エスプレッソより、少しだけ甘く
カフェ・ミルテの一日が終わり、店内には心地よい静寂が広がっていた。
遥はカウンターで、一つのカップを前に静かに座っていた。
(この選択は、間違っていないだろうか)
ふと、視線を落とす。
目の前にあるのは、いつも通りのコーヒー。
けれど、今夜は少しだけ特別だった。
カウンターの向こうでは、琴音が片付けを終え、ゆっくりと歩み寄る。
「……遅くなりましたね」
「ええ。でも……最後に、一杯どうですか?」
遥は、そっと琴音の前にカップを差し出した。
琴音は、一瞬、その手元を見つめる。
「……これは?」
遥は、柔らかく微笑んだ。
「僕のコーヒーです」
琴音の視線が、カップへと落ちる。
立ち上る湯気、香ばしさの中に、かすかに漂う甘さ。
(遥さんのコーヒー……)
彼が、自分の味を見つけたことは知っていた。
「エスプレッソより、少しだけ甘い」——
その言葉は、確かに遥のコーヒーを表していた。
けれど、それを自分が口にするのは——これが初めてだった。
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遥は、そっと言った。
「僕のコーヒーは、エスプレッソより、少しだけ甘いです。……琴音さんに、飲んでほしいと思って」
琴音は、その言葉の意味をゆっくりと噛み締める。
(遥さんの味……)
彼が、自分のために淹れたコーヒー。
彼が、自分のために探した味。
その事実が、胸の奥で静かに響いた。
小さく息を吸う。
そして、そっとカップを手に取った。
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静かに、口をつける。
最初に感じたのは、穏やかな苦み。
だが、その後にじんわりと広がる、ほんのりとした甘さ。
(……ああ)
気がつけば、そっと瞳を閉じていた。
(この味は——)
遥が、自分のために淹れてくれた味。
遥が、自分を想って作った味。
(……優しい)
そして、どこか懐かしい。
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「……どうですか?」
遥の問いかけに、琴音は静かに目を開けた。
ゆっくりとカップを置き、ふっと微笑む。
「とても、あなたらしい味ですね」
遥は、少しだけ照れたように目を伏せる。
「そうですか?」
琴音は、そっと頷いた。
「ええ。優しくて、温かくて……でも、確かに芯がある」
遥は、一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
「それなら……よかった」
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琴音は、カップを見つめる。
遥のコーヒーは、確かに——
「エスプレッソより、少しだけ甘い」。
それは、彼の味であり、彼の想いだった。
琴音は、そっと目を閉じる。
(私は……)
(私の音を、見つけられたのだろうか)
彼のコーヒーが「遥の味」なら——
自分のピアノは?
指先で、カップをゆっくりと回す。
そこには、まだかすかに、遥の温もりが残っていた。
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カフェ・ミルテのピアノの前に座る。
鍵盤に、そっと指を置く。
遥は、静かに見守っていた。
琴音は、ゆっくりと息を吸う。
(私は、私の音を——)
(ようやく、見つけた気がする)
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最初の音が、柔らかく響いた。
それは、彼女自身の音。
甘く、優しく、確かに心に残る旋律だった。
この音が、ずっと聞けたらいい。
そんなことを、不意に思った。
遥は、静かに目を閉じる。
ほんの少し、甘さを感じながら。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。
『エスプレッソより、少しだけ甘く』、次のお話が最終話となります。
カフェ・ミルテの扉を開いて、遥と琴音が出会った日から、物語はゆっくりと進んできました。
迷いながらも、一歩ずつ。
コーヒーの温度を確かめるように、お互いの心をそっと確かめながら。
このお話が、誰かの心に静かに寄り添うものになっていたら、これ以上の幸せはありません。
最後の一杯を、一緒に味わっていただけますように。
ラストのひととき、どうぞ最後までお付き合いください。




