変わらない味、変わる時間
カフェ・ミルテの朝。
遥はカウンターに立ち、コーヒー豆を手に取った。
袋を開けると、ふわりと甘い香りが広がる。
ゆっくりと豆をミルに入れ、慎重にハンドルを回す。
(僕のコーヒーは、エスプレッソより、少しだけ甘い)
もう、その味に迷いはなかった。
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「……何を考えているんですか?」
カウンターの向こうから、琴音の声がする。
遥は、ふっと微笑みながら顔を上げた。
「いつも通り、コーヒーのことですよ」
琴音は、少しだけ首を傾げる。
「……それだけ?」
遥は、彼女の言葉の意味を悟ると、少しだけ考えてから答えた。
「……いいえ」
琴音は、じっと遥を見つめる。
「……琴音さんのことも、考えてました」
彼女の目が、わずかに揺れる。
そして、微笑む。
「……それは、少しだけ甘いですか?」
遥は、思わず吹き出した。
「ええ。少しだけ甘くて、でも、ちゃんと苦みもある」
琴音は、カップに視線を落とす。
遥のコーヒーがそこにある。
「あなたの味は、変わらないですね」
遥は、カウンター越しに彼女を見つめながら、静かに答えた。
「……変わらない味を、変わる時間の中で飲むのも、悪くないですよね」
琴音は、一瞬驚いたように目を丸くしたあと、ゆっくりと微笑んだ。
遥は、コーヒーを一口飲む。
(この味は、もう迷わない。きっと、これからも——)
遥のコーヒーの味は、エスプレッソより、少しだけ甘い。
そして、これからも変わらずに、そっとこの時間を温めていく。
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海歌は、夜の風に吹かれながら、静かに歩いていた。
ポケットの中のキーケースに、指先を伸ばす。
青い薔薇のエンブレムがついたキーケース。
指先で軽くなぞりながら、ふっと笑う。
(……あたしは、結局、過去を吹き飛ばせてないのかもな)
遠くで、カフェ ミルテの灯りが揺れる。
琴音と遥。
二人は、これから「何か」を始めようとしている。
——あの頃のあたしとは違う。
キーケースを握りしめたまま、海歌は目を閉じる。
(それで、いいんだよ)
(もう、あたしは「風」だから)
海辺の道を歩きながら、ポケットの中のキーケースを指でなぞる。
青い薔薇のエンブレムが、夜の街灯の光をかすかに反射した。
ふっと目を細め、少しだけ笑う。
(……これを捨てるのは、まだ無理かな)
波の音が遠くから聞こえてくる。
夜の潮風が髪を揺らした。
彼女は、キーケースをゆっくりとポケットの奥へ押し込む。
そして——
何事もなかったかのように、軽く鼻歌を歌いながら歩き出した。
それは、彼女だけが知る、風のようなメロディだった。
「よし。あたしはあたしで、風に乗らないとな」
夜の江の島を吹き抜ける風に溶けるように、海歌の足取りは軽やかだった——。
——これは、ひとつの終わりであり、そしてまた新しい朝の始まり。
本日、『エスプレッソより、少しだけ甘く』は完結を迎えました。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。
物語を書き始めたとき、潮風の香る湘南のカフェに、遥と琴音の時間をそっと置いてみようと思いました。
一杯のコーヒーの温度と香りのように、ささやかで、でも確かに心に残る物語を紡ぎたい——
そんな気持ちで、ひとつひとつの言葉を綴ってきました。
遥は、自分の居場所を探しながらこの店にやってきて、琴音と出会い、そしてふたりの間にゆっくりとした時間が流れました。
彼らの間にあったものは、恋愛という形だけではなく、「誰かとともに歩むこと」「迷いながらも進むこと」の大切さだったのかもしれません。
たとえ道に迷っても、大切な人が隣にいてくれるなら、それはきっと、ひとつの答えになる。
そんな願いを込めて、この物語を描きました。
読んでくださった皆さんにとって、『エスプレッソより、少しだけ甘く』が、少しでも心に残る時間になっていたら嬉しいです。
カフェ・ミルテの扉は、物語としては閉じますが、あの店の香りや、遥と琴音の静かなやり取りは、これからもどこかでそっと続いている気がします。
ふと海の香りを感じたとき、コーヒーの温かさに包まれたとき、彼らのことを少しだけ思い出してもらえたら幸せです。
最後にもう一度、心からの感謝を。
この物語に触れてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
——また、どこかの物語の中で、お会いできますように。




