注がれるもの
カフェ ミルテで働き始めて、数日が経った。
仕事は単純そうに見えて、意外と奥が深い。
テーブルの拭き方ひとつ、カップの持ち方ひとつとっても、気を抜けばすぐに雑になる。
「潮見さん、カップを置くときは、取っ手の向きに気をつけてください」
「取っ手の向き?」
「ええ。お客さんが右利きなら、取っ手は右側に。左利きなら、左側に向けるように」
「なるほど……そういう気遣いが大事なんですね」
「コーヒーの味と同じくらい、大事なことです」
琴音は淡々とした口調で言いながら、カウンターの奥でコーヒー豆を計っていた。
彼女の動きには、無駄がない。
それでいて、どこか優雅な所作がある。
遥も、少しずつその動きを覚えていこうと思った。
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その日の閉店後、琴音は遥にドリップの基礎を教えてくれた。
「コーヒーを淹れるときに、一番大切なことは何だと思いますか?」
「……豆の種類とか?」
「それもあります。でも、淹れる技術の中で一番大切なのは、"蒸らし"です」
「蒸らし?」
琴音は、カウンターの奥でドリップケトルを手に取った。
「お湯を注ぐ前に、少量の熱湯を豆に含ませて、数十秒ほど待ちます」
「なんで?」
「豆の中の炭酸ガスを抜くためです。焙煎したばかりの豆は、内部にガスを含んでいるんです」
「ガス?」
「ええ。もし蒸らしをしないでお湯を注ぐと、ガスが一気に放出されて、お湯と豆の接触がうまくいかなくなります」
琴音は、実際にお湯を細く注ぎながら説明する。
「こうやって、最初に少しだけ注いで、豆全体を湿らせます」
ドリッパーの中で、コーヒー粉がじわりと膨らむ。
「この状態で、20秒から30秒待ちます」
遥は、静かにそれを見つめる。
「なんだか……生きてるみたいですね」
琴音は、ふっと小さく微笑んだ。
「そうですね」
「じゃあ、蒸らしが終わったら?」
「次は、ゆっくりと中心からお湯を注いでいきます」
細く、一定の速度で注がれるお湯。
「焦らず、ゆっくり。豆の表面を撫でるように」
琴音の手つきは、まるで儀式のように繊細だった。
「コーヒーって、こんなに繊細なものなんですね」
遥がそう言うと、琴音はカウンターの向こうで静かに頷いた。
「ええ。豆の種類、焙煎の度合い、挽き方、注ぐお湯の温度や速度……どれかひとつでも違えば、味はまったく変わります」
「そんなに?」
「はい。たとえば、お湯の温度が高すぎると、苦味が強くなりますし、低すぎると酸味が際立ちます」
琴音は、そっとポットを傾ける。
「だから、バランスを見ながら、温度や時間を調整するんです」
遥は、コーヒーの滴がゆっくりとサーバーに落ちていく様子を見つめる。
「温度と時間……なんだか、料理みたいですね」
「そうですね」
琴音は、小さく微笑んだ。
「ただ正確に計るだけじゃなくて、豆の状態や湿度、その日の気温まで考慮する。そういう細かい調整を積み重ねることで、"いい一杯" になるんです」
遥は、静かにその言葉を噛みしめた。
「じゃあ、琴音さんは毎回そうやって調整してるんですね」
「ええ」
「それって……大変じゃないですか?」
琴音は、カウンターの奥でふっと目を伏せた。
「……そうですね。でも、これが私の仕事ですから」
静かで、揺るぎない声だった。
「それに、一杯のコーヒーを飲んだ人が、美味しいと言ってくれたら、それだけで十分です」
遥は、ふっと息をついた。
(そういう考え方、すごいな)
彼女は、ただ「コーヒーを淹れる」だけじゃない。
その一杯に、自分なりの"想い"を込めている。
だからこそ、カウンターのこちら側から見える世界は、遥にとって新鮮だった。
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カップにコーヒーが満たされる。
琴音は、それをそっと遥の前に差し出した。
「よかったら、飲んでみてください」
遥は、カップを手に取る。
立ち上る湯気。
口に含むと、程よい苦味と、わずかな酸味が広がる。
そして、後味は驚くほど柔らかかった。
「……美味しい」
遥がそう言うと、琴音は静かに目を細めた。
「琴音さんのコーヒー、やっぱり特別ですね」
遥がそう言うと、琴音は少しだけ瞬きをした。
「特別……ですか?」
「ええ。ちゃんと手をかけて、気を配って淹れてるのが伝わるというか……」
遥はカップを見つめながら続ける。
「コーヒーって、豆や淹れ方で味が変わるって話でしたけど、やっぱり、一番の違いは"誰が淹れたか"なんじゃないかなって思います」
琴音は、カウンター越しにじっと俺を見た。
「……どういう意味ですか?」
「同じ豆でも、同じ器具でも、たぶん琴音さんが淹れるのと俺が淹れるのじゃ、味は違うはずです」
遥は、カップを持ち上げ、そっと口をつける。
「この味は、琴音さんだからこそ出せる味なんだなって」
そう言うと、琴音はふっと目を伏せた。
「……そんな風に言われたのは、初めてです」
「そうなんですか?」
「ええ。私はただ、いつも通りに淹れているだけなので……」
琴音の指が、カウンターの縁をなぞる。
「でも……もし、私のコーヒーが特別だと感じてもらえるなら、それは嬉しいことですね」
琴音の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
遥は、その言葉を聞きながら、カップの中のコーヒーを見つめる。
この味を、遥はもう忘れないだろう。
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カフェ ミルテでの時間が、ゆっくりと、けれど確かに、遥の中に染み込んでいく。
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