毒入りワインの謎
都内某所。今ここで、連続ドラマの撮影が行われている。標準以上の視聴率を誇っているこのドラマの主演を務めているのは、人気俳優――の筈である――天川圭。そのマネージャーであり、実の弟でもある俺――天川東吾は、スタッフ達から離れた所で彼等を傍観していた。
マネージャーである以上、兄貴の演技を見ておかないといけないのだろうが……。
フッと意識が途切れかけて、慌てて頭を振る。ああ、眠い……。必死に意識を保とうとするが、不思議なほどにまぶたが下がっていく――。
「カーット!」
監督の大声に、改めて目が覚める。ヤバイ。立って寝てたよ、俺。
スタッフの面々が四方八方に散らばる。どうやら、このシーンで今日の撮影は終わりらしい。
では、早く帰るとしますか。
兄貴を見遣ると、共演者の女優に話し掛けられていた。兄貴は涼しげな微笑を浮かべているが、あれは愛想笑いだ。基本、兄貴は外出時に演技をしている。まあ、いろいろと事情があるのだ。……しかし、何話してるんだか。女優が食い気味に喋っているから……多分逆ナンでもされているのだろう。「もし良かったら、この後食事でもどうですかぁ?」なんて、猫撫で声で。ふん、女は怖いねえ。
肩をすくめたところで、音楽が聴こえた。これは確か、兄貴の携帯の着メロだ。
提げていた鞄に手を入れる。えーっと、確かここら辺に……あ、あったあった。
取り出したところで、兄貴がこちらに駆けてくるのが見えた。
「東吾、携帯」と、電源を切らなかった事を全く反省せず、右手を出してきた。無言で渡すと、「ありがとう」と礼を言って、電話に出る。何か悪い事をした気がした。
さて、電話の相手は誰なのだろうか。悲しい事に、兄貴に友人はあまりいない(その性格ゆえ、と指摘してしまうと、過度の自己嫌悪に陥ってしまうので、本人には伝えていない)。だから、何となく相手は想像がつく。すると、無性にあの通話を切りたくなってきた。悲しい事に、兄貴の数少ない友人達は一癖二癖ある人達ばかりなのだ(類は友を呼ぶ、と指摘してしまうと……以下略)。
しかし、もしかしたら違う人かもしれない、と不躾ながら会話を盗み聞きさせてもらう。
[でさぁ、すぐそっち行くからさ]
……聞き覚えのある声だった。兄貴の友人ではないが、一癖二癖ある奴。
「いや、急に来られるとか言われても困るんだよ。私は忙しいんだ」
言い切って、落胆した表情をする兄貴。どうやら、電話を切られたようだ。
「晴輝兄さんか?」
見当をつけた奴の名を尋ねると、兄貴は小さく頷いた。
「それで、何て言ってた?」
「今すぐ、家に来るって。……あ、断ろうとしたからね」
「それは知ってる。――で、何しに来るんだ?」
「それは……」
兄貴は言葉を濁す。嫌な予感がした。
「大事な用がある、って」
自分の顔から血の気が引いたのが分かった。
結局、帰る他ないという結論に至って、現在俺の愛車で帰宅中。車内に会話はない。隣では兄貴が珍しく眉間に皺を寄せている。それほど、晴輝兄さんの用は面倒なんだ。
晴輝兄さん――久藤晴輝は、兄貴と同い年の二十七歳で、俺達の従兄に当たる。女癖が悪い為、独身。多分、一生結婚出来ないんじゃないかと思う。ちなみに、今俺が寝不足なのは、昨夜奴に誘われた合コンのせいだ。拉致と変わらぬ強引さで連れてこられ、酌に付き合わされ、騒がしい女の相手をさせられ、ふと気が付けば日付が変わっていた。そういえば、昨夜の奴の誘い文句は「大事な用がある」だったな。どうせ、女に気を取られて忘れてたんだろう。
「ねえ、東吾」
唐突に兄貴が気怠そうに口を開いた。
「晴輝、また面倒事を持ってくるつもりかな?」
「だろうな。まず、面倒じゃない事を持ち込まれた試しがない」
「……晴輝の前でそんな事言うなよ」
「兄貴は甘過ぎるんだよ。というか、俺はそんな非常識な事はしない」
誰かさんと違って。
危うく出かかった言葉を飲み込む。それに兄貴は気付く筈もない。
それからしばらくして、マンションに着いた。駐車場に車を停め、エレベーターで部屋のある最上階へ向かうのだが、嫌になるほどスムーズに行動出来てしまう。今のところ、何のトラブルも起きていない。そしてエレベーターは一度も止まる事なく、最上階へ着いた。ウィーンと開く出口を俺も兄貴も緩慢とした歩みで通る。見れば、目的の部屋の前に男が立っている。細身を革のレザージャケットで包んでいる。昨日と同じだ。
兄貴を見ると、兄貴は俺を見ていた。「どうする? 話し掛ける?」不安げな目が言っている。……あのなあ、ゲームのコマンドじゃないんだから。それに、だ。俺等がわざわざアクションを起こさなくても――。
……視線を感じた。じっとりとした視線。嫌々俺達はそちらを見る。そこには、晴輝兄さんがいた。腕組みをし、神経質そうに足を鳴らしている(余談だが、晴輝兄さんは神経質とは程遠い性格をしている)。
「遅かったなぁ、お前等」
笑顔と共に言っているが、額に浮かぶ青筋は隠しきれていない。
「……撮影が長引いたんだよ」
あながち間違っていない言い訳だ。それに晴輝兄さんは「従兄の連絡をもらってすぐに駆けつけられないほど忙しいのは喜ばしい事だな、人気俳優」と、皮肉を返してきた。俺等は揃って肩をすくめる。
「……あのさぁ、何でお前等兄弟はそんなに動きがシンクロする訳? 双子じゃなかっただろ?」
苛立っているからか、いつもは気にしない細かい所を突いてきた。
「年子だからじゃないか?」
そんなやり取りが煩わしくて、ついぶっきらぼうな口調になってしまう。それが癇に障ったのか、従兄は他にもうだうだと文句を垂れる。しかも、細々とした所を。
……あー、うるさい、うるさい。そんな事どうでもいいだろうが。そんな昔の事まで持ち出すかよ、普通。
己の手首を掴んで疼きを抑える。
言っては駄目だ。折れては駄目だ。自分から砂地獄に飛び込むようなものだぞ。何で好き好んで、厄介事に首を突っ込まなきゃならないんだ。少しの辛抱だ。少しの……。
しかし、しばらくして、兄貴が折れた。
「……分かった、分かった。ここじゃなんだから、中で話そうか」
……家の主が言うのなら仕方がない。仕方ないんだ。
俺と晴輝兄さんはリビングで待っていた。兄貴が柄にもなくコーヒーを出すというので(兄貴は家事全般を一切こなせない)、言葉に甘えて俺も待つ事にしたのだった。
会話がなく、気まずい雰囲気の中、兄貴が良い薫りと共に戻ってきた。
「お待たせ」
まず晴輝兄さんの前にコーヒーを置き、次に俺、そして最後に自分の分を置き、長ソファーの俺の隣に腰掛けた。
「それで? 結局何の用?」
役者のくせに天然の兄貴は単刀直入に訊いた。面倒だなぁ、と言いたげな雰囲気を隠せていない。というか、隠そうとしていない。
晴輝兄さんはそれに気も止めず(こっちは大雑把なだけだ)、返事の前にカップを口につけかけて、テーブルに戻した(猫舌なのだ)。そして、今の事はなかったかのように、気取った様子で十本の指をそれぞれ絡み合わせ、訊いた。
「圭さ、探偵の弟子になったんだろ?」
探偵とは……まあ、簡潔に言えば兄貴の数少ない一癖二癖ある友人達の一人だ。それ以外の紹介は面倒だから省略。
「否、名探偵の助手だ」
兄貴はどうでもいい事を訂正する。何とも言えない迫力がある。……こんな所で本領発揮するなよ。
「はい、はい。分かりました、以後気を付けます。――で、本題に移るとだな」
晴輝兄さんは鞄からA4サイズのプリントを取り出し、兄貴に渡した。
「まずはそれを読んでくれ」
促され、兄貴はプリントに目を落とす。俺は横から覗きこんだ。
『一人の男が殺された。死因は青酸カリによる中毒死。夕食にワインを飲んで数分後に死亡した。ワインボトルからは青酸カリは検出されなかったが、男のワイングラスからは少量の青酸カリが検出された。さて、男はどのようにして青酸カリを飲ませられたのか。それだけを答えれば良い。』
「…………」「…………」
俺等兄弟は、同時に従兄に訊いた。
「で?」
「……と、言うと?」
「晴輝は私に何をして欲しいんだ?」
「そりゃあ決まってるだろ。これを解いて欲しいんだ」
訊きたくはなかったが、一応訊いてみた。
「何で?」
すると従兄は俺を見た。
「東吾さ、真希ちゃんって憶えてる? 昨日会った」
マキ? ……ああ、俺の向かいに座っていた、あの大人しそうな大学生の女の子。晴輝兄さんに話し掛けられて、困惑していたあの子か。
「昨日……否、今日か。俺、真希ちゃんを食事に誘ったんだ」
……真希さんに合掌。
「けどさ、『軽い人は嫌です』って断られてさ」
そりゃそうだ。
「しかし! 俺は諦めずに誘った!」
諦めろよ。
「そしたら、『これが解けたら行ってもいいです』って、これを渡してきたんだ」
顔を綻ばす晴輝兄さん。俺等の顔は引きつっている。
「……つまり、あれかな?」
おそるおそるというように、兄貴は口を開く。
「いつもの如く、細かい事は全部従弟二人に任せて、いいとこだけ持ってく、って事?」
「人聞き悪いな」
従兄は口を尖らせるが、間違ってはいない。というか、事実だ。それに、まだ兄貴のは甘い。俺だったらもっと辛い事を言えるからな。
「……まあ、いいよ」
え?
俺は耳を疑った。
「兄貴、何言ってんだ?」
「そのままの意味だよ、東吾。今回のは、結構簡単だし」
更に耳を疑う。というか、この空間さえも疑う。――次の台詞に、俺は今までの兄貴の姿を疑った。
「つまりね、答えは分かったんだよ」
俺が何度も疑ったのには訳がある。
前に晴輝兄さんは面倒事ばかりを持ってくると記したが、それを解決したのは、俺だけなのだ。兄貴は『台詞を覚えなくてはならない』という恰好な言い訳をして、全てを俺に押し付けてきた。
だからこそ、俺は疑ったのだ。
「本当に、か?」
晴輝兄さんも疑っているようだ。信用ないな、兄貴。
「本当だよ。私は名探偵の助手だからね。――さて、もったいぶらずに言おうか」
瞬間、空気が変わった。何とも言い難い空間に、俺は緊張する。そして何故か、共に、それに勝るほどの興奮を感じた。
兄貴が口を開いた。
「『答えはない』」
……うん? こたえはない?
晴輝兄さんを見ると、呆然としている。
「どういう事だよ、それは」
「じゃあ、順を追って説明しよう」
兄貴は薄く笑う。いつもと雰囲気がまるで違う。役を演じている、という訳でもなさそうだ。敢えて例えるならば、そう、何かに身体を乗っ取られたかのよう。
「まずは毒殺について話そうか。毒殺はミステリでよく用いられる手だけど、犯人を特定するのが難しいんだ。老若男女関係なく犯行を行えるし、アリバイが成立しないからね。とはいえ、今回はフーダニット(犯人当て)ではなくハウダニット(殺害方法当て)だから関係ないか。凶器――でいいよね?――である毒は即効性の物から、遅効性の物がある。従って、即効性である青酸カリだから含んですぐに効果が出た――とは限らない。例えば、青酸カリをカプセルの中に入れれば遅効性の毒が出来上がるからね。――これで手段が二つ。
続いて、混入方法。これはいろいろとある。ワインボトルに混入――まあ、これはないと書いてあるね。他には、あらかじめグラスに塗っておく。被害者の隙を見て混入。……これ以外にもたくさんあるけど、ミステリのネタバレになるからよそうか。――よって、ここで手段は数えられないほどになった。
では、さっき出した多くの手段の中から、この答えを導きたいところだけど――無理だろうね。条件が書かれていないから。毒は青酸カリだった、とか、ワインボトルには青酸カリは入っていなかった、とかは書かれていたけど、それ以上に殺人手段を限定する事は書かれていない。投げやりな言い方をすれば、思いつくだけの方法が答えだ。答えがありすぎて絞れない。この問題は問題として成立していない。
よって、『答えはない』」
しんと場が静まりかえる。俺は黙って、兄貴の説明を咀嚼する。何処かに綻びはないか、不自然なところはないか……。
結局、そんな点は見つからなかった。
「晴輝兄さんは、文句ないのか?」
「ある」
晴輝兄さんは兄貴を睨めつけた。
「こんな簡単な答えで良いのか? もっと捻りのある答えが正解なんじゃないのか? 正直、この程度なら、時間を掛ければ俺にだって辿り着く。これじゃあ、まるで、俺が解けるような問題を出されたみたいじゃねえか」
「そうなんだよ」
兄貴は真っ直ぐ晴輝兄さんを見返した。
「この問題は、晴輝が解けるように作られた」
「……どうして」
それは俺も訊きたい所だ。
「晴輝が本気なのか試す為だよ。晴輝、今言ったよね? 『この程度なら、時間を掛ければ俺にだって辿り着く』って。そう、時間を掛ければ解けるんだ。もし私や東吾がこの問題が解けないと言えば、晴輝は自分で考えただろう。どうしてか。真希さんの事が本気で好きだから」
晴輝兄さんはこくりと頷く。
「真希さんは、それを確かめたかったんだよ。自分を遊び相手ではなく、恋愛対象として見ているかどうかを」
「……だからって、何でこんなまどろっこしい事を」
「晴輝の事が信じれなかったからだよ」
「だからっ! 何でそうなるんだよ!」
「決まってるだろ。晴輝が軽そうだからだよ」
晴輝兄さんは絶句した。そして、力が抜けたようにだらりとソファーにもたれ掛かる。大きく息を吐き、くくっ、と含み笑いをした。
「なぁんだ。結局、全部俺のせいだった訳か。やっぱ、日頃の行いって大切だな」
そして、従兄はおもむろに立ち上がった。
「という事で、問題は解決だ。ありがとな、二人とも。この答えを真希ちゃんに持ってくよ」
「……晴輝兄さん、俺は何もしてない」
チラリと兄貴に視線を送る。
「全部、兄貴のおかげだ」
すると、兄貴がまじまじと俺を見た。
何だ、何だ。俺の顔に何か付いてんのか。
「……東吾が私を褒めるなんて。もしかして、悪いものでも食べたんじゃ……」
「悪かったな!」
何だよ、こいつ。すぐにいつもの兄貴に戻りやがって。やっぱ、さっきのは何かがとり憑いてたんだ。前世紀の探偵かなんかが憑依してたんだ。
「ごめん、ごめん。東吾があまりに珍しい事言うから」
兄貴は苦笑する。……何故だかあまり怒れない。
そして、兄貴は晴輝兄さんに向き直る。演技でない、純粋な微笑で。
「晴輝、また何か、こういう事があったらまた来ていいよ。私に出来る事なら、出来るだけしよう」
「本当かよ。お前、何かにとり憑かれてるんじゃねえか?」
「それはない。正真正銘、本物の私だ」
「ははは、そんなムキになって言うな。ま、そういう事にしておいてやるよ」
かなりの上から目線の台詞を残して、晴輝兄さんは出ていった。
その夜、俺は謎の答えを見つけた。
何の謎かって?
兄貴の事だ。今日の兄貴は異常に冴えていた。といって、俺は『憑依』したなどという非現実的な選択はしない。あくまで選択肢として挙げただけで。
――話を戻そう。
リビングで寛いでいた時、テーブルに本が置いてあるのに気付いた。俺も兄貴も取り分け読書が好きではない。最低限必要なものを読むだけだ。なので、テーブルに本が置いてあるなんて事は滅多にない。
手に取ってみると、よく読みこまれているのが分かった。初版年を見ると二十数年前だった。書き下ろしではないようだから、発表年はもっと前だろう。
それから裏表紙を見て、目を疑う。この本はどうやら推理小説らしい。あらすじによると、作者と同名の推理作家とその友人の助教授が事件を解決する、という話で、短編集。他に分かった事としては、俺には無縁な小説だという事。
パラパラとページを繰っていくと、とあるページに、やけに真新しい栞が挿んであった。そのページを見ると、なんと毒殺についての考察が書かれていた。
兄貴はこれを読んだんだな。
納得し、テーブルに本を戻す。手に取った事がばれないように、出来るだけ元あった状態にして。
今日の兄貴の話はこれの受け売りだったのか。しかも、自分で進んで読んだのでもなさそうだ。
疑問が解けてすっきりとしたが、同時にがっかりともした。
何故だろうねぇ?
一週間後。その時俺は家事に追われていたし、兄貴は一心不乱に台本を憶えようとしていた。一切、天罰が下るような事はしてない。神に誓ってもいい。未来の妻の名にも誓ってもいい。
なのに、突然、台風が乗り込んできた。
「圭! 助けてくれ!」
……察しの通り、晴輝兄さんだ。
晴輝兄さんはずかずかと兄貴に近寄り、早口でまくし立てる。
長ったらしいので簡潔に要約すると、真希さんをデートに誘ったら、今度は暗号を渡され、「これが解けたらね」と言われたらしい。……思うに、真希さんは晴輝兄さんの反応を楽しんでるんだろうな。
「だから、何度も言ってるだろ! 私は、これを今日中に憶えなきゃならないから、無理だって!」
「そこをなんとか!」
「私は『出来るだけ』と言ったんだ! 今は『出来ない』!」
とまあ、三十近い大の大人の会話とは思えないやり取りが聞こえてくる。しかも、恥ずかしい事に大声で。
堪りかねた俺は思わず、
「いい加減にしろ! これ以上うるさくするのなら出てけ!」
怒鳴った。
すると二人はぽかん、と呆けた顔をする。そして互いの顔を見合い、「お前のせいだ」と言うように指差し合う。
……幼稚だ。本当にこいつ等は俺より年上なのか?
俺は深く溜息を吐いた。
〈終〉