春雪
「ねえ、見て頂戴?」
小雪はそう言って手を差し出した。
僕は素知らぬ顔でそれを無視した。
小雪はいつの間にか現れた女だ。
紅葉が終わった頃にふらりと現れた。僕以外には見えない不思議な女。そのせいで他の人には宙と話しているように見えるらしい。何度か医者を呼ばれてしまったこともあった。
彼女は何かというと僕に構ってくる。朝昼夜。本を読んでいようが、師匠と剣術を学んでいようが常にいる。実のところ本当にいつも纏わり付きっぱなしだから随分面倒になっているのだ。
「ねえってば」
小雪が僕を揺らす。
筆が蛇行する。書いていた文字がミミズののようにうねった。
ああ、書き直しだ。
このままではまともに文字が書けない。僕は周りを見回した。人の姿が見当たらないのを充分確認する。
いない。
僕は、仕方がなしに縁側に出る。そして手を人身御供に出した。
衣の白に負けないほど真白い小雪の手がするりと伸びる。寒椿の袖が折れ曲がった。まるで花が落ちたかのようだ。
雪だ。真白い雪。
もう春がそこまで迫っているというのに、汚れ一つ無い。ふわふわと降りたてのようだ。
「何故?」
そこで手に入れたのか。
何故渡すのか?
どうして雪を溶かさず持っていたのか。
「大事にしてね」
意味を問うたはずなのに、小雪は要領を得ない返答を返した。
そして少し席を外したかと思えば再び雪を手にして戻ってくる。もちろんそれは僕の手のひらに。小雪はあっという間に小高い山をひとつ作ってみせた。
一通りやりたい事が終わったのだろうか。小雪はとても満足気な顔だ。
逆に僕の方は途方に暮れていた。
「大事にすると言っても……」
雪は僕の上で体温を奪う。代わりにその体積を減らしていく。どんどんと白から透明に。山は麓から順に消え去って行く。
投げ捨てる事もできずにただ彫像のように佇んでいた。
しかしどんなに思いを込めようと雪を雪でとどめておけない。大事にしようとしても無理なのだ。
手のひらから水が次々と滴る。手にはほとんど何も残らなかった。
「あーあ、溶けてしまったわねえ」
落ちた水はべちゃべちゃと地面をゆるます。
小雪は嗤った。