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庭園  作者: 俊衛門
18/21

18

 アカデミーを辞めるときがきた。

 そういう風に告げられたのは、唐突ではあったが。しかし予期していたことではあった。

「音楽では、人は救えないぞ、悟」

 父――もう顔も思い出せない、その人物が言った。父は、自らの研究以外には何の興味もないような男だった。

「物理を学べ。これからお前に、家庭教師をつける。この世界の理を学び、この世界を救うためには、もうこんな玩具で遊んでいる暇はないぞ」

 そう父は、バイオリンを示した。

 その弦楽器は、すでに演奏することを止めてひと月ほどは経っていた。今までは入念に手入れをしていたのだが、ちょっとの間でも放置していると、もはや何の愛着も沸かないのが不思議だった。

 だからこそ――いや、そうなっていたからこそ、父の命令に素直に従った。そこから先、アカデミーを辞め、父のあてがった教師に学び――そうして大学に入り、これまでやってきた。

 そうするにつれ、あのときの彼女――アカデミーで見かけた、あの少女のことは忘れていった。今の今まで。


 そこまで話すと、月慈は不思議そうな顔をした。

「ええと、つまり。私はあなたに会っていた、ってこと?」

「会ってはいない。僕は結局、君に話しかけることがなかったわけだし。僕は君の名を知ることなく、辞めたわけだから」

「その女の子が私じゃない他の誰か、って可能性は考えなかったの?」

「うん、考えない。あの子は君だよ、間違いなく」

 あんな変わった子が、他に二人もいてたまるか。そう思ったが、さすがに月慈の前では口にはしない。月慈は少し考え込んでから訊いた。

「ところで私、サトルの年齢知らなかったけど。あなたいくつなの?」

「この間二十五になったばかりだ」

「ってことは、私と一つしか違わないんだ。もっと上かと思っていた」

「君の目から見て、僕はそんなに老けているのか」

 これには山辺も落胆せざるを得ない。月慈が慌てて否定した。

「あ、そうじゃなくて。もっとサトルって、大人びているっていうか……でもそうね、一つ違いってことは、やっぱり重なっていたんだ」

 月慈はふと、山辺の瞳をのぞき込むようにして見据えてきた。そんな風に見られると、同じように見据えるのがはばかられて、思わず目をそらしてしまう。

「そういえば、私はあなたのこと何も知らないのね」

 ふいにその目が疑念に変わるとき、山辺の心臓が一つ高鳴るのを感じる。

「そうだな。僕も君のこと、あまり知らなかった。あのとき、君を見かけた時も、変わった子だなぐらいしにしか認識しなかったし」

「変わった子って失礼しちゃう。可憐な音楽少女をつかまえて」

「可憐なことは認めるが、変わっているという前提はなかなか覆らないよ」

 山辺が言った言葉に、月慈があっと小さく息を飲んだ。そして、なにやらうすら赤い顔でそっぽを向いた。 

 山辺もまた、自分で口にしたことに気づき、声を失った。そして、急激に体温が上がるのを感じた。

「あ、いや何だ。一般的に見てってことだ。君に声をかけたい男どもはいっぱいいたからね。君は気にもとめていなかっただろうけども」

 会話の流れの中とはいえ、大それたことを口にしたものだ。あれこれ言い訳して、なんとかそのことを無かったことにしようかと思っても、口に出してしまった事実は覆りようもない。

「それで、あなたも声かけたかったの?」

 月慈が上目遣いに、山辺の顔を窺い見る。

「私に」

「声をかけようと思ったときもあったよ」

 月慈の頭越しに、湖のほとりを埋め尽くす林が見える。その木の向こう側で、陽が落ちようとしている。

「けれど、諦めた。僕にはどうも、そうするだけの勇気はなかった」

「勇気って何よ。別に声かけられたからって、何かするでもないのに」

「そうだな。声をかけておけば良かったかも知れない。そうだったら、もしかしたら」

 そこで口を閉ざした。それこそ、その先を口にすれば、何かが根本的に崩れてしまいそうな予感があった。

「もしかしたら、違う人生があったのかもしれないな」

 それを認めれば、山辺の人生を否定するかもしれない言葉を、山辺は口にした。下手をすれば積み上げたものが、一気に壊れてしまうほどの言葉だった。

 だが同時に、それほど積み上げてきたのかという疑問もあった。自分の人生が、それほど尊いものであるのか。自分が一体何を積み上げてきたというのか。一人の女から、人生を取り上げ、見も知らぬ惑星に送り込み、自らは老いて死ぬ、その運命を、指をくわえて待っている。たったそれだけの人生ではないのか。 

「違った人生だったら何だっていうの」

 月慈は、硬質な声音と真剣な面もちで、そう言った。 

「それを思ったところで、その人生を歩めるわけじゃないし。そこで人生がどれほど変わっていたか、なんて証明も出来ないよ。人生のどの局面が、今の自分につながっているか、なんて。本当は誰にも分からない」

 月慈は落ち着いているように見えた。彼女はどうあってもそれを伝えなければならない、とでも思っているかのように。一つ一つの言葉を選んだ話し方だった。

「過去のそれまでがこうだから、今がこうであるとか。過去が変えることが出来ないから、未来はそのままだとか。そんなこと誰が決めたわけでもないのに、皆そうして生きなきゃいけないかのように振る舞っている。そういう見方もあるけれど、そういう見方しかしないなんて、私は嫌だ」

 一つの音があった。

 その音は、誰でも奏でられるものであるけれど、その場所、その局面で響く音はそれだけでしかない。

「サトルはここで、私に会った。あのときは、お互い知らない同士だったけれども、今は違う。今がそうなら、過去なんてそんなに大した問題じゃない。そう思わない?」

 響き方は、環境によって違う。弦の張り方、弓の持ち手、そしてそれを奏でる場所。本当はそれぞれ同じようで、しかし少しずつ違う。

 そして音は、無数にある。無数にある音から選び出し、つなぎ合わせたそれを人は音楽と呼ぶ。

 そのつなぎ方は、あらかじめある計算のもとに生み出されるものであるが。かつての音楽はそうではないことが多かった。

 それならば、今でも。

「そうだな。君の言うとおりだ」

 ならば、今の今が惜しかった。そのまま過ぎ去る時を、そのままにはしたくなかった。

 山辺がバイオリンを取り出した。

「もうあまり時間ないわね。もうちょっと練習したかったけど」

 月慈が地平線上を見ていった。太陽が、半分ほど隠れていた。

 いつもならば何度か音を合わせるのだ。日没までの間、数曲は弾ける時間はあり、その間にわずかなずれを修正する。

 今はどうか。以前、月慈は即興でやると言った。月慈と、あらかじめの曲ではない即興で音を合わせるのは初めてのことだ。何の備えもなく、うまく出来るのか。

 そんな考えも、月慈が弓を構えた瞬間に消えた。

 出だしはビオラの音色が先行する。ゆったりとした旋律だった。音程は高く、音は伸びやかで、下手すればそのまま聞きほれてしまうところであるがそれはそれ。すぐに山辺のバイオリンの音が重ねられた。

 音を発した瞬間に、その音は先行するビオラの音とぴたりと重なる感覚を得た。あたかも最初からその音が、同じ旋律に収まるべくして収まると知っていたかのようだった。

 三小節、そうして弾いていた。音のずれはない。

 変化する。ピッチをあげるにつれ、二つの音が一つに溶け合っていった。毛色の違う音同士、その音は独立を保ちつつ、それでも振動する域は互いに外さない。その間を保ちながら、二つの音が相互に補う形であるのだった。

 その音色が、そこにありながらも、互いを必要とするかのように。手を伸ばせば、それを必ず受け止めてくれる。絡み合いながらも絶妙な位置であり、それでいて触れることができる。今はまだ寄り添うことができた。

 月慈がまた少しだけピッチをあげる。山辺がそれに応える。我が鳴れば、すぐさま彼は応じ、彼が変化を表せば我は自ずから変わる。そこに横たわるものは変化だ。限りない変化、それを捕まえ続けることはできないが、ただ捉えていることはできる全てのもの。

 高い音、低い音、長調と短調。どれほど変化しても追いかける自信があった。否、もはや追いかけるのではなく、それそのものなのだ。彼女とは、自分とは。

 今一瞬だけであり、次には消えるものだとしても。

 ――なかなかうまいことやるじゃない。

 そんな風に月慈が、目で語りかけてくる。

 ――君のリードがいいからだ。

 それが伝わるという保証はなくとも、山辺もまた目で語りかける。月慈が微笑みかける。

 ――じゃあまだいけるよね。

 ――ああ、もっといける。

 ――ならばこれはどう?

 ――いいだろう!

 音がさらに加速していった。

 それは自然と駆けてゆく。山辺の音も高まり、その音が生まれれば、さらに生まれてくる音がある。その音に、寄り添い続け、連なってゆく音から法則が生まれ、その旋律を聴く我自身に還元されてさらに生まれゆく。

 彼女の音を聴き、自身の音を奏で、互いに手を伸ばし、それを求め続けた。

 やがて音が収束に向かう。弦の高鳴りが止み、静止した水面に最後に、一つだけ波紋を投げかける。余韻が生まれ、それが完全に潰えたときに静寂が訪れる。

 その静寂も一瞬のことだった。いきなり周囲から拍手の音がわき起こったので、山辺は驚いて顔を上げる。いつの間にかギャラリーが増えて、二人の演奏を鑑賞していたのだ。なにやら気恥ずかしくなってバイオリンを下ろそうとしたときに、月慈が興奮気味に山辺に迫って言った。

「すごいじゃない、どうしたのそれ」

「な、何が」

月慈は興奮気味に言って、いきなり手をつかんできた。山辺は思わずたじろぐ。

「全然、初めてと思えない。今まで何でこんな風にできなかったの? 前までと全く違うじゃない」

「それは、その、君のリードが良かったから……」

「いやでもすごいよ!」

 月慈は嬉しさを隠せないかのようだった。そうなることが、予想以上のことだったらしい。予想していなかった分だけ、それが非常な喜びであるのだということを隠さない。

「ねえ、もっかい。もっかいやろうよ、今の」

「あー……それも悪くないけどさ」

 若干、月慈の勢いに気圧されながら、山辺は湖の方を振り向いた。陽の光がちょうど、地平線上で潰えるのを目の当たりにする。陽は光の点から、徐々に押しつぶされて線状に広がりを見せ、空のほとんどは濃い青の闇に塗りつぶされつつある。それに伴いドーム天蓋も少しずつせり上がってゆくのだ。

「もう、あなたがもたついているから」

 時間が迫っていることを知り、月慈がとがめるように言った。

時計を見ながら、月慈はビオラを片づけた。

「じゃあ、また来週ね。今度また週末に来るんでしょ?」

「そのつもりだ」

「じゃあもう一回ね。今度はもっと早い時間から始めれば、もっと色々できるかもしれない」

「ああ、ああそうだな」

 彼女が言うことに、山辺は曖昧に返した。やがて月慈はすべて片づけてから、ケースを背負い込んだ。

「じゃあね、また来週」

「ああ」

 山辺はその背中を見送った。

「また……」

 走路の乗り場に、月慈は駆けていった。走路の定期便はそれほど走っていないから、早く乗らなければ良い席が確保できない。下手すれば立ち席となるので、乗員は皆それなりに必死になる。

 そんな心配とは無縁だから、山辺はいつまでもそこに突っ立っていた。誰も彼もが立ち去ってゆく中で、湖を見つめ、がやがやとした喧噪が消えて静寂が訪れてもなお、そのままでいた。

 天蓋があともう半分ほどで閉じきるというところであっても、その場を動くことはない。動かずに、さっきまでの音色が耳から離れずにいた。

 同時に、高ぶっていた。その音のまま、それは消えずにいた。いつまでも熱のままに、残っているようだった。

「時間が迫っていますよ」

 だから、リオが声をかけてくるまで、山辺は気づくことがなかった。

「そろそろ戻らなければ」

「リオ」

 振り向くことなく、山辺が言う。

「お前に、今の僕の気持ちが分かるか?」

 リオは、たっぷり十秒ほどかけてから答える。

「今、あなたは高揚している」

「それだけ?」

「体温が上昇しています。もちろん、生命活動に支障をきたすほどではありませんが。アドレナリンの分泌が、やや多いようです。呼吸も荒いのは、疲労のせいでしょうか」

「それだけか」

 山辺は歩き出した。車の停めてある方へ、それでもリオの方を見ることはなく。

「それで、正解なのですか」

「半分はね」

 天蓋が閉じる、闇が降りてくる。それとともに、内にあったはずの高ぶりが消えてくるのが分かる。高ぶったはずのそれが、そのままであるはずがなかった。あとに襲ってくるものは、高揚した分だけ、反動が大きい。

「もう半分とは何ですか」

「それが分かれば苦労しない。その半分を教えてくれよ。いつかみたいに。分かるんだろう、僕の体内環境を観察しているんなら」

 どうしても抱かざるを得なかった。

 あの一瞬が心地よいと思った分だけ。あの重なりが素晴らしいと感じた分だけ。それはこみ上げてくる。何故それを感じてしまったのか。どうしてそれを得てしまったのか。

「僕がどういう気持ちなのか、教えてくれよ」

 手を伸ばした。自ら生まれてくる音を彼女に届け、瞬間に月慈が応えた。その時に思った。

「こういうの、初めてなんだよ。お前なら分かるだろ、僕がどういう状態なのか教えてくれよ!」

 その一瞬を何度でも繰り返したいと思ってしまったのだ。

 すれ違っていた音が、一つになったことが。互いに互いを高め合ったかのような感覚が。もう一度、もう一度と幾度も重ね合い、一瞬一秒でも永くそれを体感したいと感じていたのだ。

 そして、その分だけそれは叶わないのだと感じさせた。そのまま気づかないままであれば、良かったものを。

「どうして、僕をここに連れてきたんだ。リオ!」

 振り向いた、その先にリオがいる。リオは神妙な――といっても無表情のまま――面もちで、こちらを見ている。こいつはいつもそうだ、笑っているか無表情か、どちらかしかない。その二パターンだけだったらさぞかし楽だろう。その二つだけ装っていられれば、自分だってそうしていたかった。

 こんな気持ちを知らなければ良かった。

「……あなたが以前おっしゃったように、人間は単純ではないのでしょう」

 ドームが閉まる。サイレンが響く。最終走路を告げるサイレン。それでも、二人は動かないでいた。

「私に分かることは、今まで蓄積されたデータの中から照合すること。それをお伝えすることは、いくらでも出来ます。けれども、あなた自身にしか分からないことは、私が分かる由もありません。それはあなた自身ですから。どれほど膨大なデータも、あなた自身を映す鏡にはなりません。それはあなた自身でしかないのですから」

 何をもっともらしく言っているのか。そう怒鳴りつけてやりたいと思ったとき、ふとリオの顔にかげりが見えた気がした。

 それは初めてのことだった。目を伏せ、眉根を潜めたその面差しに、影が差したのは。きっと暗くなったからそう見えたのだ――それだけでは説明のつかないものが。

「行きましょう、ミスタ・山辺」

 しかしすぐに、元の無表情に戻る。

「ここはもう遅いですから」

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