第3話 名前を呼ばれた夜
「……っ、水……」
かすれた声がした。
それは、まるで祈りのようにか細く、それでいて確かに届く響きだった。
私は慌てて椅子から立ち上がる。聖女用の控室――傷病者の経過を見守るために設けられた小さな部屋。その中央に置かれた寝台の上で、彼は、ゆっくりとまぶたを開いていた。
「……目、覚めたの……?」
思わず、声が震える。
彼――ルカが意識を取り戻したのは、あの祈りから三日目の朝だった。
顔色はまだ白く、腕には包帯が巻かれている。でも、呼吸は安定していて、目の焦点もしっかりしていた。私は、急いで水差しとカップを手に取り、彼のそばに膝をついた。
「はい、水……ゆっくり、少しずつね」
彼は、私の手を見つめたまま、ゆっくりとカップを受け取った。
一口、ふた口。水が喉を通ったあと、彼は小さく咳き込み、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとう」
その声に、私は胸がふわりと揺れるのを感じた。
――ただ、それだけの言葉。
でも、私にとっては、こんなにあたたかく響く「ありがとう」は初めてだった。
「よかった……ほんとうに、よかった……」
私は小さくつぶやいて、それから、何かを隠すように俯いた。
もし、彼が目を覚まさなかったら――ずっと、そう考えていた。祈りが届かなかったら、あの時点でもう私に何ができたというのか。何の力もない、ただの偽物だったんじゃないかと、何度も自分を責めた。
でも今、こうして彼が目を開けて、言葉を返してくれた。
それだけで、十分すぎるほど救われた気がした。
◇ ◇ ◇
しばらくして、神官たちが診察のために部屋へ入ってきた。
彼――ルカはその間、特に多くを語らず、ただ時折、静かに私を見ていた。
視線が合うと、少しだけはにかんだように笑う。それがなんだか、くすぐったい。
神官たちが退出したあと、私はもう一度、彼のそばに戻った。
「名前、聞いてもいい?」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「……ルカ。ルカ・エルネスって言うんだ」
「ルカ……」
私はその名前を口にしてみた。
舌の奥に残る響きが、柔らかくて優しくて、どこかあたたかかった。
ルカは、少しだけ目を細めて、照れたように笑った。
「……君は?」
「え?」
「僕の名前、言ったでしょ? 君のは?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
“聖女”と呼ばれるようになってから、自分の名前を誰かに尋ねられることなんてなかった。
でも今、この空間には、彼と私しかいない。
誰かの期待も、肩書きも、神の前の役割もない。
だから私は、ほんとうの声で答えた。
「ミア。……ミアって呼んで。あなたには、そう呼んでほしいの」
その瞬間、ルカの瞳が少しだけ見開かれた。
でもすぐに、穏やかな笑みが浮かんだ。
「……わかった、ミア」
その言葉は、まるで祈りのようだった。
世界のどこにも届かないはずの、私の心の底にだけ、まっすぐ降りてきた言葉。
◇ ◇ ◇
その夜。
私はまた祈りの間に座っていた。
けれど今夜の祈りは、いつもと少し違っていた。
誰にも届かない“ひとりごと”ではなく――ほんの少しだけ、“誰か”に聞いてもらえる気がしていたから。
「ねえ、神様。わたし……今日、名前を呼ばれたの」
炎の揺れる音が、小さく応える。
「“ミア”って。……ただの、ミアって」
胸の奥が、ふわりとあたたかくなった。
「それだけで、すごくうれしかったの。なんだろう……生きててよかったって、思っちゃった」
くすっと笑って、それから私は、そっと両手を組んだ。
「神様。……ルカが、明日も目を覚ましてくれますように」
「もっと、いろんな話をしたい。今日みたいに、静かに笑い合えたら、それだけでいいから……」
そう、祈るように願った。
けれど、本当はもうわかっていた。
私が“癒したい”と願ったのは、彼がはじめてだったということを。
この想いが、祈り以上のものになってしまったことも。
――でも、今はそれを、誰にも言わない。
だって私は、聖女だから。
まだ、“ミア”として、恋をしていいかどうかもわからないから。
ただ、今夜くらいは。
胸の奥で灯った、小さなともしびを、そっと大事にしていたいと思った。