第九話 グレンヴァーク襲来
第九話 グレンヴァーク襲来
グレンヴァーク──七大魔獣の一体。
狼の王を思わせる姿で、三百頭近い野狼を率い、王国の国境へと迫っていた。
今や王国全体が、その震え上がるような遠吠えをはっきりと聞くことができる。
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住民たちは次々と倒れ、深い眠りに落ちていく。
「これが魔法なのね…」
金髪の王女は宮殿の廊下を歩きながら、地面で眠る使用人たちを見下ろした。
「手を振るだけで眠らせるなんて、信じられない」
彼女の視線の先には、オレンジ色の髪を肩まで伸ばした女──『辺境の魔女』エイブリンがいた。
「重要なのは手を振ることじゃないわ」エイブリンが言った。
「ただの癖よ」
「これにも代償が必要なんですか?」金髪の王女は緊張して尋ねた。
「もちろん」
「じゃあ…私が何か差し出すべき?」金銀財宝とか。
表情がさらに硬くなる。
「お金では代償にならないわ」エイブリンは笑った。
「それに教えられない」一般人に魔法のことを知らせるわけにはいかない。
「眠い…」黒髪の少女が最後尾で目をこすっている。
ラン。エイブリンの唯一の弟子だ。
(なんだかすごく眠い…)
(でもグレンヴァークが来るんだから、しっかりしないと!)
師匠には宮殿にいるように言われたけど…
(言うこと聞くか!)
「眠い…」うつらうつらとする。
(ダメ、気合い入れないと!)意識を無理やり保つ。
(魔法って結局…)
金髪の王女は考えながら、眠り込んだ使用人たちを見た。
(たくさんの財宝が必要だと思ってたのに…)
でもお金では代償にならないと言った。じゃあどうやって魔法を使ってるの?
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「あ、マリア!」
いつも傍にいてくれたメイドの元へ駆け寄り、地面で眠る姿を見つめる。
「すぐに目を覚ます魔法はないわよ」
背後からエイブリンが静かに言う。
「王国中の人を眠らせたいって言ったのは貴女でしょ」
少女はしばし黙り、それから立ち上がった。
「いいえ、これでいいの…」
メイドの髪を優しく撫でる。
「マリア…目が覚めた時、全て終わってるわ」
小さな声で呟く。
(グレンヴァークも、私も…)
突然、少女は動きを止め、魂が抜けたような目になる。
「またか…」
エイブリンは静かに彼女を見つめ、それからランへと視線を移す。
ランも虚ろな目をしており、周囲の空気が激しく揺らぎ始めていた。
「同期がどんどん強くなってる…」呟く。
二人はほぼ同時に発作を起こしていた。
エイブリンが軽く手を振ると、ランはゆっくりと目を閉じ、バランスを崩した。
「ラン…」彼女を受け止める。
「宮殿で待ってなさい」抱きながら優しく言う。
「ここで死ぬ必要はない」
微笑むが、声には重みがあった。
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「王女陛下、目を覚まして」誰かの声が少女を呼ぶ。
だが彼女の意識は深淵に囚われたままで、反応できない。
「限界か…」エイブリンは呟き、光のないその瞳を見つめた。
手を下ろし、部屋で座っている金髪の王女を見る。
「自分の役目は終わったと思ってるんだろう」
魔法の帽子を出現させ、軽く被る。
「あとは最強の魔法使いがグレンヴァークを倒し、王国を救うだけ…そう?」
ベッドで眠るランを見やる。
「約束を覚えていてくれるといいが」
杖を握り、窓から飛び降りる。
「どこまでできるか、見せてやる」
王国の上空を飛び越えていく。
今や王国の誰もが眠りにつき、ただ一人彼女だけが目を覚まして移動している。
「ガオオオオーン―――!」
遠くで、グレンヴァークが天地を裂くような吠え声を上げた。
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どれくらい経っただろうか。宮殿内で、黒髪の少女がゆっくりと目を開けた。
「師匠!」飛び起きる。
周りを見回すが、すでに師匠の姿はない。
「まさか…グレンヴァーク…!」
「ウォォォォーン―――!」
巨大な狼の遠吠えが宮殿全体を貫く。
「くそ、急がなきゃ…!」
慌ててベッドから降りると、部屋に座る金髪の王女が視界に入った。
虚ろな目で前方を見つめ、お茶を飲むような動作をしているが、カップすら持っていない。
「お前…」ランは彼女を見た瞬間、意識が遠のき、よろめく。
「くっ…くそ…!」
体を支えながらテーブルへ行き、杖に手を伸ばす。
「師匠を助けに行かなきゃ…!」
歯を食いしばるが、突然手を掴まれた。
王女は立ち上がり、彼女の手を取って部屋の中を動き始めた。
「何してるんだ!?」体が操られるように、ぐるぐると引き回される。
「これって…踊ってるの?」
目の前の人物を見る。瞳は虚ろだが、機械のように彼女を回転させている。
部屋の中で、二人は無音のダンスを踊っているようだった。
「こんなことしてる暇ないんだよ!」
ランは怒鳴り、窓の外へ焦りの視線を向ける。
遠くで、激しい戦闘音が続いている。
「師匠…」小さく呟く。
金髪の王女は彼女を見つめ、突然抱きしめてきた。
「ちょっと、何すんの!」
激しくもがくが、どうしても逃れられない。
「くそ…離せ…!」
手を上げ、魔法を発動させようとするが、何も起こらない。
「おかしい、どうして…?」
自分の手を驚いたように見つめる。
金髪の少女は彼女を強く抱きしめたまま、何も言わず、言えず。
ただ静かに、ランの頭を撫でていた。
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「本当に…使えない…」
ランは呟きながら手を見つめ、受け入れられない様子。
魔法使いが…魔法を使えないなんて。
「まさか…」
抱きしめている金髪の王女を見る。
「でも彼女は魔法使いじゃない…それにこの状態…ありえないよな…」
考え込む。
金髪の少女は再び手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。
「撫でるのやめろって!」ランは怒鳴る。
(無意識なのか、それとも…わざとなのか?)
虚ろな瞳を見つめる。
「今重要なこと考えてんだよ!」苛立ちながら叫ぶ。
魔法が使えないということは、師匠を助けに行くこともできない。
窓の外では、まだ魔獣の咆哮が聞こえる。
(それに…なんでこうなったのかもわからない!)
ランの表情は次第に暗くなる。
「もし…師匠が死んだらどうしよう…」
恐る恐る呟き、金髪の王女の服を自ら掴む。
「その時は…多分私もお前と一緒に死ぬんだけど…」
やはり、魂は繋がったままだから。
「まあ…それでもいいかもな…」
呟き、瞳の輝きがさらに薄れる。
(彼女の気持ちがわかる…彼女の苦しみも…)
魂の繋がりで、全てを感じ取れる。
(私を外に出さないのは、なだめて守ろうとしてるから…)
「もし師匠が帰ってこなかったら…」
「じゃあ…お前と一緒にいてもいいよ…」
王女を見上げる。
「もう、一人にはなりたくない…」
【魔法発動】