星渡る人
「神名シリーズ」の一話読み切り品。
思いつきで増やすので完結という概念無しの為、単品扱い。
次に目指すのは、その先で――
年老いた男は傾ぐ。
細い木の枝のような杖を地面に突き刺し、俯いたまま時を待つ。
往来は過ぎ去るだけ。彼に言葉など一つもかけられはしない。
その代わりに、そんな年老いた男を指して、幼い少女は母に尋ねた。
「あのひとはだれ? どうしてずうっとあそこにすわっているの?」
そんな小さな疑問に、優しく母は教えてくれる。
「あの人は、偉大な魔法使いなのよ」
もう一月。雨の日も、風の日も、欠かすことなく、町の入り口にある宿屋の前に、年老いた男が木箱を椅子に、座り込んでじっとしていた。
「ほんとうに、まほうつかいなの?」
「ああ」
離れた所にいる年老いた男が、母の代わりにつぶやいた。
数日の間、年老いた男はそこに居て、同じように杖を地面に突き刺してじっとしていた。
それを幼い少女は母の手に引かれて何度も見かけた。少女と母は町の外れにある農家へ働きに出ていて、長い城壁に囲まれた町から働きにゆく農家へは宿屋の近くにある門が最も近かった。
働きに出ると言っても幼い少女は労働をしているわけではなく、農家に住むおばあさんの所に預けられている。
幼い少女は学校へ行くにはまだ早く、かといって預けられる場所は町にない。少女の母親が、農家を営む夫婦に相談を持ちかけると、隠居した夫の母に預けることを提案し、年老いて背の曲がった老婆も快諾した。
母親が農家の手伝いをしている間、幼い少女はその老婆に預けられ、皆にとって有意義なつながりを形成する、心地よい場になり始めた頃。
老婆は少女のお転婆に振り回され、一度だけ、その姿を見失った。
老婆が慌てて家屋の中を探し回る間、少女の姿は遠く離れた、都市城壁の門にあった。
それほど遠くに農家があるわけではないが、小さな子供一人で簡単に訪れて良い場所でもない。都市城壁は名の通り町を囲む長大な壁で、その出入り口たるや町の内外を繋ぐ数少ない場所であり、交通の要所である。
往来は途切れることなく、貨物を満載した荷馬車が狭い門を我先にと、門番に食い下がる様に馬身を前へと進める。人の往来をある程度優先し、途切れた瞬間を目がけて門番が指示を出す。荷馬車の列は門の内外を問わず列となっており、行商の間では町に三つある門のうち、どの門の門番が、どの時間の門番が、通行許可をいかに早く出すのか、金勘定の指標にもなる。
荷馬車を引いてきた馬は食べ物にありつけさえすれば至って冷静だが、一刻を争うような荷を乗せた行商者にとってみれば苛立ちを禁じ得ない。
だから時たまに起こるのだ。一瞬、人の往来が途切れたと思えた時、小さな子供がすり抜けるように現れようモノなら、行商の者は厭わず馬の鼻先を進める事が。
「っ!」
この町と懇意にしている行商ならば殆どが同じ事をする。門番は行商者の苛立ちを知っているし、門番として長大な馬車の列を作ることは職務遂行能力に問題有りと落印を押されかねない。
相互に不利益となりかねない事よりも、知らずに起こった「事故」の方がその実、滞りない。門番は領主からの委託により存在し、行商の者は懇意にする商家が町にあり、そのどちらの上部組織も「自分に関連する不祥事」を嫌う。
だからこそ、事故は過失無い事とされるのは茶飯事で、死傷した場合でも当人の過失で処理される。
事故が起こる度に門の拡張改善要求や通行時の歩車分離制度確立の要求が出ているが、全ては金銭的問題から忌避される。
今回も鬱陶しい改善要求する団体が騒ぐ程度の「事故」になるはずだった。
馬が怯え、立ち上がるまでは。
「うわぁっ」
声を上げたのは「見落とした門番」であり、彼は牝馬の前足の下敷きになった。それに、立ち止まった馬の尻に慣性で荷車が当たり、乗っていた行商者が衝撃で揺り落とされる。
荷馬車の動きを知らなかった幼い少女は、自らのすぐ後ろで起った全てを見て驚きのあまり腰を抜かして座り込んでしまった。
荷台の積み荷はほとんどが門中にぶちまけられ、香辛料の臭いと、乾燥した草の臭いが広がっていた。
「子供の姿を見知っていてなお、馬車を通すと言うのはどういう了見か」
「ぃっつつ…… なんだぁ、あんた。あんたがやったのか」
転げ落ちた行商の者は倒れた馬の尻の向こうに、年老いた男が居るのを見つけてそう言った。
「そうだとしたら、どうする」
そう告げた年老いた男の後ろでは、馬の前足に踏まれた門番を介抱する為に駆けつけた別の門番が、倒れた門番には意識がないのか、大きな声で名前を呼んでいた。
「こんな事をして許されると思っているのかっ」
行商の者は転げ落ち方が悪かったのか、左腕を脱臼し、膝立ちのまま年老いた男に怒声を浴びせる。
「ならば気付かぬふりをして、子供をひき殺しても許されると言い張るのか」
「ふざけるな、子供など見ていないっ」
「ならば、言い方を変えようか」
「なんの――」
行商の者は年老いた男の目線を追う。そこにあるのは先ほど荷台からぶちまけた積み荷。ぶちまけられていたのは、香辛料と、草。
「いや、いい。解った、悪かった、この通りだから――」
「貴様が騒動を起こしたのか」
馬に踏まれた門番は意識を取り戻して門に寄りかかっていて、介抱していた同僚らしき男が年老いた男に詰め寄った。
「そうかも知れないが、そうではないやも知れない」
年老いた男はそう言って、持っていた細い杖で散乱した積み荷の一つを指した。
「これは…… 禁輸されているはずでは」
「――っ」
行商が町の中に持ち込もうとしたのは領内では禁輸措置の執られているシロモノであり、年老いた男の覚えていたとおりであれば、どこの町でも一般者が扱うことは許されていなかった。
門番がそんな積み荷をみすみす見逃し、通したという事にでもなっていれば後々大問題であり、門番個人の責任問題では済まない所であった。
門番は過失を咎められると同時に、不手際を見破られ、行商の者もその行為の始終を見咎められた。同業の者からすればこれ以降、積み荷の確認は厳重になり、門を抜けるまで更に時間が掛かるようになる。門番は確認作業と交通整理の為に多大な労力を裂くことになる。双方が痛み分けであり、痛烈な捕り物でもあった。
「あの、部下が大変申し訳のない――」
門番の一人が年老いた男へ頭を下げるが、頭を垂れた先に見えたのは踵を返す足だけだった。
いつもの場所、年老いた男はそこに陣取る。元々は宿屋の店主が暇を持てあます為に据えられた長椅子だったのだが、いつの間にかそれを我が物顔で利用するのは年老いた男になっていた。
年老いた男はこの町に訪れてからずっとその宿屋に逗留していた。理由は解らないが、その日毎の金払いはちゃんと済ませている為、疑いはしても追い出される事もない。
「あの……」
そこに陣取って話しかけられるのは幾度目か。最初は宿屋の店主にこの場所は良いところだと話しかけられた。次に話しかけられたのはおなじく店主で、暇だろう、どうして座っているのかと尋ねられた。男はそれに二、三答えてあとは聞き流すことにした。
座っている理由は人を待つこと。ただそれだけで、それが男の全てだった。
「あの……」
「聞こえている」
二度、子供から声をかけられた。子供に声をかけられる事はここに座ってからも、他の町で座っていても良くある事だった。なにをしているの、と。
「さみしくないの?」
「……」
顔を上げるとそこには先ほど助けた幼い娘がいた。助けられた事を感謝するでもなく、ここに座り込んでいる事を訊き尋ねる事もせず。ただ、そう年老いた男に告げた。
寂しい。そんな言葉を聞いたのはどれくらいぶりだろうか。
いや、そもそも、その男には聞き慣れない言葉だったかも知れない。
「どうして私が寂しいと思った?」
「ずうっとひとりですわっているから」
「お客を待っている」
「おきゃくさん? おじさん、おみせなの?」
棒きれだけを携えた男が店を構えている様には見えないのだろう、辺りを見回したり、男の横に回り込んで何かを探したりしている。
「魔法を売っている。星を渡る魔法を」
「ほしをわたる? おほしさまって、かわなの?」
渡るモノといえばこの少女は川しか見たことがないのだろう。別の星には雲より高い塔をいくつも繋ぐ、長大な渡り廊下の様な都市もある。そんな世界を見て渡る男には、少女の純真無垢な瞳に嘯くことにした。
「そうだな。天に輝く川の船頭をしている」
「おふねももっているの?」
「船は魔法で造る」
「わたしもおふねにのりたい」
「乗せるのは構わないが、二度と親には会えない。お前の親しい人には、二度と会えなくなる」
「えぇ……」
幼い少女がその言葉で更に小さくなってしまう。船を見たことがあっても、近場で下りる程度で、変わりない生活の一部でしかない。船に乗っただけで人と会えなくなる事は理解し難いのは仕方ない。
「それに、金もかなり必要になるからな」
「むぅー」
身綺麗にはしているが、結局それは世間一般のそれと変らず、莫大な資金を持っている家の娘ではないだろう。
男の客はそれ自体が珍しい。ある程度の資金を持ち、二度とこの町に戻らぬ覚悟を持った者だけが客となりうる。そう言った手合いだけを相手に成り立つ仕事であり、実際には利潤を求める様な商売ではない。或る意味で、男はこの仕事に囚われており、逃れようもない。
「おじさんはひとりでおみせをしているの?」
「ああ」
「やっぱり、さみしいよ」
「一人でなければこの仕事は出来ないからな」
年老いた男の客は殆どが同じである。栄華を誇る星に渡りたいと願う一家を運んだり、身分の違いに翻弄され、逃避行を決断した男女を運んだり、戦争の橋となったり。
星を渡る際にも危険が伴う。
算定を違えた暁には星に降る光の筋になり摩擦熱で消滅するだろう。
そんな事を複数人で行ったところで、こういう生業の絶対数を減らす行為にしかならない、故に同業でも群れることはなく、むしろ忌避する程だった。
そしてなにより、最も恐れるべきはこれに尽きる。
「お前達とは同じ時間を生きられない」
星を渡る。その様子を眺めるだけならば光の尾を引いて去ってゆく彼等を見ることが誰にでも出来る。ただし、その様を眺めている者と、光と共に去る者と、体感する時間は文字通り駆けて離れてゆく。
渡る者は眠りの中で数年を体感する。それに対し、残された者、観測する者は光の曳航を眺める月日はその何倍にもなる。男の言う親しい者と二度と会うことが叶わないとは、実際に自身が体験した全てでもある。
小難しい話をしたところで幼い少女では恐らく理解し得ないだろう。
「二度と関わる事のない、寂しい仕事やも知れないな」
「ううん。違うの、違うのよ」
そう言葉を残して、少女は先ほど入ってきた門に向かって走っていった。
数万年を経た旅路の果てに、年老いた男に残されたのは純真に裏打ちされた否定だけだった。
「それではよろしいか」
「ええ」
あの日、少女にあの言葉をかけられてから幾度かあの少女は年老いた男を不思議な目で一瞥し、母と共に過ぎゆく日々が続いた。そして午前中の定時に少女と母が過ぎ去って幾ばくかの雲間を迎えた時だった。
恰幅良く、身なりの良い男が一人、年老いた男の元に訪れた。その身なりの良い男は座る者に向けて、ただこう告げた。
「家族五人、法学の城へ行きたいのだ」
「支払いは現地時価、一月分だ」
身なりの良い男は一瞬考えるようなそぶりを見せたものの、値段の交渉などはしない。むしろそう言うものが客になる。
「時間はどれ程掛かるだろうか」
「正確に算出するには二晩貰いたいが、体感で一月程、観測相違で二十年程か」
「長く眠っているのも堪えるだろうね。まあ、子供達の為には致し方ない」
身なりのいい男が半分おどけた様に笑いながら言うのは、実際には魔法の力で眠る為に辛くはない事を聞き及んでいるからだろう。
「それではよろしいか」
「ええ」
書面で交わさない口約束は、死をも覚悟して渡る者の自負である。
一晩。男の口約束は違う方向で達成された。目的地までの光学測量と重力時間相違の計算式を組み上げる行為は年老いた男が思っていたよりも早く済んだ。あとは計算式を長年男が運用してきた星を渡る魔法に組み込むだけでよい。
だからこそ、一晩、男は時間を持て余すに至った。
渡り立つ直前の夜、男は幾ばくの夜を過ごした宿屋の窓辺に腰掛けていた。
見上げた空には月は無い。月の無い星に人々が棲まうこと自体珍しい。大抵は衛星の重力場に寄せられた水の星に環境を築くのだが、新たな天地を求めた移民開拓の祖は変わり者の集まりか、新たな試みの元に決断したのだろう。
湿地と平原の織物の様なこの星が長い年月をかけて開拓されたのだろうが、男にしてみればこの星の存在を知ったのはこの星を目的地に選んだ客の言葉だった。
緑に覆われた、戦とは縁遠い開拓の星。そう男は戦禍を逃れようとする若い男女の客に聞いていたのだが、体感時間で一年程、この星の経過時間からみれば数百年程かけて辿り着いてみれば、町は外敵から守る為の都市城壁に囲われていて、客の男女は酷い落胆ぶりだった。
男の巡ってきた時間ではままあることだった。戦の為に星を渡りたいと申し出る騎士が居たかと思えば想定していた戦争が終わっていたり、巨万の富が動く金融の星に渡った商人は人一人居ない廃れた星に辿り着いたり。
自分の時間が他人の時間と同じ時間ではない。年老いた男はこの生業に就く前から知っていて、それでもなお、これを業とした。
等しく死ぬならば、明日死ぬ命を一年先に塗り替えても変わりはしない。
短く塗り替える事は論外であるが、逆に死ぬことを前提にしたまま延々と巡る事は、明日死ぬことと大差ない。
そう彼はある者の死に際に教えられ、潰える命があるならば多少の延命は傲慢でないと考えた。それからと言うもの、男は星を渡り、時の波を緩やかに渡る術を必死に会得した。そうして男は国定の星渡る魔法使いとなり、献身することを誓った。
だが、誓いを立てた国は既に滅んだ。呆気なく他国に制圧され潰えたらしい。らしいというのは聞き及んだだけであり、自ら確認することすら放棄した。良くある。小国が大国に飲み込まれる話は、ごまんと聞いたのだから。
年老いた男の眺める夜空は、初めて見る星空だった。
星を渡る。行為自体は特に不自由ない。ただ移動の術式が切れると同時に眠る客を起こせばいい。男自身は安定して向かうようになれば殆どを客と同じように眠り、定期的に起きて、ずれているなら微修正する。到着間際の数日は操舵を続け、確実に目的地へ運ぶ。
今回も年老いた男は全く問題なく事を終えた。
優秀な学徒を多数輩出する教育に熱心な星。実際、男は良くこの星の出の魔法使いと情報交換する事がある。彼等は非常に優秀で、新しい魔法や術式の草案を各自持っている。
万年もの時を越えてなお魔法や術式は進化し続けている。誰も彼も、慢心する事はあっても精進することは一向に止めないものだ。
客の家族はまさにそれだった。父親の身なりが良く、妻もそれに相応しい人物だった。子供達はやんちゃの盛りであり、その評価を勝手な判断で下すことは出来ないが知的好奇心を持ち、欲求の権化であり続ける限り、向上は止まないだろう。
辿り着いたこの星で男はまた、客を待つことにした。
小さな安い宿屋で、一月の間客を待つ。大抵一月で客が見つかる為、それ以上は求めない。実際、どこの世にも逃げ出したいと、新天地を目指したいと思うものは少なからずいるものだ。
星に辿り着いてはじめにやることは、人通りの多い繁華な通りで安い宿を探す事。
星を渡る。滞りない。前もって行った軌道計算も、途中の軌道修正も。
何処に行こうとも変らないのは目的がある事。目標がある事。
ただ、次に渡る先は男の最も意外に思う場所だった。偉大な魔法使い、老爺の故郷。
星を渡った理由は単純に行商の申し出だった。あの星には珍しい鉱石が出る、それを大量に仕入れて他所で売る。ありきたりな理由であり、真っ当な商魂を貫く商人としてはここで一山当てるつもりだろう。
それを受けない理由はない。別段、国定の魔法使いとして既に滅んだ国に仕えている身ではないし、生きているのか定かではないだろう魔法使いのために、故国を飲み込んだ大国が男を探すとも思えなかった。実際、国定の魔法使い達は単なる放浪者として扱われていたと、同郷の同業者が教えてくれた事もあった。それでも帰ろうとは思わず、男には帰る理由がなかった。忌避している訳でもなく、単に帰る意味を見いだせなかった。
誰も彼も自分の事を知らないし、自分が住んでいた若き日の星の姿はそこに有りはしないだろう。懐古する事も回帰する事も許されない、そんな輩が星に帰ってきた。
全く見た事のない、別の星。それが男の第一の印象だった。客に自分の故郷だとは伝えずに来て、そして同じように一月分の宿代を持たせた。
ただ今までのようにただ座って客を待つ事を止め、男は何かに突き動かされるように町や道を歩き回った。
山々の稜線は記憶にない。万単位の年月を経れば斜面は崩落するだろうし、山火事で山林は原野に帰るやもしれない。そして支えを失った山肌は崩れる。万年を経たならば地形おろか動物の形状も変るだろう。人の身よりも大きかった鹿は二回りも小さくなり、それを追う狼は群れを成さず単身で生きるようになっていた。
生きるモノ全てが経済を為す。身の振り方を間違えれば貯えを失い、最も上手く立ち回った者が誰よりも財を成す。それは人も獣も変らない。上手く世界に順応できた者が広く分布し、不適合であれば淘汰されて行く。
老いた男はそんな知らない故郷の星に振り回された。町の名前を尋ねれば既に無いものが多く、同じ位置に町が有ったとしてもそこに面影はない。
一人、この星から追放された男。
この星で最も哀れな立ち振る舞いをしたに違いない。帰るまでの思いに蓋をして、帰ればとたんに郷愁に駆られて山野を望む高台を探す。記憶の中の稜線は無く、記憶の中の人も居ない。ただ男は自らの皺の寄った手を見つめ、こぼれた時の大きさを量ろうとした。
無くしたのは時間でも、記憶でもない。
「星を渡る人ではないですか?」
「……あ、ええ」
小さな丘の上、そこに設けられていたのは小さな農村を一望する展望公園。男はその公園から知りもしない、見慣れない村を眺め無為な郷愁を実感していた。
そこに訪れたのは丘を登って来た老婆で、小さな花束を抱えていた。展望公園の片隅に石碑がある。山火事で沢山の村民が死んだ事を弔う石碑。老婆は欠かさず毎日、この焼け野原の後に出来た公園に花を手向けているらしい。
「どこかにあてが?」
「いいえ、町の宿に」
「そうですか。しかし陰りが早いので今日は村の宿に泊まられては」
「……ああ、それもそうだ」
日照時間の短い季節。その時期に男は帰ってきていた。まだ、男にも覚えていた事がある。そしてそれは変ることなく、星の営みの中に常識として存在していた。
自分よりも老いて見える老婆と共に、男はその小さな丘を下りる事にした。老婆は老いてなお足腰は健在のようで、男が慣れない山歩きに疲労している中、老婆は易々と先を行った。
男は自分の年齢を知らない。正確には途中で数えられなくなった。指標にするべきモノを逸失してしまった事が大きく、自分の年齢を思うには皺の寄った手や鏡に映る自分の顔を見るくらいしかない。そして今日、久方ぶりに新しい老いの指標を見つけた。
「こちらに」
声は聞こえたものの、遠い。それは既に男が老婆から離されていた証拠でもあり、実感すべき全てだった。
呼ばれた方へ向かうとあばら屋に案内された。どうもこの村の集会場のような場所で、日没の早いこの季節の星にあって来訪者の借宿ともなる。小さな村に行けば大概似たような大きな施設があるものの、この村では来訪者の為に建前で豪奢な宿を作る余裕もないのだろう。
「まだ星を渡るのですか」
「……ええ」
「そうですか……」
立て付けの悪い扉を開けて中を覗くとそんな事を言われた。星を渡る人かと初めに問われ、何故か今になってまだ渡るのかと聞かれた。他愛もない話かとも勘ぐったが、どうにも老婆の歯切れが悪い。
「なぜ訊くのです」
「その…… 新しい星渡りの術が見つかったのです」
「ほう。どの様な」
「時間に取り残される事のない、同じ時を生きる魔法が」
聞けば男の用いる魔法よりも、もっと有用な法が見つかったという。戦争に赴こうという騎士が二十年先の戦争が終わった星に降り立っても意味がない。男が星を渡る魔法を会得した時分から延々と議に尽くされてきた同業者達の最大の難点である。移動に際して渡る者の時間と星に棲まう者の時間が駆け離れるという事実は、星を渡る魔法使い達が越えねばならない至上命題でもあった。
万年解かれる事の無かった星を渡る魔法の難題が解かれたという。しかし男は同時にその荷の意味を知っていた。自分自身が万年を越えて立ち会ってしまったからでもある。
ただ男はそれを聞いて良い事だと思った。星を渡るにあたって最大の難点が克服されたとすれば、もっと利用する者が増え、星々は最盛に向かうだろう。その中で男も新しい術式を会得すればこれまで通りと何ら変らない。
「良き事かと思いますが」
「それでよろしいのですか」
「よろしいというのは?」
どことなく躊躇うそぶりの老婆に、男は次の言葉を言うように暗に求めた。
「あなた様のお時間はそれでよろしいのですか」
「時間? よろしいもなにもないが」
「あなた様は置き去りにしてきたとお思いかも知れませんが、置き去りにされたのはあなた様では――」
「言いようとしては面白いが、そうでは――」
「何を覚えておいでですか」
真っ直ぐに。年老いてあらゆるしがらみを棄てた無垢な瞳が、男に向かう。
覚えている。渡ってきた星々の風景を、その星で食べた産物も、渡してきた人々の顔も、そして今ここにいる老婆も忘れないだろう。
「年老いて忘れた事も多少有るかもしれんが、渡り歩いた場所や人の顔なら覚えている」
「あなた様自身の事は」
「だから、仕事や訪れた星の――」
「いいえ、違うのです。それはあなた様の事では有りません。違うのですよ」
「具体的にお教え願いたい」
「お時間は、あなた様の生きたお時間はどこにありますか」
男には答えられなかった。万年生きた事はおおよそ理解できる。しかし、それを証明できるモノは既に無い。人も物も朽ち、山々の稜線までも消え去った。町の名前など所詮、共通の言語で、共通の認識の中から決めたものであり、それが形式化して付けられただけであって男の生きてきた時間を証明できはしない。
この星の事で男が覚えていたのは故郷の星で最も昼が短いのはこの季節だと言う事。恒星の周りを変った公転周期で廻る為に訪れる、長い夜の季節。あばら屋から眺めるのは何処へ行こうとも代わり映えしない田園と山の稜線、そして空に見える星。
そこで男は一つだけ見つけた。いくつか輝きの弱くなった星や消えた星があるものの、この星の大地から見える夜空の並びが殆ど変わりない事を。初めてこの星から別の星へ渡った時から、男が万の年を経て変った事を実感できる、唯一のモノを。
欠けた星を数え、生まれた星を数える。
男は年甲斐もなく、初めて見る故郷の空でよく知った月と共に、星を数えて愉しんだ。