14
地下ドームはどれも共通であると、誰しも思っている。
そこで生活する人々も、違うドームに住む者も。人類委員会の息がかかっていない、世界政府の機関に在籍している人間も。移住者たちが住まうそこは、どことも同じであると信じている。そのように信じ込まされている。
それどころか、計画に携わるものでさえも、そこが特殊なドームであることを忘れてしまうことがある。
その日行われた実験は、初の実地試験だった。移住者ドームにおける局地的な熱還元実験を行うまで、山辺自身も、そのような者の一人だった。
「生体電位を集束、熱レベルを三段階引きを下げろ」
山辺は今、スクリーンの前で指示を出している。ドームの外周を覆う集束装置が発生させる磁場が、外部と内部の熱を交換させるためのものだ。
「さらに上昇させろ、二段階」
画面の上では、ドーム外の熱量、そしてドームの内部環境が示されている。シミュレーションと同じ条件だが、今は実際に生物を使っての演習であるということだ。実際のドームで、内部には実験用として山羊が、その対象として選ばれている。熱を操作し、山羊の生体内熱量を逓減させてゆく。熱量の逓減は、細胞を破壊することでもある。だから注意深く操作しなければならない。
数値の上昇と下降、そんな二つのグラフを見ながらも、中で行われていることはそんなに単純なことでもない。山羊は、自らの身に起こった低エントロピーに対応すべく、自らの細胞を作り替えなければならない。低熱量、かつ生命活動を失わない。それらは余分な熱を手放すために、自らの細胞の一部を切り離して行く行為であり、そっくり自らの体を造り替えてしまうということだ。かつて成長のために増大させた熱の塊を手放す、つまりこれまで培ってきたすべてを、熱の逓減に耐えるためにすっかり手放す。強制的に、幼少の体に戻らざるを得なくさせる。
実験用に使った山羊は、結構な老齢だった。皮膚も、内臓も、骨も、すべての細胞が今生まれ変わらされている状態。これを、人に適用しようというのだ。
ちなみに、適用されるのはあくまでも人だけである。他の動植物は、種子や幹細胞の状態でロケットに積み込まれ、移住先へと持ち込まれる。その星の環境に適した形に遺伝子を組み替えられるのか、あるいは環境にそぐわないとされれば上陸せずに廃棄される。その判断は現地で行われる。
「山辺、山辺、おい」
グラフに集中していたから、話しかけられてもわからなかった。
「どんな感じだ。データは?」
キム・カートワイルが、あからさまに不信感を抱いた顔でのぞき込んでくる。山辺の様子をおかしいと認識したのだろうか。
「シミュレーション通りだ、問題はないといえるだろう」
変に取り繕っても仕方がないので、山辺はそのままそう答えた。キムはまだ怪訝そうな表情を見せていたが、しかしすぐに実測値の方に向き直る。
「これは、人に適用しても問題のないレベルと、いえるか?」
「熱の移動そのものは良い。ただ実際にやるとしたら、もっと広範囲で行われる。そのときは、熱の交換そのものはもっとゆるやかになるだろう」
そのとき、いきなり横から金属アームが伸びてきた。ぎょっとして振り向くと、円筒型の自走ロボットが二人分のカップを机に置くところだった。
「俺が頼んだんだ」
とキムはカップを取り、ミルクをそそぎ入れた。
「ここの豆は、なかなかいいのを使っている。うちの部署にも分けてもらいたいな」
「そういうことは、僕じゃなく違うところに言え。より具体的には設備管理部に」
コーヒーはブラックしか飲まない山辺は、そのまま口をつけた。こだわりがあるわけではなく、何となく砂糖だのミルクだの入れるのが面倒なだけで、ずっとそのまま何も入れずに飲んでいた。キムの言うように豆の善し悪しなど、わかるはずもない。
自走ロボットがその場を去って行くのに、山辺はそののっぺりとした金属ボディの後ろ姿を、なんとはなしに見送った。
「何だ、どうかしたのか」
「いや、どうというか」
コーヒーの苦みが口中に広がる。どこで飲んでも、コーヒーなど大体こういう味だ。
ただ、違うのだと言われれば確かに違う気はする。
「僕らにはあんな精巧なアンドロイドをつけさせておいて、何でここのロボットはあんな旧時代の遺物みたいなものしかないのかと思って」
「そんなもん、必要ないからだろう。人に似せる必要が。雑務だけこなせればいいのだから、ちゃんと動かせる操作手があって、それなりに動かせる電子脳を備えてりゃことたりる」
「じゃあ僕らには、そういうのが必要だということか。あの、無駄に精巧な人形が」
「そうだろう。家に帰って、あんな金属の塊がいたんじゃ気分も萎えようってもんだ。アンドロイドでも、うちに誰かいるってのはいいもんだぜ」
キムは、どうやらアンドロイドとは良好な関係を築けているらしい。
「精神的支えになるだ、とか言っていたが」
コーヒーを飲み終え、カップを置くとすぐに制そうロボットが駆けつけてくる。機械というものは、完全にその機能を果たすための形とプログラムを施されていることがほとんどだ。目的を果たすためならば、人型であることなどない。たとえば掃除するためのもの、給仕をするためのもの、地上を調査するためのもの――
「まあ、もしくは俺らがぼけたときのために、ああいう風に出来ているのかもな」
「何だそれ、ぼけるって」
「だってよ、計画が始まりゃ俺たちは老化していくわけだろ? そのスピードがあまりに早いから、段々と昔のことも覚えていられなくなるぐらいにぼけちまう。そんなとき、家の中にいきなり機械がいてみろ、絶対パニックになるだろ。だから、そういうことのないように人らしいのが必要なんじゃないか」
「まあ、言われてみれば」
そうなったときのことは、そういえば全く考えていなかった。自分で計画に携わっておきながら、その副作用について考えも及ばなかったなんて。
「ここだけの話――つっても、そんな秘密にするほどのことじゃないけど」
キムはいくらか声のトーンを落として言った。
「移住者ドームにも同じようなアンドロイドが導入されているらしい。同じような情緒型のな。若返っていく移住者たちの世話するためだってけど、やっぱりアンドロイドじゃないと不都合なんじゃないのか?」
「それは、つまり。記憶が無くなってゆくからってことか」
内部と外部との熱交換を行えば、その都度細胞は、体は作り替えられてゆく。記憶というものは、神経系が生み出す作用だ。その神経系も新たに構成されてゆくのだから、記憶というものが存続できるはずもない。
夜ごと、身体というハードがフォーマットされてゆくようなものだ。過去の蓄積は徐々に失われ、それと並行して新たに生み出されて行く我。彼らは過去のことなど覚えていられなくなる。どの程度のスピードで忘れてゆくかわからないが、おそらく忘れたという自覚もなくなってゆくだろう。
今は数値でしか見ることの出来ないドームの中では行われることは、実際にはまったく現実離れしたことだ。
「それでよ、計画が走り出すまで、あとどれくらいなんだ?」
キムはぼんやりとグラフの数値を眺めている。
「もうあと半月というところだな」
「あんまり実感はわかないな」
もう一度、実験開始のアナウンスが流れた。オペレータがカウントを開始し、巨大なスクリーンに、現場の光景が映し出された。
「なあ、キム。お前はその、いいのか」
「は、何が?」
ちょうど画面を繰っていた、キムの手が止まる。
「いやその、計画が走り出して、だけどそのまま始動しても」
「何言ってんだよ」
周囲があわただしくなる。二回目の出力上昇を告げるオペレータの機械的な声が、操作室に響く。
「そのために俺たちやってきたんだろうが」
ああ、そうだ。そうだよな――最後は誰かに訊かせるでもなく、つぶやいた。だからおそらく、キムには聞こえていなかったはずだ。
山辺はグラフに向き直った。
夕暮れが近かった。
そんな予感があれば、大体その勘は当たる。時計を見なくとも、夕になれば心がざわつき、それが週末であれば余計にそうなる。
時間とは周期性を持つ変化に対する概念である。時計というものが近代以降の時間の概念を生み出したものの、時間感覚というものは時計の発明以前より人に備わっていた。身体の奥深く、細胞の一つ一つが、脈動し、周期を刻み、身体はその周期性のある変化を絶えずつかまえている。ただそれを、人が自覚することはあまりない。目で見てわかるものでもなければ、常に感じているものではないものだ。
人はたやすく、数字の変化を時間と呼ぶが、感覚とは数値ではなく、あくまでも感覚でしかない。数値で表される時間は、誰しも共有可能なことであるのに対して、身体の時間は「それそのもの」でしかない。誰かと共有することもなく、それを察知する身体がそうだと感じればすなわちそれは「そう」であるのだ。
だが人の固有時間は、固有のものであるがために誰とも共有することが出来ない。だから感覚ではなく、外部的指標による時間、誰にも共有できる時間が必要になった。近代よりも以前、人が社会生活を営むようになった頃から――人が道具を手にした頃から。
自らの感覚を否定し、その感覚に基づかない、誰もが共有出来る時間を、我が時間とした。誰もが知っているその時間と、自らの身体の時間が合致しないときは、数値の時間を優先させた。そうして人は、身体の時間を忘れていった。
山辺もまた、自らの時間を捨てることで生きてきた。それを捨ててきたという意識もなく、自分の感覚を見てきたということでもない。
だから、意外だった。自分の感覚に基づき、そうした時間の感覚も身についてきたのだ。今は庭園が開く時間、そして今日は週末だった。
バイオリンケースを肩に背負い、玄関を出ようとした。
「どちらへ行かれますか」
声をかけられる。その声を無視して扉を開けようとしたが、それよりも先に扉を押さえられた。無理矢理あけようともしたが、まさかアンドロイドと力比べしても勝てるはずもないので、山辺は手を離した。
「出かけるのに、お前の許可が必要とは思わなかったけれども、リオ」
「庭園に行かれるのであれば」
リオはあくまでも冷静である。
「私がお供致します」
「いらないよ。これからもいらない。僕一人で行く」
「公共の走路は混み合います」
「乗れないほど混んじゃいない」
「車で移動された方が早いですよ」
「車内におしゃべりなアンドロイドがいるんじゃ、意味がない」
「ミスタ・山辺」
リオは真剣な表情だった。アンドロイドがどう真剣になろうとも、それはただの無表情でしかないのだが、しかしそれ以上に何か鬼気迫るものを感じる。
「あなたには、残念ながらその権利はありません」
そして言うこともまた、ずいぶんと直接的だった。
「お前が、僕の権利を縛るというのか」
「私にそのような権限があるということではありません。委員会よりそのように通達がありました。あなた方は職務中外、私的な外出であっても私たちの監視下に置かれます」
まるで隠すつもりもないようだった。そこまではっきり言われればいっそすがすがしいが、納得できるかどうかとなれば話は別だ。
「お前はさ、僕がそうかと訊いたら今まで否定していたよな」
「今までは、私の目的は監視ではありませんでしたから。あくまでもあなたのサポート役です。もちろん、これからもそうなのですが」
「そうかい、でも僕にはずっと監視に見えたよ。僕がどこかで勝手なことをしないか、ずっと見張っているみたいにね」
リオは黙っている。山辺は続けた。
「言葉一つ変えたところで、していることが変わらないなら同じ事だろう。お前たちは字面が違うなら、それはすなわち違うことだとプログラミングされているのかもしれないけど。それじゃ人は納得できない。今までもさんざん監視しておいて、今までは違いました、これから監視します、って誰が納得するというんだよ」
「納得いただけようが、いただけまいが、あなたを一人で行かせるわけにはゆかないのです。これが私のつとめなのですから」
「そいつを破ったら、どうするんだ。僕を力付くで拘束するのか?」
再び沈黙。リオはそれを口にすることを躊躇っている、ようにも見えなくもない。機械だったら、訊かれたことには答えればいい、何を迷っているかのように黙るんだ、人間でもないくせに――
「お時間、近いですよ。今車を出します」
リオは左腕を差しだして言う。左の手の甲に、液晶パネルが埋め込まれており、時刻表示が成されていた。庭園の、ドームが開く時間だった。
「余計なことは言いません。あなたの望むとおりにします。しかし、あなたを一人には出来ないのです。わかってください」
苛立ちは消えなかった。だけども、山辺にとってはそこに行くまでの時間が必要だった。
最終的に折れたのは山辺の方だった。
「出せよ、車」