変わる時間、変わらない場所
翌日、カフェ・ミルテの扉を開けると、いつもの空気が迎えてくれた。
コーヒーの香り、カウンターの向こうで立つ琴音さんの姿。
何も変わらないはずの風景。
でも——
（昨日のことを思うと、どうしても意識してしまう）
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「おはようございます、琴音さん」
そう言うと、琴音さんがいつものように微笑んだ。
「おはようございます、遥さん」
声のトーンも、表情も、昨日までと変わらない。
なのに——
（何かが違って聞こえるのは、僕の気のせいだろうか）
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昨日、琴音さんははっきりと言った。
「私……ピアノを弾き続けたいです」
その言葉を聞いたとき、僕は何も言えなかった。
ただ、よかったですね、としか。
でも、そのたった一言の裏に、僕はどれだけの想いを込めていたんだろう。
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カウンターの向こうで、琴音さんがコーヒーを淹れている。
いつも通りの動作なのに、その指先を見ていると、昨日のピアノの音が蘇る。
——即興の旋律。
——琴音さんが「自分自身のために」弾いた音。
（あの音は、確かに僕に届いた）
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「遥さん？」
「……え？」
琴音さんの声に、はっとする。
「コーヒー、もうすぐ落ちますので、少しお待ちくださいね」
「あ、はい……」
つい、琴音さんを見つめすぎていたのかもしれない。
琴音さんは、少しだけ不思議そうに首を傾げた。
（僕は……何を考えていたんだろう）
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カウンターの奥から、前田さんの楽しげな声が響く。
「あらあら、琴音ちゃん、最近なんだかいい顔してるわねぇ」
「ああ、なんかすっきりした感じがするな」
菊池さんが、ふっと目を細める。
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琴音は、驚いたように瞬きをする。
「……そうですか？」
「そうよ。なんというか、肩の力が抜けたというか、表情が優しくなったっていうか」
「ふふ、それは、いいことですね」
琴音が小さく微笑むと、前田さんが「ほんとにもう〜」と軽く肩をすくめる。
「ねぇ琴音ちゃん、そろそろ白状しなさいよ。何かいいことあったんでしょ？」
琴音は、少し考えるようにカップを拭きながら、静かに答えた。
「……特に、何も」
「またまたぁ。そりゃまあ、無理に聞き出すつもりはないけどねぇ……」
前田さんがちらりと菊池さんを見る。
菊池さんは、静かにカップを持ち上げ、一口飲んでから、ぽつりと呟いた。
「……いい音だったぜ」
琴音の手が、一瞬止まる。
「……聞いてたんですか？」
「いや、聞いちゃいねぇさ」
菊池さんは、どこか遠くを見つめるようにしながら、淡々と続けた。
「けどな、聞かなくてもわかるんだよ。長年付き合ってりゃな」
琴音は、一瞬言葉を失い、それからふっと小さく笑った。
「……そうですか」
「うんうん、なるほどねぇ」
前田さんが、満足そうに頷く。
「そういうことなら、あたしも深くは聞かないわ。でも、なんとなくわかる気がするのよねぇ……」
琴音がカウンターの隅に置かれた楽譜をそっと撫でる。
菊池さんが、静かに言った。
「大事にしな」
琴音は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
（やっぱり、この人たちには、全部お見通しですね）
カップの向こうで、前田さんがにこにこと微笑んでいた。
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「なあ、遥」
「はい？」
菊池さんが、ふと僕を見て言う。
「お前が来てから、この店の雰囲気が少し変わった気がするぜ」
「え……？」
「前より、少しだけ甘くなったっていうかよ」
「……甘く？」
「琴音ちゃんのピアノもそうだがよ、お前が来てから、ここには新しい風が吹いてるんだ」
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僕は、一瞬言葉に詰まる。
（そんなこと、考えたこともなかった）
でも、そうなのかもしれない。
僕がここに来て、琴音さんと話して、働いて、そして——
（……昨日の演奏）
彼女が、自分自身のためにピアノを弾いたこと。
それは、少しずつ変わっていくカフェ・ミルテの象徴のようにも思えた。
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琴音さんが、ふと僕を見た。
「遥さん」
「……はい？」
「今日のコーヒー、少しだけ甘めにしてみますね」
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僕は、一瞬戸惑った。
でも、すぐに微笑む。
「……お願いします」
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いつもの風景。
変わらないカフェ・ミルテ。
でも、何かが変わり始めている。
そして、それはきっと、これからも少しずつ——
変わる味、変わらない時間。
そんな風に、続いていくのかもしれない。
