第4話 ただの少女として
「……花?」
ルカが小首をかしげる。
その手には、小さな白い花が乗っていた。まだ本調子ではない体を気遣い、神殿の中庭を散歩することになったその日、私はふと足元に咲いていたその花を摘んで、彼に差し出したのだった。
「“ユリのしずく”っていうんだよ。このあたりじゃ、春先にだけ咲くの」
「へえ……かわいいな」
ルカは花を指先でそっとなぞりながら、微笑んだ。柔らかな金色の光が差す中庭のベンチに座り、彼の横顔を見ていると、私はふと胸の奥がざわめくのを感じた。
(やっぱり……この人の笑った顔、好きだな)
言葉にするにはまだ早すぎて、でも、心がもう知ってしまっている感情。
私は小さく目をそらし、手の中に残ったもう一輪の花を見つめた。
「……私ね、この花を見るとちょっと泣きたくなるの」
「え?」
「でも、理由はわからないの。前の世界で見たことがあるのかも……なんて、思ったりするだけ」
そう言うと、ルカは少しだけ目を細めた。
「……ミアって、不思議なこと言うよな」
「そう?」
「うん。でも、変じゃない。不思議だけど……落ち着くっていうか」
その言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
変なのに、落ち着く。
よくわからない褒め言葉だけど、それがルカらしくて、なんだかうれしかった。
「ありがとう、ルカ」
「何が?」
「そう言ってくれるのが、なんとなく……救われる気がするから」
彼は一瞬、驚いたような顔をしてから、また静かに笑った。
その笑顔に、また心が揺れる。
(ああ、だめだ。こんなふうに笑ってくれるなら――わたし、きっと……)
私はそっと胸の前で花を抱えた。
聖女としてじゃなく、ミアとして。
それが、この神殿でたった一人、ルカだけに許されていることだった。
◇ ◇ ◇
数日が経った。
ルカの傷は順調に癒え、もう無理をしなければ歩けるまでになっていた。
その間、私たちはよく話をした。
お互いのこと。家族のこと。好きなもの、嫌いなもの。笑ったこと、泣いたこと。まるで、昔からの友達みたいに。
ときどき、ほんの少しだけ手が触れ合うこともあった。
そのたび、私は心臓が跳ねるのを止められなかった。
「そういえばさ、ミアって、なんで聖女になったの?」
ある日、ルカがぽつりとそう聞いてきた。
その問いに、私は少しだけ言葉を探した。
「……気づいたら、ここにいたの。ある日、目を覚ましたら、この神殿の奥の間で……“お告げを受けた者”として、迎えられてたの」
「……不安じゃなかった?」
私は、すぐに答えられなかった。
でも、彼の瞳がまっすぐだったから――
「……うん、怖かったよ。今も、時々怖い」
私は正直に言った。
「みんな、わたしのこと、“聖女様”って呼ぶけど……本当は、何もわからない。ただ祈って、誰かが癒えて……また、祈って。自分が誰なのかすら、まだわかってないのかもしれない」
ルカは黙って聞いていた。
それが、うれしかった。
否定もせず、押しつけもせず、ただ、そこにいてくれることが。
そして、彼はふっと微笑んで言った。
「じゃあ、俺が“ミア”って呼ぶ理由、もう一つ増えたな」
「え?」
「“聖女様”って呼ぶより、ミアって呼ぶ方が、ちゃんと“君”と話せる気がするんだ」
私は一瞬、言葉をなくして――それから、どうしてか、涙がにじんだ。
「……バカみたい。泣くつもりなんてなかったのに……」
「いいよ、泣いても」
ルカはそう言って、私の頭にそっと手をのせた。
その温もりが、祈りの光よりも優しくて、私はしばらくのあいだ、なにも言えなかった。
◇ ◇ ◇
その夜の祈りは、いつもより長く続いた。
心がいっぱいで、祈らずにはいられなかった。
「ねえ、神様……わたし、少しだけ、幸せかもしれない」
「だめかな。聖女なのに、こんな気持ち……」
囁く声に、返事はなかった。
だけど、私は知っていた。
神様じゃなくても、きっと届く。
あの人が、“私の声”を聞いてくれるなら、それでいい。
ただの少女として、ただの恋として。
――それでも、祈らずにはいられなかったのは、
この感情が、あまりにもまぶしすぎたから。