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庭園  作者: 俊衛門
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 目覚めると光が瞼を刺す。徐々に、徐々に目を開けても、視界の先がまだぼんやりとしていた。

 体を起こそうとしても、うまく体が動かない。手も脚も、枯れ木だった。自力で動くことも出来ない。もう、自分の体は自分ではない気がしていた。

 ふと見上げると、女が歩み寄ってきた。女は山辺の上体に手をかけて、抱き起こした。女のくせに、腕力がある。表情も乏しく、声も無機質だ。こんな女、雇った覚えはないが、もう昨日のことも思い出せないからおそらく自分で雇ったのだろう。過去の自分を恨んだ。

 流動食を腹に収めていると、女がコーヒーを煎れていた。合成ものでなくて天然物ですよ、と言ってそれを差し出してくるのに、山辺はそれに口を付けるが、味はほとんどしない。天然物というものはこれほど味気ないのかと思ったものの、すぐに舌先の感覚が鈍くなっているのだと気づく。年はとりたくないものだ、とため息をつく。

 電磁移動の車椅子に乗って、外の様子を眺めていると、今日はいい天気ですよ、庭園までどうですか、と女が聞いてきた。庭園とはなにか、と聞けば、日没が見られるところですと答えが返ってくる。特にすることもないので、山辺はその提案に乗ることにした。

 女が、車を出しますと言い、その前にと山辺に補助具を取り付けてくる。姿勢制御のために、弱り切った骨格と筋肉を補う簡易型外骨格だという。妙な骨組みに腕と腰と背筋を固定されると、女は車を出しますと言って外にでる。

 車を走らせて、三十分も走った。地上への走路に乗り込み、そしてその庭園とやらに着く。そこは天井が開かれて、太陽が顔をのぞかせていた。なるほど、陽の光を見ることのない現代、こうして本物を拝むのか、と納得する。

 庭園を抜けると湖があった。陽光が水面で反射して、橙の光がきらめいている。その光を山辺は美しいと思った。

 周囲には同じような電磁椅子に身を預けた老人たちが、湖とその向こうの陽を眺めている。確かに、ここは良いと思えた。老い先短い、いつ迎えが来るか分からない自分のようなものには、この陽を眺めながら死ぬのも悪くはないかもしれない。

 と、そこへ一人の少女が駆け寄ってくるのを認める。

 まだ五、六歳といったところだろうか。黒髪が印象的な、東洋系の顔立ちをしている。少女は山辺が乗っている電磁椅子が珍しいようだった。

「お嬢ちゃんはどこから来たんだい」

 努めて優しく、山辺は語りかける。少女は何か思案するように首を傾げた。

「おじさんは、いつもここに来るの?」

「いいや、今日が初めてだよ。どうしてだい?」

 すると少女はますます不思議そうな顔をする。

「おじさんと、前にも会った気がするの。ここで」

「そうなのかい、しかしそれはたぶん違う」。

 山辺が答えると、少女はきわめて残念そうな顔をした。もっと答え方を考えるべきだっただろうか、と少し後悔する。もっと気の利いた言葉が出てこない、自分の教養のなさを恨んだ。

「君は、覚えていないのかい?」

 逆に問いかけてやると、少女はまた首を傾げる。

「会ったはずだけど、わかんないの。思い出せないというか、絶対ここで会っていて、それも何度も顔あわせているって、思うのに」

「今思い出せないのならば、それはたいしたことではないんだろう」

「そんなことない」

 少女は強い調子で否定する。思い出せない自分が恨めしいのだろう。

 山辺は、今度こそうまく彼女の感情に沿えるようにと心がけた。

「もし、それが大切なことならば、きっと思い出すよ。大切なことじゃなければ、その出会った人のことも忘れる、けれど今おぼろげにでも覚えているのならば、それは大切なこと。ならばいつかすべて分かる時が来るよ」

 そういうと、少女は少しだけうれしそうな顔をした。歳に似合わない、控えめな微笑みだった。

「おじさんは優しいのね」

 これまで生きていて一度も言われたことがないかも知れない言葉だった。

「おじさんのことも、忘れないわ」

「ありがとう、私も忘れないよ」

 少女はその場を立ち去り、湖の方に駆けていった。少女が向かった先に、同じ年の頃の子供たちがいて、一人の女性が彼らをとりまとめている。

 陽が沈んでゆくのに気づいた。地平線に目を向けると橙光が空と地の境界線上で燃えているのが分かる。光は微かに揺らぎ、空を照らしているけれども、徐々にそれは勢いを失ってゆく。金色に染めた空が闇の色を濃くさせてゆき、橙が群青の色に負けつつあり、やがて完全に陽光が消えるまでを眺めた。

「そろそろ行きますよ」

 女の声がした。と思うとその女が車椅子を押した。もう、あの少女はどこにもいなかった。

 


 そこには、なにもなかった。

 微かな光を感じ取り、それが何かと目を凝らしたときには、天頂に濃い青と橙の混じった空間が広がっていた。

 それが空だと、最初は分からなかった。空など久しく見ていなかったのに、しかし目の前には、人類が忘れたはずの空がある。

 では光の正体は何か、と目を見張れば、それは紛れもなく陽の光だった。黒々とした地の線によって半分に断ち割られた陽。それが赤く燃えている。

 お加減はどうですか、と頭上から声がかかるのに、山辺は上を見上げる。見たことのない女が、のぞき込んでいた。こいつはいったい誰なのかと思案したけれども、ずっと上を見るのもしんどくなり、すぐに頭を椅子の背もたれに預ける。そこで山辺は、自分がクッションの敷き詰められた安楽椅子のようなものに座っているのだと知る。

 ここはどこだ、と問えば、女は庭園ですと答える。今からロケットの打ち上げがあるのですよ、とも付け加えた。ロケット? 何のことだと問えば、少しだけ答えに窮したような間があった。

 この星とは違う場所に、行くためのものです。女はそう言ったのだった。星を出て、新天地を目指す人類の、最初のグループが旅立ちます。女は無機質な声音でそう説明する。

 そうか、と山辺はつぶやいた。女はきっと、そのロケットに山辺がいないことを告げるのをためらったのだろう。それを山辺が気にするのではないかと。

 だがそれはいらぬ不安だった。体は衰え、自分一人では立っていられないし、用も足せない。昔のことも、すぐには思い出せない。そんな自分だから、きっと新天地に行っても足手まといになる。そんなことは分かっている。だから山辺は、そうかとだけ答えたのだ。

 山辺は地平線を見た。その先で小さな光が弾けた。

 一つ、二つ、三つ。彼方で火球が爆ぜる。

 地平線から白い煙が、天に向かって伸び上がるのを見た。立ち上り、三筋の矢が空を目指し、高く駆けてゆく。

 その先端の機体が、彼らを乗せたロケットなのだろう。希望を乗せたそれが、橙の光で染まる先を突き抜けて、その全てが見えなくなるまで山辺は見送った。

 人類はまだ、生きられるのだな。

 山辺が言ったことに、女は答えなかった。

 滅び行く、この星ではない。もっと別のところで。

 そこで彼らは生きられるのだという確信があり、そうあればこそ自分はここに止まっていられる。この星と運命を共にすることに、少しの悔いもない。

 いずれこの星が潰えるか自分が眠りにつくか、どちらが先か分からないけれども。だが今は、満ち足りている。だから、それでよい。

 ドームが閉まります、と女が言うのと同時に、天を黒いシェルターがせり上がってくる。女は戻りましょうかと促すけれども、山辺はそのまま空を見ていた。ロケットが消えた先の空、すっかり陽が落ちて闇が支配し始め、群青の濃い色に塗りつぶされてゆく空を。

 天蓋が閉じきる、最後の最後まで。

 きっと彼らの未来は、良いものなのだろうな、と言った。女は、そうでしょうね、と応えた。

 少し眠いな。そうつぶやくと、女は柔らかく微笑みかけて言った。

 どうぞお休み下さい。私はここにいますから。 


 夢を見ていた。


 夢の中で、彼は少年だった。少年は、教室の隅に一人でいる彼女の姿を見かけ、彼女に近づいていった。

「譜面を使わないんだって?」

 ちょうど彼女はビオラを調整しているところだった。いきなり話しかけてきた彼を、彼女は迷惑そうな顔で見上げた。

「ビオラか。なかなか面白いものを選ぶんだね。それで即興曲ばかり弾くんでしょ?」

「そうよ。何か文句ある?」

 年下の女の子から睨まれるというのは、あまりいい気分ではなかったが、しかし一世一代の勇気を振り絞って話しかけたのだ。ひるんでいる暇はない。

「いや、すごいなって思って。君、入って一年ぐらいでしょう? なのに皆が噂している、君の技術はすごいって」

「同時に、扱いにくい変な女って噂もね」

「皆君のすごさに嫉妬しているだけさ。僕も正直、嫉妬している。でもそれ以上に、君の音は素晴らしいと思う」

 彼女は照れたように目を伏せ、どうも、とかなんとか小さな声で言った。

 少年は彼女に、右手を差しだした。

「僕の名前は山辺悟。よければ君の名前を、教えてくれないか?」

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