10
季節の変わり目だ、と感じた。
そう感じられるのは、寂れかけた庭園の中にあっても季節の花を保とうとするドーム管理者側の配慮によるものであった。
湖に面するドームには初夏の花、新緑が芽吹き、少しでもそこに夏の訪れを感じさせようという努力の後が見られる。庭園の管理がアンドロイドに成り代わってずいぶん経つが、案外連中もそういうところは気を配るものだと――山辺は変なところで感心してしまった。
不自由な脚をどうにか動かすと、補助脚がくたびれたモーター音を響かせる。腰から膝、足首までを複数の人工筋肉でカバーして、とうに弱ってしまった足腰をなんとか助けている状態だ。今はまだ、それでも機械脚で動くことはできるがこれから先は分からない。齢八十ともなれば、体のあちこちががたがくるものだ。
庭園を抜け、湖まで歩くと、山辺と同じように補助脚をつけた老人たちが、あちこちでたむろしていた。補助脚ならまだ良い、磁性式の車イスに乗って湖をただ眺めているだけという老人が、圧倒的に多かった。再び立ち上がることのない、彼らに混じって、一人の子供がいるのを見た。
十歳ぐらいの少女だった。長く黒い髪色とのっぺりした顔立ちは、彼女が東洋系であることをあらわしている。少女は老人たちと楽しげに話して、老人たちはほほえみながら相づちを打っていた。山辺が近づくと、少女がこちらに気づき、挨拶をしてくる。
「こんにちは、山辺さん」
少女はスカートの裾をちょこんと持ち上げて膝を折り曲げた。古い時代の映画の中での所作だ、と思った。
「こんにちは……失礼、お嬢ちゃん。私は以前、君と会ったことがあるかな?」
「先週に会ったわよ、おじさん」
と少女が言う。
「先週、私がここに来たとき、案内してくれたわ。私がこのドームに初めて来たと言ったら、あなたからここの成り立ちについていろいろと教えてくれて。覚えていない?」
「これは失礼した」
山辺が苦笑すると、周りの老人たちも笑った。自らの身に覚えがあるがために、自嘲する意味での笑いだろう。
「すまないね、物忘れが激しくて」
「月慈よ、おじさん」
少女はまったく気にしないという風に言った。
「今度は忘れないでね」
「ああ、そうするよ」
月慈なる少女を見て、山辺は笑いかけた。
「君は一人で来ているのかい」
地平線近くで橙の光が没してゆくのを眺め、山辺はそう語りかけた。
今、二人はベンチに腰掛け、湖を眺めている。苦労しながら山辺は、補助脚をベンチの形に折り曲げ、腰を落ち着けると、月慈は山辺の隣に座り山辺を見上げてくる。
「それも前に言ったわ、おじさん。私、施設の人と一緒に来ているって」
「そいつは悪かった。お嬢ちゃんみたいな美人と話せたから、そのときの私は舞い上がってしまって何も覚えていないんだ」
「嘘、まるっきり子供って扱いだったわよ」
月慈は頬をふくらませて、それと分かるようにむくれた。
「本当、年は取りたくないものだ。最近は夕べのこともほとんど分からないよ。お嬢ちゃんに言っても栓のないことだが」
「じゃあここにくることも忘れるんじゃない?」
「家にいる介護アンドロイドがね、この時間になると言うんだよ。庭園に行かないのか、と。それで何となく私も行った方が良い気がして、足を運ぶ。ここに特別なことなどないと思っていたが、そうか。君とは会っていたんだな」
「そう、それが先週のこと」
月慈は何か、幾分大人びたような話し方をする。
「先週も一人でここにきて、湖の周り歩いて、そして私に話しかけたのよ。お嬢ちゃん一人? って。私、知らない人に声かけられたら逃げなきゃだめって言われていたけど、なぜかおじいさんのことはぜんぜん知らない人とは思えなかったの」
「ほう、すると私と君はそれ以前にもどこかで会っているのかい?」
山辺が言うと、月慈は首を振った。
「分からない、というか多分違う。私、おじさんと会ったことはないわ。でもそうじゃない気もして、とにかくそんな気がしたから私、大声も出さなかったし逃げなかった」
もしこの少女と、もっと以前に会っていたのだとすれば――自分の人生も変わっていたのかもしれない。どう変わっていたのかなど、分かるはずもないが。しかし人生のある局面で、誰かとこうして出会って、話をして、互いに心を通わせるだけで。ずいぶんと違った道を歩むことも、出来たのだろう。
けれども――いや、いいのだ。歩んだ道がどうであった、などと些末なことだ。そうでなかった過去よりも、そうである今の方が、よっぽど重要ではないか。
陽が沈み、西の空が徐々に闇に沈んでゆくのを、認めた。
天蓋が、閉じてゆく。それを合図に皆が引き上げてゆく。一人のアンドロイドが月慈を呼ぶのに、月慈は立ち上がった。
「もう行かなくちゃ。おじさん、また来るの?」
「ああ、可能な限りね。もう少し、足腰に融通が利くうちは」
「じゃあまだ大丈夫ね」
月慈が笑いかけるのに、山辺もまた笑いかけた。
「じゃあね」
「ああ」
と山辺は言う。
「また日没に」
時間というものはどこから生まれるのか。
それは山辺がまだ、自らがドームの内側にあることを意識しなかった頃のことだ。その命題を掲げた教師が、ある興味深いことを生徒たちに語りかけた。
「遠い先祖たちは、日の入りと日没で一日の周期を知り、星の位置で一年の周期を知った。これが暦の始まりだが、もし我々が自転もしない、公転もしない、ただの岩の固まりの上にいて、常に太陽が真上にあるような星。そんな世界にいたら、おそらくは時間の概念とは生まれなかっただろう」
その変化を、人は時間と呼んだ。
「時間というものが存在し、それを知覚しているよりも、移りゆく周期性のあるものを、ただ時間と呼ぶにすぎない。振り子のリズムが変化を知らせ、時計の存在が時間を作り出す。それがなければ、時間というものは各によって感じ方が違うものなのだ。各が体内に備えている振り子が、各の時間を作り出すが、振り子の振れ方で周期も変わる」
大半の子供たちは理解もできず、退屈そうにしていたが、山辺はその話を興味深いと思った。
「ただ、運動そのものは、細かい因果関係の下に成り立っているかといえば、実際はそうではない。因があり、果があるのであるが、その因の中にもまた同じく因、力の発生がある。そしてそれらは、本来知覚できないものだ。我々が変化している事象を捉えるとき、その変化の全体は見ることが出来るが、その変化の過程をどうなっているのか説明することは出来ない。例えるなら、雨音は聴くことは出来ても、その変化を切り出してこれが雨音だと提示することが出来ない。しかし、雨音という認識は出来る」
今思えば、その教師のその話は、子供にするようなことでもなかったと思われる。何せ山辺がアカデミーに入学する以前のことだ。理解など、出来ないはずだ。
「運動は、それを遠くから眺めることは出来ても、その瞬間瞬間に働く力を確認したものは誰もいない。しかし、人々はそこに単純な因果律を見いだす。AからBに単純に動き、AがあったからBに行く法則が働いていると思う。だが、A地点からどう変化するなど、実はその時点ではなにも決まっていないことだ。時間も同じく、過去があって未来があるとしても、現在時点は過去のどの出来事にも関わりなく、現在はどの未来に進むかも分からない。否、時間というものはない。今、現在、ここ、そういう認識があり、ただ記憶の蓄積を元にして時間の流れを感じているにすぎない」
その問いかけより二〇年後に、山辺は彼が示した道に足を踏み入れた。生命を物理学で解明しようと、ノースエリアの政府大学で学び、それを選ぶとともに音楽の道は捨てた。
だが今、かつて捨てたはずの音楽を、山辺は手にしていた。
古びたバイオリン、ほこりをかぶり弦もところどころ切れてしまっている。修復しなければ、まともに弾くことは出来ないだろう。
アカデミーへの進学は、母の意向だった。母は山辺に音楽の道を歩ませたかったのだろう。その母も今は亡く、山辺自身もそちらの道に行くことはなかった。所詮は趣味と割り切ってしばらくは演奏していたが、ついに全く手に触れなくなっていた。最後にこれを演奏したのはいつ以来だろうか。
とりあえず本体を拭って弦を張り替える。ナイロンの糸でも、今は貴重なものなので、失敗しないように丁寧に。
次に弓を取り出し、音を合わせる。調律の手順に従って、何度も音を出してみるが、なかなかうまいところで音が合わない。何度も何度もやり直し、ようやくそれなりの音を出すことに成功する。
そうして久々に弦を弾いてみた。張り替えたばかりの弦が、甲高い音で鳴った。
譜面と睨みあいながら、一小節分弾いてみた。改めて聴いてみると、月慈のそれよりも大分音が高い。弦楽器と言えば、普通はこちらの方、バイオリンを指すのが一般的なのだが――耳がビオラの方に慣れてしまっているのか、少しだけ違和感があった。
昔の勘を取り戻すべく、もう少しだけ弾いてみる。完璧とは言えないまでも、調律はそれなりにはうまくいったようで音には問題はない。最初は探り探りだったが、徐々に勘を取り戻して行く。
弦がこすれる度に音が響く。音が響くということは弦の振幅によるものである。
その振動が、空気中に拡散し、大気に散らばる分子に振動が伝わり、それが音となる。音は、耳に届けば、それを美しいか、あるいは醜いと形容するかである。しかし、振動はそれそのものでしかない。それを音と判断し、音の連なりに意味を見いだすのは、それを受け取る意識体の判断でしかない。
楽曲を構成する部分のものは、微くみれば意味を成さないものである。だが、そうしたものを一つ一つ積み上げ、秩序化し、一つの意味あるものを生み出す。エントロピーが、無秩序に拡散してゆく現象とは逆を辿る。
音そのものには、意味はない。しかしそれらを秩序立てることで意味が生まれる。誰も、そのわずかな音に耳を澄ませることはなく、すでに秩序立てられたものにのみ注目する。
それに疑問など感じたことはない。それはそういうものであった。だが、もし楽曲の途中で、どこか脇道に逸れたら――あるいは曲自体も、違う道筋を辿ることもある。何か一つのものを作り出すという事は、その他数多の可能性を排除するということでもある。
その可能性たちを感じつつも、辿る道は一つだった。決まったとおりに、決まった道筋で、メロディーラインをなぞる。結局山辺は、用意した楽曲を、音を外すことなく演奏した。どこか一箇所でも踏み外せばそれは未知な世界へと踏み出すこととなる。それを意図的に行う意味もない。
やはり、月慈の言うことは理解できない。音が生み出される、ということは、自然発生のように生まれるということなのだろうか。しかし実際は、一つの楽曲を生み出すのには労力を費やし、譜面を書き、何度もチェックして作り上げるものだ。そんな即興で、あれほどの演奏が出来るものなのか。
しかし、月慈はそれをしている。ならば山辺にも出来ることなのか。
そんなことを思いながら弾いていると、だんだんと腕が思うように動かなくなってくる。久々に弦楽器を抱えていたためか、腕が張るような感じがした。一息入れようとバイオリンを傍らに置くと、ドアをノックする音がした。
ドアをあけると、すぐにリオが部屋に入ってきた。
「何だよいきなり――」
抗議しようと思って、口を閉ざした。リオはいつになく、真剣な表情をしている。普段から無表情ではあるが、今はそれとも違う。深刻さを帯びた顔。
「報せが入りました」
リオは堅い口調でそう告げた。山辺はバイオリンを脇に押しやり聞く。
「報せって何のことだ」
「委員会から配属されたアンドロイドは、常に情報を共有し合っているのです。それはドームの内外を問わず、連携を取っていて、それは普段からそうなのです」
「それが何だっていうんだ」
「ニュース映像をごらんになった方が早いかと」
リオが空中にスクリーンを固着させた。切り取られた分子膜が薄緑に光り、そこから映像を現出させる。
ドームの中央だった。ビルの映像が写り、そこに見慣れた名前があった。続いて、見知った顔も。
それはマックスの死を告げるものだった。
「何だこれ……」
マックスが見せた人懐っこい笑みと、目の前の映像とではまるで結びつきようのない乖離を覚えた。