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記憶を失ってしまった旦那様、私はあなたの子供と一緒に遠くで幸せをお祈りしています

作者: 鉄人じゅす
掲載日:2026/06/14

「ねえママ。あのおふねはどこへ行くの?」


 息子のアルベルトが海風で乱れた銀の前髪を抑えながら私の袖を引いた。

 水平線を渡ってゆく帆船は夕陽に染まり橙色の翼を広げているように見える。


「遠くの国へ行くのよ。お父さまみたいに勇敢な人たちを乗せてね」

「とーさまは勇敢なの?」

「ええ、とても」


 私は息子の柔らかな髪に手を置きそっと撫でた。

 彼の瞳は夕陽を浴びても色を失わない澄んだ碧色。

 父親とまったく同じ色をしている。


 ここはフィオラント海岸。王都から馬車で十日、そして船で三日の世界の果てのように小さな漁村。

 私は今ここでささやかな刺繍店を営みながら三歳になる息子を育てている。

 旦那様。いえもう旦那様などとお呼びする資格は私にはないのかもしれない。

 あの方が私のことを「妻」と認めてくださらなくなってもう四年が経つ。

 旦那様。

 どうかあなたがいつまでもお幸せでありますように。



 私、エルナ・ファルケンハイム子爵令嬢が、レオハトル・ベルクシュトラム公爵閣下と婚約したのは、貴族院在学中のことだった。

 レオハトル様は当時の貴族院でその名を知らぬ者のいない特別な御方だった。

 歴代最年少で騎士団入りを果たした剣の天才。雪原を凍らせたような銀の髪と碧い瞳。歩けば令嬢たちが息を呑み、振り向けば貴公子たちが背筋を正すような、絵画から抜け出してきたとしか思えぬ容姿。


 かわって私は地方の貧しい子爵家の三女。

 取り柄と言えば亡き母から教わった刺繍と王国一品種が豊富だと自負するだけの小さな庭の薔薇園の育て方くらいなもの。

 そんな私とあの方が婚約することになった経緯は私自身未だに上手く説明できない。

 ただ彼が私を見つけ、私を望んでくださり、そして私にはその求愛を断る勇気も理由もなかった。それだけのこと。


「エルナ」


 レオハトル様は私を見つめるといつもまるで宝物を扱うように静かにそう呼んだ。


「私は貴女と歩む人生以外をもう想像できない」


 求婚の言葉を頂いた夜、彼は私の指に月明かりよりも白いベルクシュトラム家代々の指輪をそっと嵌めてくださった。

 私は何度も自問した。

 本当に私でいいのですか。こんな平凡でなんの取り柄もない私でいいのですか。

 問うたびにレオハトル様は必ず同じことを仰った。


「私は貴女を愛しているのです。何の取り柄も要らない。貴女が貴女であるだけで私には過分な幸せです」


 その言葉を私は何度心の中で繰り返したことだろう。その真摯な言葉にいつしかレオハトル様に想いを寄せるようになった。


 しかし、彼の婚約者となった私を王都の社交界が静かに迎えてくれるはずもなかった。

 特に風当たりが強かったのは第二王女のロゼランディ殿下。

 殿下は幼少よりレオハトル様を慕われ、いずれ王配にとお望みだったと聞く。

 公爵家との婚約の知らせがあった夜会の翌日から私のもとに届く茶会の招待状の言葉は針のように細く、刺繍に絡んだ髪のように解こうとすればするほど絡まる類のものへと変わった。


「子爵令嬢風情が随分と派手な薔薇をお選びになりますのね。お庭の手入れだけはご自慢なのでしたっけ」

「エルナ様の刺繍。温かみがあって素敵ですわ。質素な家庭で育まれたぬくもりというのはかえって新鮮でございますもの」


 そういった棘に薔薇の香りを纏わせたような言葉、私はただ淑やかに微笑む以外の術を知らなかった。

 レオハトル様は私が嫌がらせを受けていることに気付くといつも私の手を握りこう仰った。


「エルナ。何があっても私が貴女の隣に在ります。貴女は貴女のままで何も変えなくていい」


 その言葉を胸に私は生きていけた。

 彼が隣にいてくださる限り私は何処までも強くなれる気がしていた。


 婚姻から二年目の春、北の国境で戦が起きた。

 公爵にして近衛騎士団長を務めるレオハトル様は当然のように出征の命を受けられた。


「半年で戻る。あなたの元へ必ず戻ります」


 旅立ちの朝、王城の正門で彼は私を抱き寄せた。

 鎧の冷たさの向こうに確かに鼓動があった。


「エルナ。私の代わりに二人だけの薔薇園の世話をしておいて欲しいのです。戻ったら二人で作った新しい品種を眺めましょう」

「はい!」

「青と白の混じった薔薇を」


 私は頷いた。

 頷きながら彼の鎧に頬を寄せ、心の中でひっそりともう一つ伝えるべきことを抱えていた。

 この体に貴方の子が宿っております。

 伝えるべき言葉はどうしても声にならなかった。

 戦場へ向かう御方の心に重荷をひとつでも増やしたくなかったからだ。

 だからこの言葉は貴方が無事に戻ってきたその夜にお伝えしよう。


 私はそう決めていた。そして半年後。

 彼は約束通り戻って来た。ただし私を覚えていない状態だった。


 王都の聖堂に運ばれてきた彼は頭部に深い傷を負っていた。

 意識は戻った。剣の腕も戦の記憶もほぼ無事だった。

 ただ一点。彼の中から私に関する一切の記憶が抜け落ちていた。


「……どなたですか」


 聖堂の寝台で目を開けた彼が私を見上げて静かに問うた。

 碧い瞳が私を見つめても何も呼び起こさないことを私は生涯忘れることはできないだろう。


「エルナです。私はレオハトル様の妻でございます」

「妻?」


 彼はただただ不思議そうに首を傾げた。


「私は独身のはずですが」


 部屋の隅からロゼランディ殿下がすっと寝台に近づいた。

 殿下は看病という名目で彼が運ばれて来てからずっと聖堂に詰めておられた。妻の私ではなくなぜ殿下がと思ったが、私以外の全てがその疑問を口にすることを許さなかった。


「レオハトル様はお疲れですわ。少しお休みになってこの方のことは後ほどゆっくりとご説明いたしますから」


 殿下が私に向けた目、静かで冷たく勝ち誇っていた。


「エルナ様。今日のところはお引き取りくださいませ。レオハトル様は混乱していらっしゃいます」


 私、頷くしかなかった。

 それから何度も聖堂に通ったがお目通りを許されない。レオハトル様の側には常にロゼランディ殿下がいた。そして結局彼の記憶は戻らなかった。

 公爵家に戻ってきた頃、彼ははっきりとこう言うようになった。


「エルナ殿。私は貴女と婚姻を結んだ覚えがない。書類があったとして今の私では貴女を妻とは呼べない」


 頭が真っ白になる中、レオハトル様は続ける。


「ロゼランディ殿下が看病してくださる中で、私の心は殿下にお寄せするようになった。殿下は私が幼少より存じ上げる御方だ。記憶が戻らずともそのことだけは確かなのだ」


 ロゼランディ様の愛は傷ついた旦那様の心を癒やすモノだったのだろう。レオハトル様は振り返った。


「エルナ殿。貴女には申し訳ないが、私のもとを離れていただきたい」


 その言葉を受け取った夜。私は自分の腹にそっと手を当てた。


 この子のことは誰にも申しません。

 お腹の子と二人で貴方の知らない場所で慎ましく生きていきましょう。

 貴方の記憶に私がいないのなら私も貴方の人生にいてはいけない。

 新しい貴方の幸せを私は遠くからお祈りいたします。

 

 私はベルクシュトラム公爵家の屋敷を出た。

 指輪は彼の枕元に置いてきた。

 庭の薔薇は薔薇園師に託した。青と白の混じる新種は来年の春には咲くはずだろう。


 幸いなことにお腹の子のことは殿下は気付いていなかった。レオハトル様に常に寄り添っていたからだろう。

 使用人達から同情の声もあったが、元々釣り合いを考えたら王女殿下が相応しいこと。

 子の存在を知る者は皆、口封じとして殺される可能性があったため、口外せぬように言い含め、全て無かったこととして私は去った。


 さらに良いことに亡き母の故郷フィオラント海岸へと旅立った私を誰も追ってこなかった。身重の体での移動は困難を極めたが幸い縁に恵まれ、不調無く目的地へ到着できた。


 殿下の指図で王都の社交界からは私の存在が丁寧に消されたと便りが来た。

 それでよかった。そして落ち着いた頃に子は産まれた。

 碧い瞳の雪のような銀髪の男の子。

 レオハトル様のお父上である先代公爵様のお名前からアルベルトという名を頂いた。

 それがせめてもの私の心の慰めだった。


 それから三年。

 海に面した小さな漁村で、私はささやかな刺繍店を営みながらアルを育てている。

 誰も私が公爵夫人だったとは知らない。私はただの「エルナさん」で寡婦の刺繍屋だ。

 時々王都からの噂が行商人を通じてここまで届く。

 ベルクシュトラム公爵様がロゼランディ殿下と婚約されたと。

 まだ正式な婚約ではないけれど、近々発表されるそうだ。

 その便りの度に私は刺繍針を持つ手を止め、窓の外の夕陽に染まる海をしばらく見つめた。

 

 旦那様。どうかお幸せに。

 私のことなどどうか思い出さないままで。

 貴方が選んだ道で笑っていてくださるならそれが私の幸福です。


 その日は初夏にしては妙に湿った風の吹く夕方だった。

 刺繍店の戸口でアルの靴に砂を払ってやっていた私は村の入り口の方角に見慣れない馬が現れたことに気付いた。

 馬が一頭。騎手は夕陽を背負って影になっている。

 村の漁師たちが慌てたように道を空けていく。


 それはそうだ。あの方が纏う制服は王国近衛騎士のもの。

 私の心臓が跳ね上がる。

 逃げないとそう思った瞬間アルが私の手を引いて無邪気に声を張り上げた。


「ママ! あの人の髪の毛。ぼくとおんなじいろ!」


 騎手が馬を止めた。

 夕陽の影からゆっくりと男が降りてくる。雪原を凍らせた銀の髪。夏の湖を凝らせた碧い瞳。

 レオハトル様だ。


「……エルナ」


 私の名を呼ぶその声に四年前と寸分違わぬ確かな響きがあった。

 それを聞いた私は立っていられなくなった。


「エルナ。すみませんでした」


 レオハトル様は膝を地面についた。

 公爵ともあろうお方が漁村の砂埃の上で片膝をついたのだ。


「私は貴女に取り返しのつかないことをしてしまいました」


 アルが後ろで私の足元に隠れてレオハトル様を不思議そうに見上げていた。


「記憶は戻られたのですか」

「ええ」


 レオハトル様は言葉を続ける。


「殿下の名において公爵家の薔薇園は全て取り壊されました。今、思うと記憶を戻さないようにするためだったのでしょう。しかし薔薇園師が私とエルナで作った二人だけの薔薇園を隠し維持してくれていたのです」


 公爵家の薔薇園師は二人だけの薔薇園を託す時も快く引き受けてくれた。殿下によってあの綺麗な公爵家の薔薇園が取り潰されたのは悲しいけれど、まだ小さな二人だけの薔薇園だけが残っていた事に安堵する。


「そこに咲く青と白の混じった薔薇を見て全ての記憶が戻ったのです。貴女のこと、二人で過ごした日々、薔薇のこと、求婚の夜、結婚式、すべてを一気に思い出しました。そして気付いた。記憶を失っていた間、私が貴女に何を言ったのかを」


 彼の声が震えていた。


「殿下が貴女を遠ざけるよう私の弱った心を意図的に誘導していました。だが私の不徳が招いたことだ。貴女に申し開きできることなど何一つありません」


 本当に真面目な人だ。あれだけの大怪我して民を守ったというのに自分に厳しすぎる。


「ロゼランディ殿下は神殿で謹慎中です。彼女が戦傷の治療に意図的な暗示を加え、エルナのことだけを忘れるよう記憶の欠落を利用していたことが明らかになりました。殿下のなさったことは王家の名で必ず償わせます」


 私の記憶だけ都合よく失ったのはなぜかと思ったけど、そういう理由があったのね。

 風が海から塩の匂いを運んでくる。


「それでも貴女に償いを請う資格は私にはないと思っています。たが一つあなたに伝えたかったのです」


 彼は顔を上げた。

 碧い瞳がまっすぐ私を見ていた。


「エルナ。私が何故貴女を選んだのか。記憶を取り戻して改めて思い出したました。聞いてくれますか」


 私は頷いた。

 頷くことしかできなかった。


「貴族院の二年生の秋。私は家督と騎士団の重圧で息が詰まりそうでした。学友も令嬢たちも私の名と顔と地位だけを見ていた。誰一人、私自身を見ている者はいない。そう思っていました」


 レオハルト様は貴族院時代から完全無欠と思っていた。人知れず苦しんでいたのだわ。


「ある日、私は図書館の裏手の誰も来ない古い庭園に逃げ込んでいた。鎧を脱ぎ上着を脱ぎ、ただの一人の少年として石の長椅子に突っ伏していた大声で泣きはらした。そこに貴女が来たのです」


 彼は目を細めた。


「貴女は私が公爵家の嫡男だと気付かなかった。私をただ『泣いている同級生』として見ていた。貴女は何も問わずに隣に座りハンカチを差し出した。刺繍された白い薔薇を今でも覚えています」


 レオハトル様は1枚のハンカチを取り出した。今となっては拙い技術で縫われた粗末なハンカチ。


「『お顔が見えませんからどなたか存じ上げません。でもお辛そうでしたからどうぞお使いください』貴女はそれだけ言って立ち去ったのだ」


 私は覚えていた。あの日の午後を。

 あの少年が誰だったのかは当時の私には分からなかった。渡したハンカチのこともすぐに忘れてしまっていた。


「私はその夜、生まれて初めて自分が自分のままで誰かに優しくされたと感じました。誰でもないただの私を貴女は心配してくれた。その日から貴女を探した。一年かけてようやくあのハンカチの主がエルナ嬢だと突き止めた。そして貴方に求婚したのです」

「そう……だったのですね」


「貴女が私の何を救ったのか貴女自身は知らない。でも私は貴女がいなければ潰れていた。エルナ、貴方は私の命の恩人です」


 彼は私を見上げた。


「エルナ。私を許してくれとは言いません。ただ最後にひとつだけ教えてください」

「……はい」

「その子は私の子でしょうか」

 

 私はアルの肩に手を置いた。

 アルが私を見上げそれからレオハトル様を見た。

 碧い瞳と碧い瞳が夕陽の中で見つめ合った。


「はい、アルベルト・ベルクシュトラム。貴方の息子です」


 レオハトル様の碧い瞳から一筋、雫が落ちた。


「エルナ」


 彼は両腕を広げた。


「また私と共に歩んでくれませんか。アルベルトと一緒に」

「私はもう公爵家に戻ることは……」


 レオハトル様は首を横に振った。


「公爵の座は弟に譲りました。今の私はただのレオハトルです」


 私に会いに来るために全てを捨てたというのか。王女殿下と婚約したのはレオハトル様ではない。

 本当に真面目な人。このまま王女殿下と婚約すれば公爵としてさらに盤石な地位にいられたというのに。でも私は……。


 アルの手を引きゆっくりと彼の方へ歩いた。

 そして三年ぶりに旦那様の腕の中に戻った。

 夕陽が海と空を橙色に溶かしていた。


「ねえ、ママ」


 アルが私とレオハトル様の腕の隙間から顔を出した。


「このひとだあれ?」


 私は笑った。

 笑いながら息子の柔らかな銀の髪を、撫でた。


「お父さまよ、アル」

「おとうさま?」

「ええ。今日まで遠くでお仕事をしていらしたの。でもようやく、帰っていらしたわ」


 アルは不思議そうにレオハトル様の顔を見た。

 レオハトル様は息子の前に、片膝をついて、目線を合わせた。


「アルベルト。父だ。今までの三年貴方の側にいてやれずすまなかった」

「うん。ママがいっつもお父さまは勇敢な人だって教えてくれたから」

「……そうか」


 レオハトル様の声がまた震えた。

 私は自分の頬にもいつしか雫が伝っているのに気付いた。


 明日からは私たちの新しい朝がここから始まる。


このエピソードのきっかけはFF6のロックとレイチェルのシーンを見て生まれた感じです。

ラブラブだったのに一方の記憶がなくなり、別れてしまう。そしてきっかけで思い出し、激しく後悔する。

私はとてもエモいシーンと思ってます。エモいってもう死語かな。

それでは次の短編でお会いしましょう


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