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「どうした、ぼーっとして」
いきなり目の前に、髭面の男が現れた。四十過ぎの中年男が顔をのぞき込んでくるのに、山辺はそこで我に返った。
「ああいや、何でもない」
「何でもないったって、上の空だったぞ、お前。考え事でも?」
「いや、ちょっとね。大したことじゃない」
山辺が言うと、マックスは不審そうに眉をひそめる。
「本当に何でもない? ならいいんだけどよ。なんだか今朝から、身が入っていない感じだぜ、お前さん。ホールならともかく、現場でそれじゃ命取りになりかねんぞ」
マックスは、周りを見ろと顎でしゃくった。幾重にも重なったパイプと、導線が絡み合い、それらがどこまでも伸びている。パイプの一つ一つが異様に太く、一番小さくても一抱えほどはあり、大きいものになるとその径の太さはもはや建造物級といってもいいかもしれない。パイプからは、熱気だったり冷気だったり、煙や蒸気が立ち上っている。
そんなパイプの合間を縫って、赤銅色のコイルが走る。冷却パイプに覆われるように、これまた巨大な外形の胴合金は、視界に収まりきらない遙か先まで伸びている。
「相変わらず馬鹿みたいに大きいな、これは」
山辺は手元の情報端末に視線を落とした。ホールの内部では、端末はすべてホログラムに落とし込まれているものの、ここではそれも望むべくもない。必然的に前時代的なハード機械に頼らざるを得なくなる。
「こんなもの、ほんの一部だ」
マックスはデッキから身を乗り出して下を見やる。パイプの群は、山辺たちのいる通路の下にも巡っていた。二人の立ち位置から見れば、上下左右とも同じような複雑な構造が走り、申し訳程度に渡してある通路の方がおまけに見えてしまう。
「こんなパイプやら、導線やらが、地下ドームの外周をぐるりと取り囲んでいるんだ。これもすべて深部にある集束装置の為なんだからな」
「これほど入り組んでいて、果たして熱交換率に影響はないものか……」
端末のグラフの上部に「EAST―230」の表示が映し出され、そのすぐ下にグラフが展開している。装置が囲む、東の二三〇と称されるドームの、磁場と熱量を表したものだ。安定した数値を示しているものの、時折乱れたところがある。それはそれで特に気になるものではなかったのだが――
「加速装置の試運転では、問題なかったんだろう?」
「ただ、生物はとにかく繊細だからわずかなズレでもすべての機能を失うことだってある。デッキの上でプログラムいじっていても分からないことがあるから、こうして実際に見なければならないわけだ」
「俺が見ても、全部は分からんがな」
およそ技術者とは言い難いことをこの男は言うが、それも仕方のないことなのだろう。設備そのものが突貫工事で仕上げてきている。すべての説明が成されないまま、ことは進行している。現場の末端まで、その理解が及んでいるというわけではない。
「あんたのとこにも来たか、アンドロイド」
端末を閉じたと同時に、マックスが話しかけてきた。
「アンドロイド、ああ人類委員会からの」
「そう、どんな感じだよ?」
「どんなって、別に。機械にしちゃ喋りが過ぎるような気がするとは思うが。あと、人のプライバシーをのぞき見るのは、あれは修正出来ないものかね」
「ああ、お前もやられたか。身体環境を観察してストレスをチェックするらしい」
マックスは、それほど気にはしていないようで、愉快そうに笑った。
「逆に落ち着かないよ。何がストレスだか知らないけど、人の食生活やら睡眠時間やら、余計なことに口を出してくる。今朝も、眠りが浅いとか言われて、帰るまでに改善薬を用意しておく、だとさ。大きなお世話だというのに」
「大事だぜ、身体のケアは。そういうのは自分じゃ気づかないし、特にお前さんみたいのは」
「どういう意味だ」
マックスはそれには答えず、ただ首をすくめるにとどめた。
「人類委員会の肝入りだかなんだか知らないけど、そんなことに金を使っておいて工期の遅れを無視するのは如何ともしがたいね」
「それはそれで大事だけど、個人のケアも大事なんだろう。何せ俺たちは、このでかいのが完成すればそれで最後だ。今は平気でも、そのうち精神を病む奴も出てくるさ」
「僕は、別に」
「お前さんが平気でも、他の奴はそうとは限らない。まあいいだろう、オールドセンチュリーの記録媒体によく出てくるような、屋敷のことを取り仕切る家政婦。ああいうのがいると思えばいい」
「古い言葉だな。そんな概念、今じゃ通用しない。人に対して使ったら、人権侵害になりかねないっていうレベルだ」
相手がアンドロイドならばいいのだろうが。そう思っていると、マックスがなにやら神妙な面もちで、壁面を埋め尽くす装置の群を見上げていた。
それが何か――普段のマックスの態度からすれば異様であったので、言葉をかけるタイミングを失ってしまった。
「人権か。こんな計画立てて、こんなもの造っておいて今更人権もなにもない」
「何だよ、何がいいたい」
何でもない、とマックスはまた肩をすくめた。元のような、笑みを浮かべて言った。
「ま、なるようになるだろう。お前も、俺も」
運動によって時間の概念が生まれる。周期性によって時間を知覚する。
惑星の自転による太陽の動き、気候変動による四季の折々。もし何も変化のない環境ならば、それは時間と呼べるものは存在し得なくなる。
ならばその運動を操れば、時間そのものを操作することも可能である。
そんな考えが、もう何世紀もの間囁かれて、しかしそれを実行に移すものはいなかった。その必要がなかっただけなのだ。
最後の最後に、人はそれを実行しようと思い立った。
休日には何をされますか、とリオが唐突に訊いてきた。
「何だって?」
山辺は十年ぶりぐらいに対面する天然物の野菜ばかり乗ったプレートを前にして、これまた十年ぶりぐらいに使うフォークを突き刺していた。
「休日なのでしょう、今日は。私の知る限りでは、休日というものは気晴らしにどこかへ出かけたり、レジャーにいそしんだり、そういうことをするものと」
「ただ無為に時間を過ごすっていう選択だってあるよ」
と、山辺はレタスにフォークの刃を突き立てた。フリーズドライは、野菜の場合はビタミン凝固剤の塊で、肉は合成タンパクであることがほとんどだ。野菜を栽培できる場所も、地下では限られている。天然物は高値で取り引きされる。
今、口に出来ているのは、人類委員会の特別措置だ。プロジェクトに関わっているものには、あらゆる好待遇を受けられる、というわけだ。
「あなたがそれでよろしければ、それはそれでよいのですが」
「いいわけじゃないよ。こんな風に時間を無駄にしていいわけがあるか。ただ休めと、なんとしても休めと言われて、仕方なく家にいるだけだ」
それが総時局側からの命令だった。プロジェクトの進行は止めることはないが、職員は必ず休日を取らなければならない。これも、職員たちの心身のケアということなのだろう。
くだらないことだ。休みというものはそれが必要な者にあてがうものだ。必要がなければ、特に休ませる必要などない。必ず、休まなければ、心身を疲弊させる。だから休むべき、という。何の思想もない型どおりの手順を踏んでいるだけのようだ。
「しかし、それではもったいないのではありませんか。せっかくの休みに」
「もったいないって、アンドロイドが言うと奇妙だな」
「このような状況のことを、そう言い表すのではありませんか? 有り余るリソースを前に、最適な選択をするでもなく、ただそれをストックさせるに留めること。有効に活用することがなく、またそれを行おうともしない。他には」
「ああ、ああいいよ、もう。そういうことを聞きたいんじゃない」
あっちに行けと山辺は手で振り払うと、リオは軽く頭を下げた。空の食器を下げ、キッチンの方に消える。
リオがいなくなってから、山辺はテレビをつけた。今も昔も、することがなければ映像に頼るのは人の性なのだろうか、などと考えていると画面が地上の映像を映し出した。
赤茶けた砂の大地だ。赤いのは錆びた鉄の色だが、地上の砂にはかつての建造物の残骸も含まれているという話がある。かつての建造物が、朽ち果て、砂となっている――そんな話に確証などないが、信憑性が全くない説ではない。
地上の環境負荷物質の量を示す数値が表示されていた。いくら数値で表示されても、その環境負荷物質というものが特定されていないのだから意味のないことに思えた。それは放射性物質であったり、化学物質であったり、あるいは都市が存在していた頃に散布されていたナノマシンの残骸であることもある。それらの複合を環境負荷物質などという曖昧な言葉でごまかしているに過ぎないのだ。
それが何であるのかが分からないとしても、それが生物に悪影響を与えることは確かだ。だから人は、地下での生活を余儀なくされた。地上とは画面越しに見るものであり、「環境負荷物質」などという曖昧な定義の下に存在する場所でしかない。
生まれたときからそれが普通だった。少年期には、山辺は地上にさえ出なければ安全であると信じていた。
だから、大学を卒業してからは、それなりに開けた未来があり、皆がそうするように普通に暮らして普通に年を取り、死んでゆくものだと思っていた。
だがそうではなかった。ニュースで流れる映像は真実ではなかった。世間に知らされることと、その裏で進んでいることは一致しないことが多いことを知り、そしてその渦中に山辺はある日いきなり放り込まれたのだ。
地下ドームはあと半世紀は保たないことを。そうなれば人類はもうこれ以上、この星には住めない。だからこそ送り出してやらなければならない。
ただし、そこに入ることが出来るものはわずかであるのだ。そしてそこに山辺が入り込む余地はない。
予定がないのでしたら、外に行きませんか――そう唐突に切り出された。
「黙ってろと言っただろ」
「あっちに行け、とは言われましたが、黙っていろとは特には」
「じゃあ命令を上書きする、黙ってろ」
「その前に、私の提案に対する意見をお聞かせ願えますでしょうか」
機械は命令に忠実である、というのはもはや常識ではないのだろうか。ため息をつきながら、山辺は答えた。
「何で外に出る必要があるんだよ。必要なものはそろっているし、わざわざ外出しなきゃいけない用もない。従って、お前の提案は却下だ」
「しかし、家にこもってばかりでは気が滅入るのでは」
「気が滅入るって状態を永久に知ることのない奴に言われたくない」
アンドロイドに健康のことなんて気遣われる筋合いはないものだ。
「予定がないのでしたら、地上庭園などどうでしょうか」
「地上?」
「この時間でしたら、ちょうど日没ですので」
リオが一体何の意図でそう言ったのか、理解するのにしばらく時間がかかった。たっぷり十秒ほどかけてから山辺は口を開いた。
「お前の仕事は、僕の健康管理も含まれているって、以前言ったよね」
「その通りです」
「じゃあ何で地上行きなんか勧めるんだよ。死に行くようなものだろう」
「地上ではなく地上庭園です。あなたも名前ぐらいは聞いたことはあるのではないですか? 日没の前後2、3時間ほど、環境負荷物質の量が減る時間帯。そのときに限って地上を見ることが出来ます」
確かに聞いたことはある。大抵は調査のために備えられている地上施設の中で、唯一人が出入りすることが出来る場所。存在だけ知っていたものの、それを実際に見たこともなく、また進んで行こうとも思ったことはなかったのだが。
「地上か」
つい先ほどまで地上を映していたモニター画面を見て、山辺はそうつぶやいた。