第1話 異世界の祈り、私の使命
空気は冷たく澄んでいた。石造りの大聖堂の奥、祈りの間には、ろうそくの灯りだけがゆらゆらと揺れている。
夜の祈りを終えても、私はそこにひとり座っていた。
天井の高いこの場所は、昼間は人々の祈りと祈祷の声で満ちているけれど、夜になると、こんなふうに静けさに包まれる。
私は、両手を胸の前でそっと組み直した。
目を閉じ、祈るふりをしながら、誰にも聞こえないように、心の声をこぼす。
「……ねえ、神様。今日も、ちゃんと祈れたかな……?」
それは、祈りじゃなかった。ただの、ひとりごと。誰にも聞かれたくないくせに、誰かに届いてほしいと願ってしまう、小さな声だった。
この世界に来て、どれくらいが経ったんだろう。もう、数えてはいない。最初の頃は必死だった。自分が“聖女”だなんて信じられなくて、それでも人々に求められて、無理やり祈って、泣いて、それでも、なんとか……やってきた。
“癒しの祈り”。この世界の人たちはそう呼ぶ。私が手をかざすと、たしかに怪我が癒える。病がやわらぐ。……でもそれは、魔法じゃない。私にとっては、もっと深くて、静かなもの――たとえるなら、“祈り”というより、“願い”。
(治ってほしい、って思うだけ)
それだけなのに、癒やされる人がいて、私は「奇跡」と呼ばれてきた。たくさんの「ありがとう」をもらった。……だけど、どうしてだろう。もらえばもらうほど、心の奥がすうっと冷えていくのを感じる。
「……ううん、ちがう。そんなこと思っちゃ、だめだよね……」
誰もいない大理石の床に、私の言葉だけが溶けていく。
聖女は、強くなくちゃいけない。やさしくなくちゃいけない。笑っていなくちゃいけない。……そんなの、誰が決めたんだろう。
でも、誰もそれを否定してくれない。
だから私は、今日も“祈りの聖女”を演じている。笑って、癒して、頼られて、祈って。……でも本当は。
(ほんとうは、こわい)
癒すたびに、胸がきゅうっと痛くなる。力を使いすぎた日は、息もできないほど苦しくなることがある。でも、それを誰かに言ってしまったら、私はもう、“聖女”でいられなくなる気がして。
「……ねえ、神様。私は、間違ってないよね……?」
そう問いかけたとき、どこからか風が吹いた。夜の大聖堂は、どこかの窓が少しだけ開いていて、そこから冷たい風が入り込むことがある。ろうそくの灯がかすかに揺れ、私の頬に触れた。
少しだけ、泣きそうになった。
でも、涙はこぼさなかった。
私は聖女だから。みんなの希望だから。
そんなふうに、強くあることを、もう、体が覚えてしまっている。
◇ ◇ ◇
祈りの間を出ると、白い回廊に月の光が差し込んでいた。静かな夜。けれど、私の中には、眠れない気持ちだけが残っていた。
ときどき思うの。この世界に来て、誰にも心を開けないまま、祈ってばかりで……もしも、そんな私の前に、ただ「ミア」として話してくれる人が現れたら――。
そのとき、私はようやく「生きている」って思えるのかもしれない。
でも、そんな人は現れない。
私は“聖女様”で、“癒しの奇跡”で、ただの「ミア」なんて、この神殿では、誰も知らない名前だから。
それでも。
祈りをやめられないのは、きっと私が――誰かに、必要とされたいと、願ってしまっているから。
「……神様。誰でもいい、私を“私”として見てくれる人を、どうか――」
夜空に滲む星のひとつに、私はそっと、願った。
それが、あの人と出会う、ほんの少し前の夜だった。