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ひとくちずつ、馴染んでいく

カフェ ミルテで働き始めて、少しずつ仕事にも慣れてきた頃。


昼下がりの店内は、ゆったりとした時間が流れていた。


扉が開く音とともに、聞き慣れた声が響く。


「琴音ちゃん、今日のプリンはある?」


軽快な足取りでカウンターにやってきたのは、前田さん。


「こんにちは、前田さん。プリン、ありますよ」


琴音が静かに微笑むと、前田さんは満足げに頷いた。


「じゃあ、いつものダージリンとセットでね。あ、今日はこの新人くんに運んでもらおうかしら?」


遥をちらりと見て、いたずらっぽく笑う。


「……新人くん?」


遥は苦笑しながら、注文を復唱した。


「プリンとダージリンですね。かしこまりました」


「んまあ、ちゃんとしたお店みたいな言い方するのねぇ。よしよし」


前田さんは、楽しそうに頷く。


遥は厨房の奥で、丁寧に紅茶を淹れ、プリンをセットしたプレートを用意する。


そして、それをテーブルへと運んだ。


「お待たせしました」


「ありがとねぇ。……そういえば、琴音ちゃんの店で男の子が働くのって珍しいんじゃない?」


「そうなんですか?」


遥が尋ねると、前田さんは笑いながら紅茶を一口飲んだ。


「ええ。これまで何人か手伝ったことはあったみたいだけど、長続きしなくてねぇ。琴音ちゃん、一人でやることが多かったのよ」


遥は、カウンターの奥で仕事をする琴音の姿を見た。


確かに、彼女はひとりで黙々と仕事をこなしている。

その姿は、凛としていて美しいけれど、どこか張り詰めているようにも見える。


「まあ、あんたなら長く続くかもしれないわね」


前田さんは、紅茶のカップを揺らしながら、ふっと俺を見た。


「どうしてそう思うんですか?」


「琴音ちゃん、あんたのこと、悪く思ってないみたいだからよ」


「……え?」


「琴音ちゃん、あんまり人に頼るのが得意じゃないのよ。でも、あんたが働くの、ちゃんと受け入れたでしょ?」


遥は、前田さんの言葉を噛みしめながら、もう一度カウンターの向こうを見る。


琴音は、俺の視線に気づいたのか、ほんの一瞬だけこちらを見た。


けれど、すぐにまた仕事へと戻る。


その横顔が、どこか柔らかく見えた気がした。



--



前田さんが退店して程なく、大柄な男性の影が店の扉を開けた。


「おや……お前さん、カウンターの向こうにいるのが不思議だな」


カウンター席に腰を下ろした菊池さんが、俺を見てニヤリと笑った。


「最初に会ったときは、ただの客だったのによ」


「そうですね。自分でも、まさかここで働くことになるとは思ってませんでした」


遥はカウンターの奥でポットを手に取り、ゆっくりと湯を沸かす。


「でもまあ、琴音さんが雇ってくれたので」


「ほう……琴音ちゃんが、な」


菊池さんは、ちらりと琴音の方を見る。


琴音は、特に表情を変えずに答えた。


「お店の仕事を手伝ってもらえるなら、助かると思いまして」


「ふん、それならよかった」


菊池さんは顎に手を当て、俺を見やる。


「で、お前さんのコーヒーの腕前はどうなんだ?」


「まだまだです。でも、少しずつ覚えてます」


「なら、ちょっと試してみるか」


菊池さんが腕を組み、カウンターに肘をついた。


「試す?」


「お前が淹れたコーヒー、飲ませてもらおうじゃねぇか」


琴音が、ふっと遥を見る。


「……やってみますか?」


遥は、小さく息をついた。


(試されてるな……)


カウンターの向こうで琴音が静かに見守る中、遥は慎重にドリップを始めた。


「菊池さん、好みの味とかあります?」


遥がそう尋ねると、菊池さんは少し目を細めた。


「お、気が利くじゃねぇか」


腕を組んだまま、カウンターの奥を見ながら唸るように言う。


「そうだな……俺は、苦いのが好きだ」


「苦いの、ですか?」


「そうさ。スッと飲んで、スッと切れる。余計な甘さはいらねぇな」


遥は、カウンターの向こうで静かに耳を傾けていた琴音を見る。


「それなら、深煎りの豆を少し粗めに挽いて、しっかり蒸らすといいですよ」


「なるほど」


遥は琴音の言葉を参考にしながら、コーヒーミルに豆を入れる。


手回し式のミルをゆっくりと回すと、心地よい豆の砕ける音が響く。


「ほう、ちゃんと手挽きか」


菊池さんが興味深そうに俺の手元を見た。


「電動でもいいんですが、手で挽くと粒の大きさを調整しやすいんです」


「ふん、手間を惜しまねぇのはいいことだ」


遥は、琴音がいつもやっているように、ゆっくりとドリッパーに粉をセットし、細くお湯を注ぐ。


(苦味を引き出しつつ、雑味は抑える……)


蒸らしの時間を少し長めに取り、ゆっくりとお湯を回しながら注ぐ。


カウンターの向こうで、琴音が静かに俺の動きを見守っていた。



---


数分後、湯気の立つカップを菊池さんの前に置いた。


「どうぞ」


「ほう……」


菊池さんはカップを手に取り、そっと鼻を近づける。


「香りは悪くねぇな」


ゆっくりと口をつける。


遥は、無意識に少し息を詰めた。


(どうだ……?)


菊池さんは、一口飲んでしばらく黙っていた。


そして、カップを置くと、ニヤリと口角を上げた。


「……いいじゃねぇか」


遥は、少し肩の力を抜く。


「苦味はしっかりしてるが、嫌な後味はねぇ。ちゃんと飲みやすくなってる」


「ありがとうございます」


「だがな」


菊池さんは、カウンターに肘をつき、俺をじっと見た。


「お前のコーヒーの味は、まだ琴音ちゃんの味には届いてねぇな」


遥は、一瞬言葉を詰まらせる。


「……そうですか」


「悪い意味じゃねぇ。お前のコーヒーは、ちゃんと筋がいい」


菊池さんは、カップを軽く持ち上げる。


「けどな、琴音ちゃんのコーヒーには、もう少し"何か"があるんだよ」


「何か……?」


「それが何かは、お前が自分で考えな」


遥は、琴音のほうをちらりと見る。


彼女は、カウンターの奥で静かに俺たちのやり取りを聞いていた。


「潮見さんのコーヒーは、十分に美味しいですよ」


琴音はそう言った。


けれど、その言葉の奥に、何か含むものがあるような気がした。


遥はカップの中のコーヒーを見つめながら、ゆっくりと言った。


「その"何か"、いつかわかる日がくるといいですね」


菊池さんは、その言葉に目を細め、静かにカップを揺らした。


「……そうだな」


ごくりともう一口飲み、満足げに頷く。


「お前さんなら、いずれ気づくかもしれねぇな」


「気づく、ですか?」


「コーヒーってのは、ただ技術だけじゃねぇ。長く付き合っていれば、そのうちわかることもあるさ」


その言葉の意味を噛みしめながら、遥はカウンターの奥で静かに仕事を続ける琴音をちらりと見た。


琴音は、何も言わずにカップを拭きながら、ただ静かに遥たちのやり取りを聞いていた。



---



その日の営業が終わったあと。


店の片付けをしながら、俺はふと琴音に尋ねた。


「琴音さん」


「……何ですか?」


琴音は、カウンターの奥でカップを丁寧に拭いていた。


「菊池さんが言っていた"何か"って、琴音さんはわかってますか?」


琴音は、一瞬だけ手を止めた。


けれど、すぐにまた作業に戻りながら、静かに答える。


「……わかりません」


遥は、その横顔をじっと見つめる。


「でも」


琴音は、そっとカップを棚に戻す。


「私にしか淹れられない味があるのなら、それは……私の記憶の中にあるものかもしれません」


記憶の中にあるもの。


遥は、その言葉を反芻する。


「潮見さんには、潮見さんのコーヒーがあります」


琴音は、ふっと視線を上げ、俺を見た。


「きっと、それを見つけていくのが、この店での仕事なのかもしれませんね」


遥は、小さく息をつく。


(……見つけていく、か)


この場所で働くことに、どこか「仮のもの」だったはずの気持ちが、少しずつ形を持ち始めている気がした。


この店の味、琴音の淹れるコーヒー、そして遥がまだ見つけられていない「何か」。


遥は、それらのすべてを、少しずつ確かめていきたいと思った。

誤字脱字等ありましたら、報告くださると助かります。

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