音と共に、生きる
即興の最後の音が消えたとき、琴音は静かに息を整えた。
鍵盤の上に置かれた指先が、微かに震えていることに気づく。
それは、緊張ではなく——
(私……今、どんな音を弾いたんだろう)
遥さんに、どう届いたのだろう。
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ゆっくりと視線を上げる。
遥さんは、じっと私を見ていた。
その瞳の奥に、確かに何かが揺れている。
けれど、それは迷いではなく。
むしろ、私よりもずっとはっきりとしたもののように思えた。
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「琴音さん」
遥さんが、静かに私の名前を呼ぶ。
その声が、どこまでも優しくて、どこまでも真っ直ぐで——
胸の奥が、温かくなる。
(私は……)
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遥さんの言葉を、思い出す。
「琴音さんの音は、もう届いていますよ」
「琴音さんが弾いたら、どんな音がするんでしょうね」
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遥さんは、私がピアノを弾くことを、いつもどこかで支えてくれていた。
でも、それは「ただ弾いてほしい」という願いではなくて——
「私自身が弾きたいと思うようになること」を待っていてくれたのだ。
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(私は、ピアノを弾きたい)
それが、今ならはっきりわかる。
母のためでも、誰かのためでもなく。
(私は……私自身のために、ピアノを弾きたい)
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遥さんがいてくれたから、私はピアノと向き合えた。
遥さんがいてくれたから、私は音を取り戻せた。
そして、私は——
(遥さんに、この音を届けたかった)
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ふと、海歌さんの言葉を思い出す。
「花は、自らの喜びのために咲く」
私がピアノを弾くことは、私自身のためでもいいのだ。
そして——
(もし、それが誰かの心に届くのなら)
それは、きっと音楽が持つ、かけがえのない力なのだろう。
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琴音は、遥を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「遥さん」
遥の瞳が、わずかに揺れた。
「私……ピアノを弾き続けたいです」
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その言葉を口にした瞬間、琴音の中の迷いは、すべて消えていた。




