。その光が当たる木々の下に、不定形の影を生み出す。影と光の境界線上にいる彼女の姿は、光のときと影のとき、一瞬一瞬でまるで違って見える。ぱっと明るい陽に照らされたときには白い肌に朱が差して、まるで熱そのものを内包するかのように輝き、しかし影が落ちればその華奢な輪郭そのものが際だつ。人工の微風が吹く度に長い髪が揺らめき、遠くを見る彼女の目線はどこかを見据えているようで、どこにも向いていないかのようにも見える。
声をかけようか迷ったが、結局山辺は声をかけた。月慈が振り向き、少しだけ意外そうな顔をする。
「三度も会うことになるとは思わなかったよ」
「僕も、ここに通うことになるとは思わなかった。案外長続きするものだな」
「で、今日は何なの?」
「別に、来たいから来た。ただそれだけだ。けど、声をかけるタイミングはずいぶんと吟味したつもりだ」
山辺の言葉に、月慈は少し驚いたように目を丸くし、すぐに湖の方に顔を背ける。
「まあ、来るのは勝手だからね。ここはそういう場所だし」
「ああ、来たいからというか、その……君の演奏を聴きたいと思ったから」
その一言を絞り出すのに、ずいぶんと緊張したのだが、月慈は何の反応も示さない。ずっと湖を見たままだ。
もしやまた余計なことを言ってしまったのか。そんな危惧が頭をよぎる。
「人の練習しているところみたいとか、悪趣味ね、あなた」
しかし、数秒の沈黙の後に、月慈はそう言った。顔を背けられると、やはり余計なことを言うべきじゃなかったか、と思う。
「分かった、じゃあ僕はここにいるだけだ。君は君の好きなことをすればいい。ここはそういう場所なんだろう?」
また沈黙。この娘と話すときは一字一句、いちいち気を使わなければならない。
ほどなくして、月慈がビオラを取った。
弓を弾く、弦楽が奏でられる。ゆったりとしたリズムと、落ち着いた旋律が、その場を満たした。月慈は最初の内こそ山辺の方を意識していたが、次第に音の方に集中しだした。
まるでその音は主張するものではない。ビオラというものがそもそも、バイオリンよりは低音域である。その音域は、声楽に近いとされている。音の一つ一つがそんなに目立つわけではないのだが、それがかえって自然な旋律を生み出しているのだろう。
一曲弾き終えると、月慈はそれまで呼吸止めていたのか盛大に息を吐き出した。額には汗が浮かび、さりげなく汗をぬぐい去る。
「良い音だ」
山辺が言うと、月慈は少し疲れたような顔を見せた。
「ビオラなんて、バイオリンの引き立て役ぐらいにしか思っていなかったけど、こうして聴くとむしろバイオリンよりも自然な音に近い感じがする。」
「その分析癖は役人だから? それともやっぱり、アカデミーの出身だからなの?」
月慈は、まだ山辺に疑惑の念を抱いているような感じだった。それは月慈が、山辺と微妙な距離感を保っていることからも伺うことが出来る。
それが政府への不審からなのか、あるいは単純に見知らぬ男へ対するものなのか、それは分からないが。
「アカデミーの連中って、いちいち分析するくせがあるのね。この楽器はどうとか、音域がどうとか。最初にそういう勉強して、じゃあどのように演奏するかって方法論から入って。それは最初のうちはそれでもいいけど、ずっとそういうやり方するんだものね」
「アカデミーとか関係ないよ。僕の性分だ、何せ大学では生物物理学を専攻していたぐらいだし」
「ううん、アカデミーの連中の性分よ。私に決まりきった楽曲しか弾くことを許さなかった、あの連中と同じ」
月慈がアカデミーのことに触れた。その先を聞きたいと思ったが、しかしそこで急かしてしまってはまたへそを曲げられる可能性もある。
「えっと、前に辞めた、って言ってたよね」
しかし、それを口にしてしまった。言葉にしてしまったと思ったが、しかし月慈は、今度はなにも文句を言わなかった。
「そう、最初は面白かったけどね。もともと音楽とかは興味があったし、基礎的な部分を教わったおかげで、今こうして弾いていられるんだけども」
「じゃあ、なにがいけなかったんだ?」
まるで一言一言探らなければならない心地だ。自分の知り得る分野を離れてしまえば、自分の会話の能力なんてたかが知れているものだ。
「いけないっていうか、あわなかった。私がしたいようにさせてくれないし、私がやりたいように演奏すると、それはいけないってなる。だから、やりづらくてしょうがなかった」
「それは……でも仕方ないんじゃないのか。譜面通りにやらなければ、曲が破綻してしまうし、オーケストラだったら勝手なことは出来ない。自由にといったって、それはちゃんと秩序があってからであって」
「ほら、やっぱりそうなるじゃない。だから辞めたのよ」
もう説明することに飽いているかのように、月慈は嘆息した。
「楽譜見ろ、その通りにやれ。調律は、計算してからやるように、勘に頼るな――そういうこと無視してたら、誰も私に近づかなくなったし、教師たちもなにも教えてようとしなくなった。けど、そんな風にがんじがらめで、みんななにが楽しいのか分からない。どうして、自分の好きなようにしちゃいけないの? 決まったとおりにやらないのは、そんなに悪いことなの?」
そんな風に言われても、なんと答えて良いか分からない。月慈も、答えなど期待していなかったようだった。
「あなたに、こんなこと言っても分からないだろうけどね」
「ああ、まあ……そうかもしれないが」
変に、同意するのもおかしいので、言葉を濁した。だが、妙に納得もした。アカデミーで、誰も彼女に近づかなかった理由。こんな風に言われては、次からまともに取り合おうとは思えないだろう。
「しかし、楽譜の通りにやっていないにしては、完成されているように聞こえるけれども」
「本当に、好きなように弾いてるだけだもの。楽譜どおりにやれば、ちょっと練習すれば誰だって同じように出来るけど、けどそのときどきで、弾きたいものは変わってくるものだから。そのときどきで、音が生まれてくるのを、私はそれの通りにやっているだけ」
なにやら、山辺の理解の範疇を越えそうな話である。音が生まれるとか生まれないとか、そういう感覚はちょっと分かりそうもない。
「それで即興で?」
「即興というとね、あの連中はすぐに劣ったものとみなしがち。けど、昔だと即興だって結構あったって話だし。案外、オールドセンチュリーの方が自由にやっていたんじゃない?」
「昔のことなんて分からないよ」
これ以上、何かを話しても、多分意見が交わることはない。月慈もそれを感じたらしく、もはや議論しようという気はないようだった。
しばらく二人して沈黙していた。
時間をおいて、彼女が再びビオラをとった。弓と弦がこすれる素朴な旋律を奏でる。その音を聴きながら、陽が沈むのを見、その間ずっと二人して互いを見ることもなく地平線を眺めていた。
一つの曲が終わるとともに、ドーム天蓋がせり上がってくるのを目の当たりにする。
「次に来るのはいつ頃になるんだい」
月慈が片づけ始めたのを受け、山辺はそう訊いた。
「いつ、とかいうのもよく分からない」
月慈は肩をすくめた。
「外出条件が少し厳しくなったの。ドームの移動が、結構面倒な手続きが必要になってしまって。ここにくるのにも、いちいち証明書とかそういうのが必要になってきちゃう」
「どうしてまたそんなことに」
「あなたがそういうって事は、他のドームは違うのかしら」
月慈は楽器を納めたケースを担ぎ上げた。
「ともかく、そんなに頻繁にはこれないかもしれないけど、あなたは来るんでしょう?」
「僕の方も、そんなに頻繁に来れるわけじゃない。けど、出来る限り足は運んでみる。君の演奏は、ここでしか聴けないからね」
山辺が言うのに、月慈は少し驚いたように目を見張った。
「……そんな風に言われたのは初めてね」
「正直、君の持論は、僕には理解できないけれどもね。けど君の演奏が見事なのは変わりがないからね。これからも聴きに来るつもりだ、まあ君がいれば、だけど」
そこまで、あけすけに言うつもりはなかったのだが、言葉にしてしまった以上は仕方がない。すべて口にした後で、山辺は月慈の反応を待った。
「えっと、サトルって言ったよね」
だいぶ時間が経ってから、月慈がそう言った。
「え?」
「あなたの名前」
「ああ、そうだね」
中国語の発音がどうとか人に指摘しておいて、彼女もあまり日本語の発音は良くないようだ。だがそれも仕方がないことだろう。政府公用語が普及して、民族言語はことごとく廃れてしまい、どこでも教えることはなくなった。ただ固有名詞だけは――例えば個人名は民族言語で命名することがある。そうなると、ルーツの違うもの同志、互いの名前を正しく発音できないことが多い。マックスも、最初は山辺の名をちゃんと言うことが出来なかった。
「じゃあサトル、私は別に前からここに来ていたけど、あなただって自由にここに来る権利があるのだから好きにすればいいわ」
「ああ、もちろんそのつもりだ」
「あと私、人に聴かせるつもりで演奏していたわけじゃないの」
「そうだろうね」
「けど……聴きたいというなら、その、別に聴いたっていいけど」
月慈は驚いているのか困っているのか、その両方なのか――そんな曖昧な表情だった。だが少なくとも無表情よりは好感が持てる。
「そうさせてもらうよ」
「そう……じゃあ、もう行くから」
月慈は何か慌ただしく荷物をまとめて立ち去った。
天蓋が半分ほど閉まり、少ししてからリオがやってきた。
「また立ち聞きか」
振り向かず、山辺が言うと、リオはやや堅い口調で告げた。
「お迎えにあがりました。そろそろ、お発ちになるかと思いましたので」
「そいつはご苦労なこったな」
自分の口調が刺々しいものになるのは、もうどうしようもないだろう。このアンドロイドを相手にすれば。
リオは、山辺を気遣うような口調で、車に乗るようにと促した。
走路に着く頃に、天蓋が閉じた。山辺が車に乗り込むと、リオが隣に座り、ほどなく走路の電磁誘導経路が開く。ゆっくりと車が動き出し、それと同時にリオが口を開いた。
「私はあなたのサポートを命じられていますが、一つだけよろしいでしょうか」
「何だよ」
リオの相手をしてやるのも面倒だった。だからといって、しゃべるのを止めさせるのも億劫だった。だから投げやりにそう言った。
「彼女は移住対象者なのでしょう」
「そうだよ、それがどうかしたか」
「あまり接触しすぎない方がよろしいかと存じます」
ただ、この一言が、少し燗に障った。
「お前が、僕を連れ出したんだろう。このドームに」
「あなたの健康管理が、私の仕事です。だから、一つの選択肢として、提示いたしました。しかしあなたの立場上、移住者たちと接触することは好ましくないことも確か。たとえば」
「僕が情報を漏らすとか? そういうことを言っているのか」
山辺がそう言うのに、リオは答えなかった。アンドロイドでも逡巡することがあるのか、などと思う。
「そうだよな、お前たちの仕事って僕や他の職員たちを監視することだものな。計画のために、わずかな狂いも許されない。だから、精神的支えだ何だってきれいごと言って、その実監視しているんだろう」
「あなたが漏らすとは考えません。しかし、あなたが彼女と話しているとき、時折平静とは言い難い状態になっています。あなたの脳波を測定したとき、やや興奮に近い状態に――」
「ほら、そういうの。僕はそんなに信用がないのかなあ? お前なんかにモニタリングされるほど」
苛立つことなどない、と自分に言い聞かせても、言葉は自然と口をついてしまう。この場に誰もいないからといって、このアンドロイドにあたっても仕方がない、仕方がないことなのだが。
リオは、何の表情も見せなかった。いくら怒りを露わにしようと、侮辱の言葉を述べようと、このアンドロイドには何の意味もないだろう。
「お前が危惧していることは、起きない」
だから、無意味なことはどこまで行っても無意味だ。山辺は息を吐いた。
「これでも自分の立場はわきまえているよ。そういうのは得意だから」
山辺はもう、そのことについて議論するつもりも失せ、最後にそう言った。リオが謝罪の言葉を述べるのも無視して、窓の外に目を落とした。
すっかり閉じきった天蓋が、ドーム全体に闇を落としていた。どこからともなく、サイレンの音。