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庭園  作者: 俊衛門
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20

 ドームは開いていた。


 すでに解放されたドームには、人があふれている。明日からが最後だと、誰もが知っていれば、ここに集う人々の数も増えることだろう。あるいは最後の時間を家に戻って家族と語らって過ごすために、いつもより少なくなるのか。それは分からないが。

 庭園を抜けて、山辺はすぐに湖を目指す。もうすっかりそれが習慣になってしまっていた。庭のあちこちに咲いている花を愛でるとか、並木の美しさに心を奪われるなどといったことよりもまず、そこに行くことが大前提であるのだ。

 たどり着いた先で月慈の姿を探したが、まだそこには誰もいなかった。重たいバイオリンケースを下ろして、すっかり定位置になってしまったベンチに腰掛けて湖を眺めると、日の光が視界に飛び込んでくるのが分かる。

 あの光は、ここで見る最後のものだ――そう思えば、今までともまた違って見える。過去を引き継ぐことのない、周期の狂った振り子にはもはや時間の概念などなく、その意味では自分がここに来ることは、これで最後なのだと思えた。これから先、何度足を運ぼうとも。今この瞬間が消えるのならば。

「あれ、来てたの」

 ふと声をかけられて、振り向いた。人工風が吹いて、長い黒髪が空中でふわりと漂い、その持ち主を目にする。

「久しぶりね。あれ以来、全然来なかったけど。今まで何していたの?」

 月慈は髪を押さえて、微かに目を細めて山辺を見下ろすようにして立っている。いつもと変わらぬ表情、それでも目にするとすれば今日が最後であるその眼差し。

「あ、やあ……」

 久々に会ったにしては、我ながら随分と気の抜けた挨拶だった。

「やあ、じゃなくて。何で今まで来なかったのよ」

「ああ、すまない。仕事で、ちょっと」

「そんなに忙しかったの?」

「いや、大丈夫。もう一段落したから。今日で、終わりだ」

 山辺が言うことが、最初月慈はよく理解できなかったらしい。

「なに、なんて言ったの」

「仕事は終わりだって。だから、早く来た。それだけのことだよ」

「なにそれ、クビにされたってこと?」

「そんなところだ」

 またそうやって誤魔化す。彼女との会話は、いつもそうだ。そしておそらく誤魔化せていない、しかしもうその必要もない。

 ここに来るまでに思っていた。最後となる今の姿を一秒でも長く目に焼き付けようと思っていたことが、いざ目の前にするとどうしても顔を背けがちになる。いつも出来ていたはずのことが、今日はひどく難しく思えた。

 そんな山辺の態度を、月慈は違う意味で受け取ったらしく、いたずらめいた笑みを浮かべて、山辺の顔をのぞき込んで来る。

「何かやらかしたの? そんなに取り返しのつかない失敗でもしたから、解雇されたってわけ? それで落ち込んで湖を見ていたわけなのね」

「いや、それはそれであっているというか、間違っているというか……」

「良いの、傷心に塩を塗り込むようなことはしないから。全部話せ、なんて言わないよ」

「だからそういうことでは」

 それを否定しようとして、しかしそれまでだった。口にしようとしたことがどれほどの理由であっても、それを並べ立てる時間はあまりない。

「それで、クビになったならこんなところに来ていないで再就職先探したらいいんじゃない?」

「それも大事だけど、今はここに来ることが先決だよ。君に会いに来ることが、今は何にも増して重要なことだ」

「ああそう、それは何より」

 ほとんど一世一代の決心で言ったことを、月慈はあまりにあっさり受容してしまう。ほとんど意図など伝わっていないかのようだった。

「あのさ、今のは結構勇気出して言ったんだけど――」

「分かった分かった。それじゃ、さっさと始めちゃいましょう」

 月慈は山辺の言葉を遮り、ビオラを取り出し始めた。その横顔に朱が差して見えるのは、夕日のせいだろうか。

 月慈が隣に腰掛けた。弦を弾いて張りつめ具合を確かめる所作も、慣れたものだ。

「時間が惜しいでしょ?」

「それは、そうだけど」

 確かにそのつもりで来たのだから、当然そうするべきではある。だからその行為そのものに疑問はない。

「あのさ、その前に」

 山辺がいつまでもバイオリンを取りだそうとしないことを、疑問に思ったのか、月慈は怪訝そうに見上げる。

「どうしたの? 今日は調子が悪いとか?」

「いや、ご両親のところには行かないのかなって思って」

 ますますもって、疑問が深まったというように月慈は首を傾げた。

「君がここに来る理由は分かっているけど、毎週末のことだ。その……両親のところにいきたいとか思わないのかい?」

「なによそれ、来るなっていいたいの?」

「そうじゃない。ただ、そういう気になったりしないのかなと思って」

 月慈は、山辺がそんな風に言い出したのがひどく気にくわなかったらしく、憮然とした口調で言う。

「変なこと聞くのね。私がどこに行こうとなにをしようと、私の好きなようにしたいからそうしているって、前にも言ったでしょ。私は、ここに来たいから来ている。母さんたちにはすぐに会えるしね」

「もし」

 林の中で、リオが見ている気がしたが、それでも言わざるを得なかった。

「もし、今生の別れになると知っていたら? 親御さんのところに行くんじゃないのか?」

「ますます変なの」

 けれども月慈は、怒った風ではなかった。抱えたビオラの弦を指先で弾いたりしながら、少し考え込むようなそぶりを見せる。

「そうだとしたら、確かにね。一目でも会いに行きたいと思うわ。でも最終的にはここに来るんじゃないかな? だって最後だと知っていれば、やっぱり最後もここで死にたいと思うわ。母さんたちはここに連れて来ればいいけど、この場所は動かないし」

 果たして、月慈の言葉を前にして、山辺は自分がどんな顔をしていたのか分からない。

「それに、ここに来ればあなたもいる」

 一瞬、聞き違えたのかと思い顔を上げる。今度は月慈が顔を背けていた。忙しそうにビオラの弓を取り、せかすように言う。

「ほら、早くしないと日没だよ? 演奏する時間もなくなる」

 促されるまま山辺は弓をとった。さっきの言葉の真意を聞くまでもなく、山辺はバイオリンを構える。

 一瞬の間。

 はじめに月慈が音を奏でる。糸のように細い音が、だんだんと鋭さを増してゆき、その鋭い音を包み込むバイオリンの柔らかさが相まって旋律となる。音階が、ゆっくりと上下して、ビオラの音を山辺は追いかけた。

(最後だと知っていれば)

 音を合わせる、それだけのことを楽しみだと言った女の、最後とは知れない最後の音を聞いていた。

(ここに来れば、あなたがいる)

 月慈の言葉を反芻しながら、その音に重ねている。二つの音が同じ旋律をなぞり、重なりあうただそれだけのことが、今は限りなくいとおしい。相容れない音律を調和させ、立場の違うもの同士を結びつけ、同じ日没を見て同じ音に身を委ねていることが、かけがえのないことだと思えた。

 それがたとえ、一瞬で終わることなのだとしても。

 やがて音が収束してゆく。高ぶる音の振幅が段々と小さくなって、弦の震えがゼロに落ち着くまでの余韻に浸る。演奏のすべてを終えたときにはもう、日は地平線の近くにあった。

「悪くない」

 月慈は弓を下した。

「なかなかここまで出来ないよ。もしこの演奏、こういう場所じゃなくてコンサートホールに人を集めたらきっと一杯になるよ」

「そうかもしれないね」

 まだ覚めやらぬ、音の感覚を引きずるような心地で山辺は答えた。

 やがて日の光が弱くなり、朱色をたたえた空は青みを深くしてゆく。辺りが夕闇を濃くしてゆくのを目の当たりにすれば、

終わりの時が近づいていることを嫌でも自覚させられることとなる。

 めいめい引き上げる人々を見ながら、月慈はビオラを仕舞った。

「時間なんてすぐに経っちゃうのね」

 不満げに洩らして、それでも慣れた手つきで楽器を納めて、月慈はそれを担ぎ上げた。

 それは何度となく見送った姿だった。何度も見送り、しかし次にはまた同じように迎えることが出来る姿のはずで。

 それでももう、その先は相まみえることなどない。その姿は、それで最後で――目にすることなどない。

 本当に、最後でいいのか。これが最後で、こんなものが、最後などと――。

「じゃあね、サトル。また今度」

 そう口にする彼女が、たとえそうだと知らないのだとしても。

 月慈が立ち去る。山辺は立ち上がった。

「月慈!」

 珍しく大声を張り上げる山辺に、月慈が不思議そうな顔で振り向いた。

「どうしたの?」

 そう、最後なはずだ。今ここでは、この場では。

 それでも。

「また、来週ここに来てくれるかい?」

 それでもまだ、最後ではない。

「来週、日没に。このドームで。湖のほとりで待っていれば、また君はここに来て、君の姿を見せてほしい」

 過去が現在を決め、過去の蓄積が未来となる。

 それはそれで一つの見方だ。その意味で、これからの未来はもはや存在しないのかもしれない。

 だが、過去をなくし、未来が見通せないとしても。今の今は、ここにある。

「来週と、再来週と、一月後でも。僕は待っているから。もし何かの事情でバイオリンが持てなくなったとしたって、体一つででもここに来るから。君が、君さえ良ければここに来て、少しの間だけでも日没を見て、だから」

 終わりではないのだ。命が潰えるわけではない。この先も、互いの道が遠ざかるだけだとしても。今が繰り返される以上は、最後ではない。

 音は何度でも生み出される。ならば出会いだって、何度でも生み出せるはずだろう。

 今、ここで。何度でもこの庭園で。

「だから、また。ここで、週末に」

「そうね」

 月慈が振り向いたときに、息をのんだ。

「ここでまた、会うのだからね」

 目映い笑顔を見せた。全てを受け入れたものの笑みだった。慈しみ、愛で続ける者が自然とそうするという表情だった。

 この次も、その後も、何年後も。彼女は同じように笑うだろう。互いにすれ違う時間の中でも、彼女はきっといつまでも、そうあり続ける。

「また日没に」

「ああ」

 だから、最後ではない。彼女がそう在る限りは。

「また日没に」

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