裏メニュー
「ご主人、あの……『オムライスのタマゴ抜き』、お願いできますか」
住宅街の片隅にある喫茶店。
昼時を過ぎて客がまばらになった店内のカウンターで、一人の女性客が恐る恐るといった様子でカウンター奥の店主に声をかける。
「……別料金をいただきますけど、よろしいですか」
女は緊張した表情でゴクリ、と生唾を飲み込んでから頷く。
「わかりました。ちょっとお待ちください、お作りしますんで」
口ひげを蓄えたダンディな店主は、客に背を向けて何か作業を始めた。
この喫茶店について、SNS上ではとある噂が囁かれていた。
『あの店には、裏メニューがある。キーワードは謎だが、あの店の裏メニューはものすごいモノがでてくるらしい』
『ヤバい。あの店はヤバい。あのマスターは確実にヤってる』
『裏メニューを引き当てたら、とんでもないモノを手に入れられる。でも人生が変わる。後戻りしたくても出来ないカラダになる』
と、非常に物騒な内容がまことしやかに囁かれている。
カウンター席に腰掛けた女も、この噂を聞きつけてやってきた客だった。
裏メニューは一体何なのか、それは誰も知らないとのことだった。本当にあるのかどうかについても、SNSの投稿内容では分からなかった。
ただ、投稿されたポストのひとつに、気になるものがあった。
『あの店の裏メニューを引き当てた。あれはヤバい。やめておいたほうが良い。この世に、知らないままで死んだほうが幸せな物があるとすれば、あの店の裏メニューがそれだ』
それだけを呟いて、そのアカウントは過去の投稿をすべて消してしまったという。
フォロワーが1万人を超える、インフルエンサーと呼べるアカウントであったにも関わらず、である。
「お待たせしました」
店主が静かに、低い声でささやきながら、皿を差し出してくる。
「……こ、これ……これは……」
「ご注文の、オムライスのタマゴ抜きです」
皿に盛られていたのは、鮮やかな色のケチャップ味の、タマゴ抜きオムライス。
一般的に言う、俗名チキンライスである。
「あ……ありがとうございます……」
納得行かないような表情で、オムライスのタマゴ抜き、世間一般で言うチキンライスを食べる女の隣に、男が腰掛けてきた。
「お姉さん、裏メニューをお探しみたいですね?」
初対面にも関わらず、実に馴れ馴れしい言葉で話しかけた男は、中年のサラリーマンと思しき風体のスーツの男だった。
「いやぁ、失礼しました。私はこの店に通って結構長いんですがね、最近多いんですよ。マスターに『カスタマイズ』を頼む方が」
「……あ、あなたには関係ないじゃないですか。私はチキンライスが食べたかったんです」
「そうですか。まぁそれなら良いんですがね」
中年の男の眼の前に、静かに冷水が入ったコップが差し出される。
「いらっしゃい」
「あぁマスターこんちは。いつもので」
「はい、いつものね」
水を一口飲み込んで『ふぅ』とため息にも似た息を吐くと、中年の男はスマホを取り出し、液晶画面を女に向けた。
「お姉さん、これでしょ」
写し出されていたのは、SNSのハッシュタグを使った検索結果の画面。
『例のあの店の裏メニュー』
という、いかにもなハッシュタグだった。
「ちょくちょくね、見かけるんですよ。合言葉も知らないのにマスターに色々カスタマイズを頼むお客さん」
「……あの、あなたはご存知なんですか? その、合言葉」
「えぇもちろん。ここのマスターとは長い付き合いですから。ねぇマスター?」
カウンター奥で背中を向けたままのマスターは、ひょいと片手をあげて答えた。それが肯定の返事なのか否定の返事なのかは、女には読み取れない。
「お姉さん、悪いことは言わない。やめておいたほうが良い。この世には『知らないまま死んだほうが幸せなこと』ってね、あるんですよ」
「そ、その言葉――」
女はSNSの書き込みを思い出した。
知らないまま死んだ方が幸せなこと、と言う言葉は、確かにSNSで目にしたものだ。
「あの、あなたはひょっとしたら、SNSに――」
「はいいつもの。おまたせ」
まるで会話を遮るように、カウンターの奥から腕が伸びてくる。
かちゃ、という音を立てて、中年の男の前に皿にのったコーヒーカップが差し出された。
「あぁありがとうマスター。やっぱりマスターのこれがないとね」
ずず、と音を立てて中年の男はコーヒーをすする。
嗚呼、とまるで法悦の吐息のような声を漏らし、男は天井へと顔を向けた。
まるで極上の甘露か、そうでなければ違法薬物でも口にしたかのような、恍惚とした表情。どう見ても、ただのコーヒーを飲んだ男の顔じゃない。
女は確信する。これだ。
きっと合言葉は『いつもの』だ。
「あ、あの! すみません! 私もこの方のと同じものを!」
「……追加注文、ですね?」
「はい。お、お願いできますか?」
マスターは表情ひとつ変えず、じっと女の目を覗き込むと、『少々お待ちを』と呟いて、再び背を向ける。
女は手元のチキンライスが冷めていくのも構わず、じっとマスターの動きを目で追った。
豆を挽いて、ドリッパーに入れてお湯を注ぐ。
一見したところ、本当に普通のコーヒーの淹れ方だ。
「お待ちどうさま、本日のブレンドです」
「え?」
差し出されたのは、何の変哲もないただのドリップコーヒー。
それも、この喫茶店のメニューの中で最も安い、『本日のブレンド』である。
「あ、あの、私その、この人と同じものをって――」
「はい。ですので、本日のブレンドです」
呆気にとられた顔の女に、にた、といやらしい笑みを浮かべた中年サラリーマンは囁くような声をかけてきた。
「試してみてくださいよ、お姉さん。トぶよ?」
騙された――そう考えながら、落胆とともにコーヒーを一口だけ口に含む。
「!?」
信じられないくらい美味なコーヒーだった。
芳醇な香りに、苦みの奥にある旨味とコク。
女がこれまでに飲んだどのコーヒーも、このブレンドに比べれば泥水以下である。
「ね? 知らないほうが良かったでしょ。このブレンドを飲んじゃうとね、他のコーヒーが飲めなくなるんですよ」
コーヒーなのに、チキンライスとも異常に合う。
本当に何か怪しいクスリでも入っているのではないか、と思えるほどに美味いコーヒーだ。
「このコーヒーは知りたくなかったなぁ。スタバもタリーズも、もう行けなくなっちゃいましたよ」
「それはお生憎様で」
マスターは苦笑交じりにそうつぶやくと、静かにカウンターを拭き始めた。
いったい誰が想像出来ただろうか。
裏メニューと噂されていたものが、ただの『本日のブレンド』だなんて。
女は夢中で、時折舌をやけどしそうになりながらコーヒーを飲み込んでいく。
確かに、このコーヒーを知ってしまったら、もう他の喫茶店なんて立ち寄れない。
自分がもう他のコーヒーを飲めない、後戻りが出来ないところまで踏み込んでしまった事を理解した。
「ね? ここのブレンド、トぶでしょ?」
中年男の言葉に、女は頷くしか無かった。
よくある「喫茶店の裏メニュー」の話題を、ちょっと逆手にとってみました。




