私の音
『愛の夢』の最後の音が消えた。
静寂が訪れる。
遥さんの視線を感じる。
そっと目を開けると、彼はただ静かに私を見つめていた。
その目に、何かを問いかけるような色が滲んでいる気がした。
でも、私もまた、答えを言葉にすることができなかった。
(でも……)
このままでは終われない。
このままでは——
(伝えきれない)
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指が、自然と鍵盤の上に戻る。
自分でも、なぜこのまま弾き続けようとしているのか、わからなかった。
けれど——
私の中に溢れるものを、音に乗せたくてたまらなかった。
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——即興演奏が、始まった。
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最初の音は、静かだった。
まるで、呼吸をするように、そっと空気に溶けるような音。
でも、それは確かに「今」の私の音だった。
遥さんがくれた『悲愴』。
母と弾いた『献呈』。
遥さんに伝えたかった『愛の夢』。
それらすべてが混ざり合って、私の指が動いていく。
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音が、遥さんへと向かう。
遥さんが、私にくれた音があったように。
今度は、私の音を、遥さんに届けたい。
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(遥さん……)
いつからだろう。
私は、あなたを意識していた。
あなたの言葉に励まされ、
あなたの優しさに戸惑い、
あなたがそばにいることが当たり前になって。
そして——
(遥さんが、私にとって「特別な人」になってしまったのは)
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音が、優しく、でも確かに熱を帯びていく。
遥さんは、きっと私のことを何も言わずに見守ってくれる。
でも、それだけでは足りない。
(私は、あなたに——)
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愛することとは、許すこと。
遥さんは、そう言っていた。
見返りを求めず、ただ相手を想うこと。
そして、海歌さんはこう言っていた。
「花は、自らの喜びのために咲く」
私は、今までずっと、誰かのために音を弾いてきた。
母のため、父のため、店のため——そして、遥さんのため。
でも——
(私は、私自身のために、音を奏でたことがあっただろうか)
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音が、ゆっくりと大きく広がっていく。
(私は……)
遥さんに、音を届けたくて弾いている。
でも、それだけじゃない。
遥さんが、私にくれたものを、私自身が受け入れたくて。
私自身が、自分の音を、信じたくて。
だから——
(私は、私のために、この音を弾く)
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即興の旋律が、ピークを迎える。
強く、でも優しく。
遥さんがくれた音を、私自身のものにするために。
遥さんへの気持ちを、音に乗せて。
遥さんに、届くように。
遥さんに——
(遥さんに……)
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最後の音が、ゆっくりと消えていく。
静寂が訪れた。
琴音は、そっと目を閉じた。
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私は、遥さんのことを——
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目を開く。
遥さんが、じっと私を見ていた。
(……届いた?)
何も言わなくても、伝わっただろうか。
遥さんの目の奥が、揺れているように見えた。
それが、答えだったのかもしれない。
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『愛の夢』が終わったあと、琴音は静かに息を整え、鍵盤から手を離した。
けれど——
彼女の指は、再び鍵盤へと戻る。
(……続けて弾くのか?)
遥は、琴音を見つめた。
彼女の横顔は、いつもより柔らかく、そして少しだけ熱を帯びているように見えた。
そして——
最初の音が、静かに流れた。
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(これは……)
遥は、瞬時に気づいた。
これは、楽譜のある曲じゃない。
即興——
琴音さんが、今この瞬間、感じたものを音にしている。
(なぜ、弾こうと思ったんだろう)
遥は、彼女の指の動きをじっと見つめた。
その旋律は、どこか懐かしく、でも新しく——
まるで、琴音さん自身の心がそのまま映し出されたような音だった。
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(この音は……琴音さんの“答え”なのか?)
遥は、胸の奥がざわめくのを感じた。
琴音さんは、今までどこか迷っているように見えた。
ピアノに向き合うこと。
音を届けること。
そして——自分の気持ちを、自分で受け入れること。
でも、今の音には、迷いがなかった。
(琴音さんは……)
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音が、遥の心の奥深くへと入り込んでくる。
静かに、でも確かに——遥の胸を震わせる音。
遥は、ふと気づいた。
この音は、「誰かのために」奏でられたものではない。
これは、琴音さん自身のための音なんだ。
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遥は、思い出す。
琴音さんは、ずっと誰かのためにピアノを弾いていた。
母のために。
父のために。
店のために。
そして、きっと僕のために。
でも、今のこの音は——
彼女自身が、自分のために奏でている。
(これは……彼女が、自分自身を取り戻す音なんだ)
遥の胸が、熱くなった。
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それでも、この音には、確かに何かが込められている気がした。
それは——
遥のための音なのか。
それとも、遥に届けたい何かがあるのか。
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音が、少しずつ熱を帯びていく。
遥の心もまた、それに呼応するように高鳴っていく。
(琴音さん……)
遥は、彼女の横顔を見つめる。
彼女の瞳は、鍵盤に落ちていた。
その表情は、まるで——
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音が、遥の心に語りかける。
「私は、ここにいる」
「私は、音とともに生きている」
「そして——」
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最後の音が、静かに消えた。
琴音が、そっと目を閉じる。
遥は、彼女の姿を見つめたまま、言葉を失っていた。
そして、琴音がゆっくりと目を開く。
遥の視線と、琴音の視線が重なった。
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遥の胸が、強く打つ。
(今……琴音さんは、僕を見てくれている)
ただの店長とバイトでもなく、
ただの常連と店主でもなく、
一人の人間として、僕を見つめてくれている。
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何かを言おうとした。
でも、言葉にならなかった。
けれど、琴音さんの瞳を見ているだけで、すべてが伝わる気がした。
遥の中で、確信が生まれる。
(僕は……)
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「琴音さん」
遥は、静かに呼んだ。
琴音は、少しだけ驚いたように瞬きをする。
その視線は、遥だけを見ていた。
(これは……もう、答えを知ってしまったようなものだ)
遥は、目を閉じ、静かに息を整えた。
そして、再び目を開くと——
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琴音は、微笑んでいた。
遥は、その微笑みを、深く胸に刻み込んだ。
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