7
庭園に通じる連絡走路は訪れる人間が多い分、混雑している。政府の人間だろうと、優先的に早い便に乗れると言うことはない。その意味ではわざわざドームの外に出て、日没を眺めるためだけのそこに行く意味はないのかもしれない。
だが今も、山辺はそこにいた。
以前行ったからといって、また行く必要性などない。庭園以外にも、気を紛らわせる場所はいくらでもある。それでも、庭園に向かおうと思ったのは、やはり自分の中でも確認したいという思いがあったからだろう。
車を出すようにとリオに告げると、リオはすでに支度をすませていた。気持ち悪いくらいにスムーズに事は進み、走路を経て、庭園に上ってくるまでに一時間ほどしかかからなかったかもしれない。
ドームについてすぐに彼女の姿を探したが、労せずしてそれは果たされた。湖を前にして月慈が、やや大きめの弦楽器を携え、今はワルツのような抑揚のはっきりした曲を弾いている。その音色に、周囲の人々も遠まきに眺めている。
山辺が声をかけると、月慈は演奏の手を止めてこちらに向いた。
「また来たんだ」
「生憎と時間だけはあるからね」
とくに彼女の声音が皮肉めいた響きでもあればまた別だったが、月慈は特に疎んじる風でもなかった。といっても、歓迎をしているわけでもない。ただ、演奏を中断されたことに対して、少し苛立っているのか。顔の表情が若干険しいものに思えた。
「でも曲の途中で声をかけることないじゃない? 結構気が散るのよ、そういうことされると」
「ああ、いや、終わるまで待とうと思ったけれどね。どうもあの陽の傾き方を見れば、ゆっくり話している時間もないだろうし」
そういって山辺は西の空を指し示す。陽光が照りつけて赤紫の光が地平線間近で溜まっているのが見て取れた。
「話、したかったの? 私と」
「ああ、何というか……」
こんな時に、誤魔化す術を知らないということはやはり不便だ。本来ならば、世間話から始まって何か別の切り口から核心に近づいて行こうと思ったのだが――向こうから切り出されるとは思っていなかった。
「その、すまない」
「別に謝らなくても」
月慈は肩をすくめた。まさか月慈自身、山辺がここまで狼狽するとは思っていなかったのだろう。同情するかのような眼差しになる。
「いいよ、別に話をするでも。今日はもう終わろうと思っていたから」
月慈はつと、地平線上を示した。
まだ陽はかかっている。だがもうすぐ没しようとしていた。陽の朱色は、もはや地平線上に溜まっているのみであとは闇の色のほうが濃くなってきている。群青色の空の天頂には、もうすでに星がかかっていた。
「君は」
空を眺めながら、山辺は切り出していた。
「音楽アカデミーにいたことがあるのか?」
「何それ」
「ノースエリアにかつてあった音楽学校。君は僕に、アカデミー出かと聞いたけど、君ももしかしてそこにいたということは」
「ああ、そういえばそんなこともあったかもしれないね」
月慈は、どうやら本気で忘れていたらしかった。
「子供の頃の話よ。音楽的基礎は教えてもらったけど、ただそれだけのこと。あとはほとんど独学だから、本式な弾き方とはちょっと違うかもしれない」
「そのビオラも?」
「これは、あの学校で習ったもの。バイオリンもよかったけど、こっちの方が気に入ったから、ずっとこっちを使っているだけよ」
なるほど、特に深い意味はなかったということか――なにやら長年の疑問が一つ溶けた気がした。
「じゃあ君はそこを卒業して――」
「ううん、卒業はしていない。途中で辞めちゃったから」
「そうなのか、それは何でまた」
「何でって、それあなたに言わなきゃいけないこと?」
ややきつめの口調で言われるのに、山辺は言葉を詰まらせた。普通に考えれば、初対面に近い関係でそこまで踏み込んで聞くことなどない。急ぐことなど無かったのに、つい先走ってしまった。
「いや、すまない。立ち入ったことを」
山辺はわびるが、月慈はそれについて特に何も言わなかった。
その場で沈黙が流れた。陽が、あと数十分のうちに没してゆくだろうというときになって、月慈は唐突に切り出した。
「あなたは、アカデミーにいたときって、楽しかった?」
それが自分に話しかけられているとは思わなかったので、山辺は大分経ってから返事をすることとなった。
「楽しい……とは」
「あそこにいて、あなたはどうだったのかってこと」
「よく分からないうちに入れられたからね。母親につれて行かれて、弦楽クラスに入れられた。それが、今度は父親の意向で辞めさせられた。だからたいしたことはない」
そもそもなぜ、母親が自分を音楽アカデミーに入れたのかも分からなかった。ただ当時はオールドセンチュリーのクラシック音楽が流行っていたことは確かだ。電子合成でなく、自らの手で奏でるということが、やたらと新鮮な行為であるかのようにもてはやされた時期が。流行など一過性のものであるのが常だというのに。
「そう」
月慈は、曖昧な返事をした。山辺の話そのものが、大して響いていないかのようだった。
必然、気まずい沈黙が流れた。今度はより重苦しい空気をまとって――山辺がそう思っているだけかもしれないが――もはや二人して会話することなど不可能と思うには足る、沈黙だった。
「あ、ああそうだ」
耐えきれず、先に声を発したのは山辺の方だった。
「そろそろ戻らなきゃならなかったんだ」
「まだ天蓋は閉まらないけど」
「明日早かったこと、思い出した。今あるプロジェクトが大詰めで、ちょっとそれについて調整しないといけなくて……」
本当は急ぐ必要などなにもないのだが。そしてここを離れるには、少しばかり苦しい理由だったかもしれない。ただここにとどまっているよりは、思い切って離れてしまう方が良いような気がした。話の流れを変えるような度胸はない。
「それって」
月慈は不審感を露わにして、しかし何気ない風に訊いた。
「そのプロジェクト、宇宙に行くってやつ?」
そう、思いがけない言葉を投げかけられる。
すぐに答えればいいものを、山辺はその質問を理解するのに数秒だけ考え込む時間を有した。
「どういうことだい」
「ドームで言われていることだから。いずれ宇宙の、どこかの星に行くのだからって。近々、大規模な移住計画があるから、その下準備があるっていうこと、良く聞くから」
「そんなこと、一体誰が」
移住計画については、箝口令とまではいかないまでも、情報が漏洩しないために細心の注意を払ってきた。計画について知っているものは、政府内部でもごく一部だったはずだが。
「噂だから、誰とも分からない。でも、地球で住むにはもう限界だから、どこか遠い星に行くってこと。移住先の星なんてどこにあるか分からないけど」
「噂だろう、ただの」
少しだけ、心構えを変える必要があった。会話の中で話を誤魔化すのが下手であっても、こういう部分で――計画に関することで下手であってはいけない。
「移住するなんて、ロケットか何かってことだろう。そんな大がかりなロケットなんて建造出来ないし、第一、移住するというのならば太陽系外だろうがそんなところに行けるという保証もない。そんなものに金かけるくらいなら、地下ドームの補強資金に充てた方がマシだよ」
あまりぼろがでないうちに、やや早口気味に言った。あんまり一気に話せば、かえって怪しまれるから、自然な口調を心がけた。
そんな、当たり障りのない説明だったら今までだってさんざんやってきたことだ。今更それが億劫であることなどない。これからもまた、同じように説明するものの一つだ。
「そう、ならばいいんだけど」
月慈は、一応は納得したようだった。けれどもまだ不審をにじませている。それが山辺の説明に対してなのか、山辺自身に対してなのか、何とも判断がつかない。ちゃんと誤魔化しきれたとは思ったが、月慈は特別疑り深いようだ。
無理もない。世界政府、人類委員会が信用された試しなどない。これからも信用などされないだろう。今もこうして、騙し続けている政府のことなど。
やがて、月慈もまた帰り支度を始めた。
「練習時間を削ってしまったな、すまない」
山辺が詫びると月慈は――何か呆れたような、馬鹿にするような笑い方をした。
「あなた、私の邪魔をするとかしないとか、そんなあなた一人のために振り回されることなんてないわよ。私がやめたければやめるし、したければする、それだけ。だから謝る必要なんてない」
そう言われると、何とも反応しづらい。山辺が言葉を選んでいると、月慈はビオラの収納されたケースを肩にかけた。
「それで? また来るの?」
特に関心のなさそうな風に月慈は言う。来たければ来ればいい、私には関係ないけれども――その先に来る言葉は、容易に想像できる。
「今度は、邪魔をしないようにするよ。もう話しかけることもしない、見かけても君の視界に入らないように」
「あら、別に話しかけちゃいけないなんて言わないわよ」
しかし、月慈の言葉は予想外のものだった。
「え?」
「なにその意外そうな顔。話ししたいならそうすればいいじゃない。視界に入らないように、なんて言ったってここもそんなに広いわけじゃないし、来れば視界に入るわよ。それとも、私が来るなって言ったら、あなた来ないつもりだったの?」
月慈の言うことに、二の句がつげないでいた。いちいちもっともなことだ。
「まあ、いいわ。けど、どうせ話しかけるなら、演奏中じゃない方がいいわ。今度からそうしてちょうだい」
「あ、ああ。そうする」
山辺はそう答えるのが精一杯だった。月慈が立ち去り、その背中を見送り、完全に見えなくなったところで山辺は背後にいる人物に声をかける。
「いつからそこにいたんだ」
正確には人物ではないが。リオが林の影に立っていた。
「お二人が話をしていたときから。声をかけるタイミングを失いました」
「かけていたらお前の頭の中をすっかり分解してやるところだったよ」
「私は命拾いしたというわけですね」
アンドロイドに命も何もあったものではないが、リオは冗談めかして言う。本当に冗談を言っているのかどうか、という区別はもっとも愚かしい判断だ。大抵のアンドロイドは人間の情動をプログラムされているが、そんなものはただの振り、もっともらしく見せているに過ぎない。
リオが、すでに準備が出来ていると言うので、山辺はその場を後にした。庭園の入り口の、連絡走路のターミナルまで行き、車に乗り込むと同時にリオが訊いてきた。
「原因を突き止めましょうか」
「何のだ」
「あのように、移住計画について、たとえ噂話であっても洩れることは問題がありましょう。どこで情報が漏れたのか――」
「したけりゃすればいいだろう。今更、隠蔽したり漏洩を防いだりってしても、意味のないことだろうけど」
「しかし、委員会としては」
「委員会がどんな判断下すか知らない。けど、噂の一つも流れるぐらいじゃ、そんなに秘密でもないんだろう」
山辺がミラー越しに湖の向こう側を見やると、ちょうど天蓋がせりあがってくるところだった。
「肝心なところが洩れていない以上は、下手に動くとまずいだろう」
「しかし、彼女は――」
「馬鹿にするなよ、アンドロイド風情で。人に意見出来るほど高性能な頭脳を持っているんだろうが、人間が状況判断出来ないほど劣っているとでもインプットされているのか?」
「いいえ。私の個人的な感想です」
「個人も何もないものだ、アンドロイドが」
山辺が吐き捨てるように言う。リオは何も言わなかった。