婚約破棄された瞬間、社畜だった前世を思い出したので定時で帰ります
その日、王宮の大広間は異様な緊張に包まれていた。
理由は一つ。
王宮にて王太子殿下の婚約者として活躍していた―
伯爵令嬢、エレノア様の婚約破棄が宣告されるからである。
王宮使用人である我々は、壁際に並び、息を潜めていた。
王太子殿下が子爵令嬢、マリ様とお付き合いをしていることは公然の秘密であり、学園卒業後は側妃として迎える話が出ていることも王宮に勤める者であれば当然の事実であった。
子爵令嬢に傾倒する使用人もそれなりにいたからだろうか、エレノア様が貶められた状況である。
「世の中ではエレノアのような者を悪役令嬢と呼ぶらしいな。見えないところでマリを虐げていると報告が上がっているのだーー」
子爵令嬢の手綱はお見事としか言いようがない。
学園の卒業式でも同じようなことが起こったが、国王の執り成しでマリ様は側妃として召されることとなっていた。
だからこそ、次に起きたことに、居合わせた人は誰一人として対応できなかった。
「――よって、婚約は破棄とする!」
王太子殿下の高らかな宣告が、大広間に響き渡る。
その瞬間。
エレノア様が、ふっと顔を上げた。
泣かない。
叫ばない。
震えもしない。
ただ、ぽつりと呟かれた。
「……ああ、思い出しました」
何を、と思う間もなく、エレノア様は自分の胸元を押さえ、目を閉じた。
その表情は、悲しみではなく――納得だった。
(……何を思い出されたのだろう)
その答えを、我々使用人が知るのは、もう少し後のことになる。
エレノア様は静かに、しかしはっきりと言った。
「終電。残業。休日出勤。鳴り止まない呼び出し……」
意味の分からない言葉だった。
聞いたこともない単語ばかり。
「定時で帰れなかった、あの頃……」
エレノア様は、はっと目を開き、王太子殿下を見た。
その目は、かつての執着と嫉妬に満ちたものではなかった。
まるで長い夢から覚めたような、澄んだ目だった。
「……ありがとうございます」
全員が固まった。
「え?」
誰かが、そう声を漏らした。
感謝?
婚約破棄されて?
エレノア様は、にこりと微笑んだ。
「これで、もう頑張らなくていいんですね」
そう言って、ふと窓の外を見た。
――カーン。
鐘が鳴った。
夕刻を告げる、定時の鐘だった。
「婚約破棄の件、承知いたしました。では、失礼します」
エレノア様は一礼し、くるりと踵を返した。
「え、ちょ、エレノア!?」
王太子殿下の声が背中に飛ぶ。
「定時ですので」
それだけを残し、エレノア様は大広間を出ていった。
その背中は、驚くほど軽やかだった。
王宮は、沈黙に包まれた。
……数秒後。
「……今のは、どういうことだ?」
国王陛下の低い声が響いた。
私は見た。
陛下が、胸を押さえ、顔をしかめるのを。
――胃だ。
きっと、また胃だ。
学園卒業式の日から、すべてが変わった。
子爵令嬢にうつつを抜かす王太子に叱責しつつも、我が子可愛さで選択したことで国王が胃痛に悩んでいることを我々使用人は知っている。
エレノア様は宣言された。
「特に急ぎの案件ではないと判断いたしましたので、定時で帰宅いたします」
使用人である私たちは、確信した。
あの日の婚約破棄は、悲劇ではなかった。
革命の始まりだったのだ。
そして私はまだ知らなかった。
この定時帰宅が、やがて王国を揺るがし、国王陛下の胃を限界まで追い詰め、エレノア様の恋を連れてくることを――。
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