第七話:三月の境界線
今日は空には高い雲が広がり、3月にしては暖かいはずの気温ですが、ここのところの暖かさになれた身体には、少し肌寒く感じます。
第七話:三月の境界線
三月十八日。体育館に足を踏み入れた瞬間、足の裏から体温を奪っていくような冷気に包まれた。
パイプ椅子に座る私の鼻先をくすぐるのは、保護者席から漂ってくる、あの独特なにおいだ。
「……しょうのうのにおい」
お母さんが数日前からタンスを開けて準備していた、とっておきの黒いスーツ。そこに少しだけ混じる、コサージュの華やかな香り。
私には、いわゆる「反抗期」がなかった。お母さんが必死に「可愛い女の子」であろうとする姿を、どこか冷めた目で見つつも、その不器用な愛情を真っ向から否定するようなエネルギーは持ち合わせていなかったのだ。
今日、このツンとした防虫剤のにおいをさせて隣に座るお母さんは、私を無事に送り出すために、精一杯の「親」を演じようとしている。その準備の跡が、今の私には少しだけ愛おしく、そして切なく感じられた。
証書授与の呼名が響く。
「山﨑悦子」
壇上へ向かう一歩一歩。中学の三年間、13.0という数字に縛られ、地面を蹴り続けてきた私の足は、今、ゆっくりと、でも確実な重みを持って床を踏みしめている。
私たちの三年間は、効率という言葉では片付けられないものだった。前だけを見つめて走り、壁にぶつかり、自分の限界という境界線を何度も確認し続けた日々。
先生方は「努力は裏切らない」と語った。そのすべてを鵜呑みにできるほど素直ではないけれど、少なくとも、ここで泥にまみれてもがいた時間そのものが、今の私を形作る確かな土台になったことは否定できない。
背が低いこと、何者でもないこと。自分の欠点ばかりを数えて、内側に尖った感情を溜め込んでしまう私を、二人は無条件に肯定し続けてくれた。その温かさがなければ、今の私はきっと、もっと冷え切った人間になっていただろう。
教室に戻ると、窓の外にはまだ解けきらない雪が、泥にまじって固まっている。
「ねえ、また会えるよね」
友達が少しだけ瞳を潤ませて笑う。私は「当たり前だよ」と返した。
寂しくないといえば嘘になるけれど、共有した些細な秘密や、同じ風の中で流した汗は、場所が変わっても消えることはない。
卒業証書を抱えて校門を出ると、しょうのうのにおいは春の風にかき消された。
代わりに、湿った土と、芽吹き始めた草の匂いが鼻を抜ける。
背伸びをしても届かない世界があることを、私は知った。
でも、さようならを告げるのは、新しい私に出会うための儀式だ。
十五歳の季節が終わる。私は、もう振り返らない。




