ともにある、ということ
「遥さん」
琴音さんが、静かに僕の名前を呼んだ。
その声は、どこまでも穏やかで、どこまでも澄んでいた。
僕は、ただ彼女の瞳を見つめる。
「私……ピアノを弾き続けたいです」
---
その言葉が、静かに夜のカフェに響いた。
彼女の表情には、もう迷いがなかった。
(琴音さん……)
それは、たった一言だったのに。
それまでのすべての時間が、この瞬間のためにあったのだと、僕は思った。
---
初めて会った日、彼女はどこか距離のある人だった。
カフェの仕事をしながらも、一歩踏み込むことをためらうような雰囲気があった。
でも、それはただ「距離を取っていた」のではなく——
「踏み込まれることを恐れていた」のかもしれない。
---
ピアノに触れる琴音さんを見たとき、僕は思った。
「この人の音を、もっと聴きたい」と。
でも、僕がそれを望む以上に、琴音さん自身が、音を取り戻すことを望んでいたのかもしれない。
---
「ピアノを弾き続けたい」
彼女がそう言ったことが、ただ嬉しかった。
でも、それだけじゃない。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
(僕は……これからも、琴音さんの音を聴いていたい)
それは、ピアノの音だけじゃなくて。
彼女の生きる音、そのすべてを。
---
(僕は……この人と一緒にいたい)
それは、仕事の関係でも、常連と店主という関係でもなく。
もっと深く、もっと確かなものとして。
でも、それを今、言葉にするのは違う気がした。
だから、僕はただ——
「琴音さん」
彼女の名を呼ぶ。
すると、琴音さんが、少しだけ目を丸くした。
「……はい」
「……よかったですね」
遥の声は、静かに夜の空気に溶けていった。
琴音は、少しだけ瞬きをする。
(よかった……)
遥の言葉の意味を、琴音は考える。
それは、自分がピアノを弾いたことに対してなのか。
それとも、もう一度"音と向き合う"と決めたことに対してなのか。
(それとも——)
琴音は、ふとカウンターに視線を落とす。
そこには、遥から贈られた楽譜。そして、その隙間にそっと挟まれたミルテの花の栞。
小さな白い花が、静かな灯りの下で優しく揺れている。
(遥さんの気持ちが、ここにある)
胸の奥が、ほんの少しだけ疼く。
それは、遥の言葉以上に、確かに感じられるものだった。
「はい」
そう返すと、遥は少しだけ微笑んだ。
何も聞かないまま、それを受け止めるように。
琴音は、カウンターに置かれたカップを指先でなぞった。
少しだけ冷めかけたコーヒーの縁に、夜の灯りが反射している。
(きっと……遥さんは、本当の意味を言葉にしない)
けれど、それでいいと思った。
今は、ただこの時間があれば、それで。
夜風が、カフェの窓をそっと揺らした。
遠く、江の島の灯台が瞬いているのが見えた。
もっとテンポよく投稿して欲しい!いや、ゆっくり投稿して欲しい。又は、誤字脱字、ここが良かった・悪かった等ご意見ありましたら是非お気軽に感想ください。
また、ブックマークや評価を頂けると嬉しくなります・・・!




