第2話 運ばれて来た青年
翌朝、私は少しだけ早く祈りの間に入った。
白い祭壇にはすでに新しい聖水が置かれていて、光の入る高窓から、まだ淡い朝の陽が差し込んでいた。冷たい空気が肺にしみる。それでもこの場所は、私にとって少しだけ落ち着ける――そう思える数少ない空間だった。
祈りの儀式が始まるまではまだ時間がある。静かな朝のうちに、少しだけでも祈っておきたかった。そうすることでしか、自分の心を保てない気がしていた。
私はそっと目を閉じ、祈りの姿勢をとる。けれど、心はどこか遠くに浮いていた。
(また、今日も誰かを癒やす。誰かの痛みを、代わりに引き受けて――)
聖女の力。それは確かに、人を癒す奇跡かもしれない。でも、そのたびに感じる胸の痛みや、身体のだるさは、まるで少しずつ私を削っていくようだった。
(大丈夫。今日も……ちゃんと祈れる)
そう自分に言い聞かせた、そのときだった。
聖堂の扉が、急に重く開かれる音が響いた。
「聖女様、申し訳ありません! 怪我人です!重傷で――!」
神官のひとりが、慌てた様子で駆け込んできた。
すぐに私は立ち上がり、声のする方へ歩み寄る。入り口の扉の向こうには、数人の兵士に担がれた少年の姿があった。血に染まった布、呼吸の浅い胸。額に汗が浮かび、顔色は紙のように白い。
「この人は……?」
私は思わず問いかける。神官が急いで説明を始めた。
「東の森で魔物と遭遇し、単独で応戦したようです。かなりの出血。治癒師では手に負えず、急ぎこちらに――」
私はもう、説明を最後まで聞いていなかった。
気づけば、彼のそばにしゃがみ込み、彼の顔をのぞき込んでいた。年は私と同じくらい。浅く息をするたび、胸が苦しげに上下していた。だけど、その顔は――どこか、穏やかだった。
(生きようとしてる)
そう感じた。
私は、彼の胸の上にそっと手を重ねる。温度が低い。でも、まだ体は確かに生きていた。
「……神様」
自然と、言葉が口をついて出た。
「この人を、助けてください。……わたしの祈りで、届くのなら――」
目を閉じる。意識を集中する。
ただ、祈る。
目の前の命が、失われないようにと。
指先から、淡い光がにじみ出る。私の体温が彼の中へと流れ込んでいくような感覚。代わりに、自分の体が冷えていく。胸の奥が締めつけられるように、じくじくと痛む。
でも、それでいい。
この世界に来て、私を必要としてくれる人が、いま、目の前にいる。
そのことだけが、心の救いだった。
◇ ◇ ◇
彼の容態は、数時間の祈りののちに安定した。
神官たちは「奇跡だ」と騒ぎ、兵士たちは深く頭を下げて帰っていった。
けれど私自身は、その後、祈りの間でしばらく立ち上がれなかった。
体は重く、熱があるような感覚。足元はふらつき、視界の端が白く霞んでいた。
それでも、あのとき感じた確かな想い――あの人を助けたいという気持ちだけが、今も胸の中に残っている。
(……ありがとう、神様)
そう思った。
癒せたことが嬉しかった。
誰かの命が、私の祈りで繋がった。
――初めて、祈ってよかったと思えた。
◇ ◇ ◇
その夜。私は再び、祈りの間にいた。
昼間とは違い、静寂が満ちている。ろうそくの灯はひとつきり。その炎を見つめながら、私はゆっくりと口を開いた。
「ねえ、神様。……わたし、今日、少しだけ嬉しかったの」
そう言って、ふっと微笑む。
「祈ったらね、ちゃんと届いたの。……その人が、ほんとうに苦しそうだったのに、少しずつ呼吸が楽になって、最後には――すぅって、寝息をたててくれたの」
その寝顔を思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ほんの少し、涙がにじんだ。でも、それはきっと悲しいものじゃなかった。
「だからね、もう少しだけ……がんばってみようかなって、思えたの」
静かな夜。誰にも聞かれていない“ひとりごと”。
だけど私は、そうやってしか、自分の気持ちを伝える術を知らなかった。
名前も、声も、想いも――全部、祈りの奥に隠して生きてきた。
でも、今日。あの人の命に触れて、私は初めて“祈りたい”と思えた。
「また、あの人に会えるかな……?」
炎が揺れた。夜風が、窓の隙間から吹き込んだ。
それが、答えだったのかはわからない。
でも私は、少しだけ微笑んで、そっと祈りの間を後にした。